10月1日 67期会
我々より5年先輩の67期の最後の御連絡(A4判 8頁)を頂いた。67期は卒業248名、戦没者155名、戦没率62.5%と多数の戦没者を出しているが、今年総員が90歳の卒壽を越え、生存者は18名と卒業生の7.2%となったので、今年11月の忘年会を最後とし、総てのクラス会活動を終結される。クラス会の終結に伴い、クラス基金の残金は卒壽祝いとして生存者に配布される。尚永代神楽祭は従来通り行われるが有志個人の参拝とされている。
記事の要約
1 最終クラス会 11月24日1230−1430
2 訃報 二間瀬国朗様 21.6.17没 今井梅一様 21.8.20没
(お二人の弔辞掲載)
3 永代神楽祭 21.6.17実施 出席 級友7名、家族4名、遺族8名 計19名
4 消息 級友18名、御遺族8名の近況報告あり。
東京クラス会参加について、高田俊彦君からメールを,宮田 實君から葉書を頂いた。(計17名)
10月2日
今日は阿久根正君、深尾秀文君から東京クラス会参加の葉書をもらった。(参加者計19名)
10月3日
今日は松下太郎君から東京クラス会参加の葉書をもらった。(参加者計20名)
岡本、和田両君から東京クラス会の案内のメールも葉書もこないと電話があった。一括名あてのメールで送ったのだが、なにかの都合で目に入らなかったと思われるので、再度メールを送った。まだ、返事を貰っていない7名の会員にも念の為メールを再送した。
今日は和田恭三君,泉 五郎君,岡本俊章君から東京クラス会参加のメールをもらった。(参加者計23名)
海軍兵学校74期から次の招待状を頂いた。
「謹啓 時下ますますご清祥の趣、大慶に存じます。
さて、海軍兵学校第74期会(副称・江鷹会)は昭和17年以来、70年間にわたりクラス会活動を続けて参りましたが、高齢化の影響は如何とも出来ず、美しい幕引きを念じ、本年末をもって解散することになりました。長期にわたる皆様のご指導、ご協力誠に有り難うございました。
最後の{全国大会」を左記の通り実施致します。ご多忙中誠に恐縮ですが、ご臨席の栄を賜りますようご案内申し上げます。
記
1.期日 平成21年12月1日(火)
2.行事概要
海上自衛隊音楽隊演奏会 於 九段会館 1030〜1130
総会・解散宣言 於 ホテルグランドパレス 1215〜1220
懇親会 於 ホテルグランドパレス 1220〜1445
(以下略)
門松安彦君から東京クラス会参加の葉書を頂いた。(参加者計24名)
9月27日にブログとメールで、なにわ会だよりの文字の大きさを10Pから12Pに変更する件について、山本省吾君、岩松重裕君、上野三郎君、左近允尚敏君、樋口 直君、都竹卓郎君、窪添龍輝君の7名から賛成の返事を頂きました。反対意見は皆無でした。よって、なにわ会だより第2号から文字の大きさを12p、行間24pに変更させて頂きます。
はや10月になりました。
9月には9月21日のブログに書いた5名Noほか、中川 毅君(横須賀沖(横空))と村松義隆君(台湾東方洋上(攻706))の2名が戦死していました。
今から65年前の10月には「なにわ会員」68名という多数の同級生が戦死しています。先ず、10月3日に内山敬三郎(バリックパパン上空(戦309))と武田昌男君(神奈川県(302空))の2名が10月3日に戦死しています。
77期の岩崎八朗さんから左近允尚敏君に送られた「海軍兵学校72,73,74期の写真入りCD」を左近允尚敏君から送って頂いた。1号時の分隊別写真が名前入りで入っていた。この写真はニュースに掲載されたことがあり、↓のHPにも取り込んである。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/mokuji-bunntaisyasin1.html)
73期、74期の全員の個人写真も入ってる。
泉 五郎君から「三田学園後輩諸君へ(後編)」を送って貰った。この中に戦没した園田勇君(機)と北植武男君のことが詳細に書かれている。まだ、ニュース等に掲載されいない記事があるので、なにわ会だより第2号で紹介したい。
横田敏之君から東京クラス会参加の葉書を貰った。(計25名)
台風18号が日本本土直撃。伊勢湾台風並みの猛列な台風。
10月9日
先日頂いた泉五郎君の三田学園への記事のうち園田君の所をスキャナーでパソコンに取り込んだ。第2号に掲載したい。
向井寿三郎君から要旨次の葉書を貰いました。
この2年程前から、目はかすみ、耳は遠くなり、両脚の関節をはじめあちこち筋肉痛に見舞われています。加えてチョット動いても直ぐに息があがる。愚鈍な私はこの歳になって老いとはかくも厳しいものかと嘆く事しきりです。来年以降のことですが体調が今年より良くなることはないと思いますのでご案内の義は辞退致します。遅くなりましたが、ニュース100号、素晴らしい出来栄え、感嘆しました。裏表紙の加藤兄の写真には「おい 加藤、いいことあったようだね。俺にも少し分けてくれよ。」と思わず挙手の礼を致しました。
北海道から横浜に転居した高木亮司君から次の葉書を頂きました。
クラス会には長年大変お世話になり遅ればせながらお礼申し上げます。 100号の出版も無事終られたこと御苦労さまです。
私積年の落葉松の手入れで肩を痛め会食が出来ず欠席いたします。靖國の参拝も12月8日と8月15日、釧路時代から腰痛で杖をついて続けております。本年の8月15日は東横線のに日吉から乗った向いの席の方がじっと見ておられ、今日は混むから私から離れないでと先導してれました。
釧路時代は厚岸沖で駆逐艦白雪で戦死した2人(石原、大田両君)の命日に家内と運転して行きましたが、家内没後は行っておりません。
電話番号は第1号掲載の番号で間違いありません。御迷惑おかけしました。念のため私の携帯番号もお知らせします。(掲載略)物忘れがひどく、外出時は必ず持って歩いています。昨日久しぶりになにわ会のブログを読みました。会員諸兄のお元気な様子が見えるようで嬉しくなりました。今後も宜しくお願いします。
なにわ会だより第1号は52頁であった。2号からは32頁程度に纏めたいと書いたが、会員諸君からの投稿が多く嬉しい悲鳴をあげている。それだけ会員の絆が強いのだろう。第2号には泉五郎君の「園田勇君(機)」の記事、浅村晃司君の「昨日の敵は今日の友」、田島明朗君から頂いた「秋田実君の最後」等があって、第1号を上回って72頁にもなりそうである。クラス会基金の面で心配もあるが、後何年続けられるか分らないが、会員諸君の期待に応えていきたいと思う。基金不足の時は会員諸君、ご協力よろしくお願いする。
溝井清君から東京クラス会参加の連絡があった。(計29名)
今から65年前のこの日 昭和19年10月12日から戦没者が顕著になってきた。
台湾沖航空戦の時である。この日には、伊藤保君が台南上空(高雄空)で、木原建君が台湾上空(台南空)で、山口勝己君も台湾上空(戦401)で、山崎惣男は台湾方面(攻703)でそれぞれ戦没している。
65年前の台湾沖航空戦( 1944年10月12日 - 10月16日)は、太平洋戦争における戦闘の1つ。レイテ島の戦いに先立って台湾から沖縄にかけての航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊を、日本軍の基地航空部隊が迎撃した。アメリカ軍には損害は軽微であったが、日本軍は戦果を誤認し過大な大本営発表を行い、続いて生起したレイテ沖海戦に重大な影響を与えた。
12日の4名の戦死に続いて13日川端博和君(偵3)台湾沖で戦死した。
浦本生君から東京クラス会は体調不良の為欠席の葉書を貰って。体調回復したら来年は是非参加したいとのこと。
上野三郎君から写真入りで次のメールを頂いた。
前列 左より 安藤(72期)、上野(72期)、川越(73期)
後列 左より 小玉(74期)、堤 (74期)、長澤(74期)
本日グランドヒル市ヶ谷で16分隊会が開催された。1年経っても参加者は皆元気で(流石足腰の弱りは否めず立つときはドッコショと掛け声が必要になった。当初は今回で幕引きにしてはと思っていたが、簡単に来年もやろうと、それへの出席を目指しお互い健康に注意する事になるのでと言う事になった。話題は過去の思い出話しが多く、しかも殆どは苦しかったことよりも楽しかった話題でポヂチブに賑わった。特に安藤昌彦君の搭乗機墜落後救済されるまでの情況、又撃墜したアメリカ人にアメリカに招かれ歓待を受けた事等貴重な秘話は皆の関心を寄せた。参加者は6名と少なかったが若かりし頃の世界にタイムスリップする絶好の機会だつた。
又参加者よりなにわ会のブログは各クラスを通じ抜群で伊藤さんは大したものだと賞賛されていた。
(73期からは狩野君が亡くなったので手を付ける者が居なく恥ずかしいとの発言もあり。)
参考のために生存者の情況は下記の通り
卒業時の員数 平成21年10月生存者 平成21年分隊会出席者
一号 10名 2名 2名
二号 15名 2名 1名
三号 16名 6名 3名
合計 41名 10名 6名
各号とも生存者率がクラス全体の平均より低いのが目立つ。
2号の時の54分隊の73期木曽康太君から送られた資料を泉五郎君から頂いた。54分隊の故巻石蔵君と故宮地榮一君が作詞した次の歌詞が有ったので、掲載する。
作詞 巻 石蔵(72期)
作曲 田中 公夫(71期)
流転の定め人の世に 有情四十の丈夫が
奇しくも結ぶ一年の 名残を長く留めんと
森の木陰に夢の花 乱れて咲きぬ五十四
君し知れりや武士の 期せし覇業は難くとも
遂げずば止まじ胸に湧く 熱き血潮の雄叫びに
見よ古鷹の峯高く 北斗の空も揺るぐなり
ああよしさらば暁の 海に鍛えん此の腕
血に固めなん此の契り 伝統此処に創む可く
必勝の気に燃え立ちて 今ぞ勝利の道を行く
作詞 宮地(富士)栄一(72期)
作曲 田中 公夫(71期)
貴様は九州薩摩芋 俺は東北雪達磨
だけど今では江田島の 北も南も戦友だ
貴様はバチレンクリスチャン 俺は真言ナンマイダ
それも今では糞喰え 俺にゃ貴様が仏様
貴様は髯面親父殿 偉は可愛いお稚児さん
それも同じ三号の 泣くも笑うも風任せ
何の縁か同じ世に 俺だ貴様と呼び合って
飯を分け合う縁じゃもの 閻魔の前でも俺貴様
台湾沖航空戦第3日のこの日は次の5名が戦没している。、
黒田二郎(戦316) 台湾東方海面
鈴木忠雄(攻5) 沖縄南方海面
武原鐵平(攻252) 台湾東方海面
山崎正男(攻405) 台湾東方上空
山根 光(302空) 厚木基地
原田種睦君から東京クラス会参加の葉書を貰った。(計31名)
10月15日
昭和19年の10月15日の台湾沖航空戦の戦没者次の4名。
田辺光男(戦302) 台湾東方洋上
土井 渉(801空) 台湾東方海面
水野英明(偵3) 沖縄方面
山下 宏(攻3) 台湾沖
次の会員から東京クラス会欠席の葉書を頂いた。
岸本一郎君、亀谷敏明君(いずれも体調不良) 林 藤太君(家事の都合)
昭和19年の10月16日の台湾沖航空戦の戦没者次の1名。
小林 優(攻256) 台湾南方海面
このころの私の行動次のとおり。
10月7日 リンガで巡洋艦羽黒を退艦。横須賀で艤装中の駆逐艦楓に着任する為、駆逐艦に便乗してシンガポールに戻り、10月10日、日本航空の飛行機でシンガポールを出発し、当時の仏印ハノイで一泊。10月12日 ハノイ発台北着の予定のところ、台湾空襲中との情報が入り香港に緊急着陸した。当時は捷一号作戦の直前であり、台湾も緊急事態で何時帰れるか分からなくなっていまった。飛行機を諦め内地に帰投する艦を捜したがこれも見つらず、何時帰れるか案じていた。同地待機も5日になったところ、16日、明日台北まで行く海軍機があり、これに便乗することになった。10月17日 香港発、同日台北に到着、同地に2泊した。
昨15日、湘南歩こう会が有り、男子 幸田、浦本、高田、深尾の4君、女子伊藤、小松崎、深尾、藤井の4夫人計8名が参加。
昨日佐世保中学の同窓会ゴルフコンペに参加、同校の同級生森野広君と一緒になった。森野君は海兵73期で航空母艦雲龍が昭和19年12月19日米潜に沈められた時のただ一人の生存士官で、彼の雲龍体験談がなにわ会ニュース18号20頁に掲載されている。その中に、同艦で戦死したなにわ会会員、古宮弘一、森本 徹、椋田郁故、大垣浩一郎の4君の事が書かれている。ここに紹介して4君のご冥福を祈る。
改築後の第1生徒館(西生徒館)
改築後の第2生徒館(東生徒館)
改築後の大講堂
故井ノ山威太郎君の弟さん、井ノ山隆也様のHPにある海軍兵学校第1、第2、生徒館及び大講堂の建て替え記事をなにわ会HPに取り込みました。
住田富士男(戦316)台湾方面で戦死
19年10月12日から17日迄の6日間で18名の航空要員が台湾沖航空戦で亡くなっている。
65年前の19年10月17日、楓に転勤旅行中の私は香港から台北に到着、18日は台北で次の飛行機を捜していた。この日から21日迄はなにわ会会員の戦死者は無かった。
昨日取り込んだ海軍兵学校第2生徒館及び大講堂の記事について井ノ山さんから誤記入の指摘を頂いて訂正した。
高松道雄君、吉江正信君から東京クラス会参加の葉書を,奥山寿一君から欠席(他用の為)のメールを頂いた。(計33名)
先日なにわ会だよりを追加お送りした加藤夫人からご寄付付きのお礼のお手紙を頂いた。ご厚意有り難く拝受しました。加藤さんと小灘さんの寄付金をなにわ会口座に振り込んだ。
73期の故対馬秀志様の娘さんから、なにわ会HPに取り込んだ「空母雲竜の最後}を見て感想を頂いた。
10月20日 HPのトップ頁改正中
段々歳を取ってきたためかHPが見難くくなったきた。そこで先ずTOP頁を見やすいように訂正している。
今日20日が11月12日の東京クラス会の出席通知の締切日。現在35名の参加、明日の郵便を見て整理して報告致します。
10月21日 東京クラス会
11月12日の東京クラス会参加予定者は36名です。会員宛メールで集計結果を流しました。午前中に送ったメールに誤りが有り訂正メールをおくりました。
早速市瀬文人君から出席の電話を貰いました。計37名になりました。
10月22日
なにわ会HPの訂正、完了しました。見やすくなったと思います。
65年前の今日昭和19年10月22日、第一遊撃部隊ブルネイ出撃、レイテに向かう。
この日池上勝也(佐伯空)が九州南方海面で戦没している。
10月23日
65年前のこの日、10月23日1時16分、パラワン水道を航行中の栗田艦隊を第7艦隊所属の潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) がレーダーで発見し、ダーターは、6時32分栗田艦隊旗艦の重巡洋艦愛宕に対し艦首発射管から魚雷6本を発射、それから急旋回して重巡洋艦高雄に対し艦尾発射管から魚雷4本を発射した。愛宕には魚雷4本が命中し、6時53分に沈没、この時重森光明(機)が戦死した。この被雷1分後、高雄に魚雷2本が命中した。高雄は大破し、駆逐艦朝霜と水雷艇鵯に護衛されブルネイに後退した。
6時57分、今度は重巡洋艦摩耶に潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の放った魚雷4本が命中、摩耶は7時8分に沈没、この時、東郷良一が戦死した。栗田中将は旗艦を戦艦大和に移しレイテ湾に向かって進撃を続けた。
この外、市川繁(攻5)が比島レイテ沖で戦死、この日の戦没者3名。苦しい戦いの始まりであった。
幸田正仁君から東京クラス会は他用の為欠席の電話を頂いた。
10月24日
65年前の10月24日8時過ぎ栗田艦隊はアメリカ軍第38任務部隊に発見され攻撃を開始された。武蔵と妙高に魚雷1本が命中した。妙高は速度が12ノットに低下し離脱した。12時6分、武蔵に魚雷3本、爆弾2発が命中した。この攻撃で武蔵の速度は22ノットに低下した。13時30分、魚雷5本、爆弾4発を命中した。武蔵の速度は16ノットに低下した。14時30分、第4群の空母フランクリン(USS Franklin, CV-13)からの第4次攻撃隊32機が来襲し、大和に爆弾1発が命中した。14時59分、魚雷11本、爆弾10発が命中し武蔵は艦隊より落伍、2軸運転となり、大量の浸水により速力は6ノットに低下した。その後機関が停止して午後7時35分に転覆沈没した。他に長門と利根に爆弾2発、駆逐艦清霜に爆弾1発が命中した。武蔵には野村治男君、山元 奮君、村山 隆君(機)が勤務していたが、3名とも運よく生還した。
この日の戦没者は
相沢 昇(戦804) 台湾東方海面
小岩井博(豊橋空) 比島上空
西岡 弘(攻5) 比島東方海面
幡井重丈 (攻702) 比島アパリ附近
吉富 清(戦317) 比島方面
森 多久二(901空) 比島東方海面
の6名であった。
足立之義夫妻、東京クラス会出席の葉書を頂いた。(計39名)
74期 前田 晃
様 平成21年10月21日 没
10月25日 レイテ海戦
19年10月はレイテ海戦のあった月。この25日には22名の会員が戦死している。そこで、なにわ会会員の戦没時機を分析してみた。結果をHPにとりこんだ。それから得たものが次の通りである。
卒業した昭和18年の9月15日から年末までの3月半の間の死亡者は僅か3名で殉職1名、病死2名。
19年9月までに64名が亡くなっているが、1月平均約7名であった。その後レイテ作戦のあった10月は68名と増大し、11月40名、12月33名となり1年間で計205名亡くなっており、卒業生の26%であった。
20年に入ると4月までは1月40名、2月30名、3月23名、4月61名と続いたが、5月以降は5月24名、6月10名、7月5名と漸減している。
終戦の月、20年8月は15日までに6名、16日以降8名(自決3名、原爆被害後の死亡1名、比島で死亡1名、復員中艦内で死亡1名、回航中の潜水艦で触雷して死亡1名、同駆逐艦で死亡1名)となっている。
戦没者の一番多かった月は19年10月(68名)、次いで20年4月(61名)、次いで19年11月(40名)、20年2月(40名)であった。
東京クラス会参加の葉書を大槻敏直君、若松禄郎君から,メールを金枝健三君から頂いた。(参加予定計28名)
山田穣君は今年は都合悪く不参加、来年は参加したいと葉書を頂いた。
65年前の今日のレイテ沖海戦で次の23名もの同期生が戦死いた。
No 氏名
場所 所属
1 後藤一郎 レイテ湾 扶桑
2 林 和男 比島レイテ湾 扶桑
3 藤井 勉 比島レイテ湾 山城
4 江本義一 比島レイテ湾 山城
5 稲葉 博 比島東方海上 千代田
6 甲賀公夫 比島東方海上 千代田
7 西 尚男 比島東方海上 千代田
8 柄澤節夫 比島東方海上 千歳
9 末岡信彦 比島東方海上 千歳
10 都野隆司 比島東方海上 瑞鶴
11 佐野 寛 比島東方海上 瑞鶴
12 精島勝義 比島サマール沖 筑摩
13 高橋英敏 比島サマール沖 筑摩
14 服部健三 比島サマール沖 筑摩
15 鷲野幹男 比島レイテ湾 最上
16 吉岡慶治 比島東方海面 鈴谷
17 増田 弘 比島東方海面 多摩
18 小林正一 比島沖 野分
19 島本紀久一 比島東方海面 初月
20 若林立夫 比島レイテ湾 山雲
21 仮屋久雄 比島レイテ沖 攻3
22 小嶋辰雄 比島方面 攻3
新庄 浩君から東京クラス会参加の電話頂いた。(計41名)
海軍兵学校の会
昨年10月海軍兵学校連合クラス会が解散しました。しかし隊務を担当していた75期〜78期の幹事等が、何らかの繋がりを続けたいということから「海軍兵学校の会」(世話人代表 75期菱川信太郎)を立ち上げました。
都竹卓郎君、若松禄郎君には案内状がいっていると思いますが、、次により行われますので参加ご希望の方は小生(伊藤正敬)あてご連絡下さい。案内状を送ります。
日 時 平成21年12月8日(火曜日)12:00〜
会 場 水交会(東京・原宿) 電話03−3403−1491
会 費 ¥6000−
申込期日 11月15日
連絡先 石井 洋(78期)
〒272−0827 千葉県市川市国府台6−8−15
電話・FAX 047−372−7952
(小生も参加予定しています)
10月27日
藤瀬韶国君から電話で東京クラス会参加の連絡があった。(参加者42名)
65年前の今日の戦死者 次の8名
片岡政士 比島方面(攻703)
實吉安志 比島パナイ島沖(藤波)
高野末五郎 南西太平洋(901空)
西 金蔵 比島東方海面(鳥海)
沼田寛三 比島方面(不知火)
比古田宏進 ルソン島(戦317)
伊藤 利治 サマール沖(鳥海)
近藤 寿男 比島レイテ湾(攻5・神風)
後藤脩君の逝去に関連してHPの次の頁を更新しました。
1 21年訃報 2 現在員 3 兵生存者名簿 4 兵物故者名簿 5 21年後期名簿訂正 6 4号時の分隊員数・名簿
訃報 後藤 脩君
新庄 浩君からの電話連絡。
後藤 脩君 平成21年10月27日逝去。(後藤君の面倒を見ていた看護の方からの電話連絡。)
詳しいことは分りません。電話も通じません
10月28日
65年前の今日の戦没者は寺岡恭平君。比島レイテ方面(イ45)で戦死。
11月12日の東京クラス会参加予定の松下太郎君から電話があって、どうしても参加しなければならない用事発生、欠席に変更とのこと。(参加者41名)
丸(2009年12月号)に77期菅原完氏投稿の「米護衛空母に突入した特攻隊員の遺族を捜せ」の題で特攻で戦死した72期丸山隆君の事が10頁にわたって掲載されている。
10月29日
65年前の今日の戦没者は
安保寿夫君(比島タクロバン上空で) (戦315)、
風見芳郎君(クラーク附近で) (245空)、藤井 弘元(マニラ湾コレヒドール沖で) (那智)の3名。
更に戦後20年の今日、泉 邇君が佐世保回航中の潜水艦(伊363)が宮崎沖で機雷に触れて沈没した時亡くなっている。
HPに取り込んである記事は現在まで合計1,023件となっています。そして、今日現在の閲覧数は13万件をこえました。(130,060件です)
そして、今まで会員以外の方でご覧になってメールを頂いた方は31名になっています。
記事の文字を随分大きくいたしました。大き過ぎて見ずらい時は文字の大きさを小にして見て下さい。
10月30日
65年前の今日の戦没者はありません。
海軍兵学校の会
10月25日に書いた「海軍兵学校の会」の案内状を頂きました。要旨は次の通りです。
記
「海軍兵学校の会」ご案内
海軍兵学校連合クラス会は昨年10月に解散しましたが、その後も元幹事などが水交会の評議員(12名中3名)、理事(12名中5名)を勤める関連団体の中で重要な役割を果たしており、これらの間で意思の疎通、連携が必要になっておりよす。
また、近年交替で副代表幹事を出して、隊務を担当して参りました七十五期〜七十八期の幹事の間でも連合クラス会解散後も何らかの繋がりを続けたいという意見もあり、一般の方々にも先輩クラスの方とお会い出来なくなるのは淋しいという声が出ておりましたので、この度、「海軍兵学校の会」を立上げ、幹事OBおよぴ有志により、年1回懇親の会を持つことに致しました。
ただ、有志といってもその特定が難しく、会場の都合、連絡の問題も考慮して、今回は連合クラス会大会などへの出席率の高い方にご連絡を差し上げた次第です。
懇親会の予定は次のとおりでありますので、奮ってご出席のほどをお願い申し上げます。
海軍兵学校の会世話人代表 菱川信太郎(75期)
一、 日 時 平成21年12月8日(火)1200
二、 会 場 水交会(東京1・原宿)
電話 03−3403−1491
三、 会 費 6000円
四、 申込期日 11月15日
同封の郵便振り込み取扱書によるお振り込みをもって申込と致します。
小生(伊藤正敬)のところに、案内状が数部来ています。参加希望の方はお知らせ下さい。案内状をお送りします。
10月31日
早や10月も今日で終り、本当に月日の経つのが早い。
HPの21年以降のなにわ会にういての記事を、最近の情報を加えて、字を大きくして訂正した。
65年前の今日の戦没者
出雲凡夫本州南方海面で (801空)
羽原 寛内南洋方面で (伊364)
東浦登代治台湾沖で (952空) の3名。