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ブログ 平成21年8月分

日記 8月1日 暑中見舞

早や8月になりました。今年の夏は天候不順で暮らしにくいですね。このところ体調不良で入院中の会友も良く聞きます。お互い身体を大事にして元気で余生を楽しみましょう。

56期の回顧録、主だったものをHPに取り込みましたが、目次を見てこれを読んで見たいと言うのが有ればお知らせ下さい。取り込みます。



日記 82日  ブログ

216月、7月のブログを整理してHPに取り込みました。


日記 83日 HPの更新記録

平成211月から6月までの更新記録を整理してHPに取り込みました。


日記 8月4日 海兵i56期の手記

左近允尚敏君から「56期の手記、興味深く読みました。・・・・」とメール戴きました。このようにメールでも戴くとHP担当者として嬉しく感じます。

都竹卓郎君で検索したら大和ガンルーム会の記事 

http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000130904100001

が出てきました。

「大和ガンルーム会」というのがある。戦艦大和の第一士官次室(ガンルーム)にいた元士官たちの懇親会だ。旧呉海軍工廠(こう・しょう)で同艦が完成した日(41年12月16日)に合わせ、85年12月に初めて東京で集まった。会合は毎年続くが、当初20人以上参加していた仲間も高齢化で半減した。

 世話役の一人、元日大教授の都竹(つ・づく)卓郎さん(86)=東京都練馬区=は旧海軍兵学校の72期生で、44(昭和19)年4月から45年2月まで大和の通信士として乗艦。中尉だった44年11月から約3カ月間、ガンルーム室長(ケップガン)を務めた。その次の室長が、兵学校の1期上の臼渕磐大尉だった。

 大尉以上は若手士官が集まるガンルームではなく、別の公室を使う。だが、臼渕大尉は当時21歳と若く、教育係としてケップガンに指名されたらしい。都竹さんは「海軍士官になるために生まれてきたような人だった。さわやかで男らしかった」といった。

 旧海軍出身者や海上自衛隊OBらでつくる水交会(本部・東京)が02年に発行した会誌「水交」に、吉田満著「戦艦大和ノ最期」に登場する沖縄特攻作戦をめぐる士官同士の論争について、当時のガンルームの元士官がこう記している。「(戦後、吉田さんは)このときに、死とその意義について激論したと書いているが、私の知る限りそんなことは全くなく、皆爽(さわ)やかで平素と全く変りなかった……絶え間なく戦闘を続けて来た経験に基づく自信、また一種開き直りの気持ちもあった。

日記 85日 NHKの放送 森園良巳君

4号を自認している田島君から次のメールを戴きました。

「来週「日本海軍400時間の記録」という番組が放送されます。 〓これは自称「海軍反省会」というグループが昭和55年〜平成3年迄の間に行った座談会の未公開テープを基に、種々の証言・記録・写真等で構成したもので、3夜に分けて放送されます。

〓第1回「開戦」9日(日)2100〜2200。

〓第2回「特攻」10日(月)2200〜2300。

〓第3回「終戦」11日(火)2200〜2300。

〓何れもNHK総合です。 」

なお、詳細は次を見て下さい。

http://www.nhk.or.jp/special/

左近允尚敏くんから戴いた情報

「森園夫人からいただいたお手紙によると、平成21年3月16日に亡くなった森園良巳君のお墓は猛典君、山根君と同じ北鎌倉の浄智時にあるそうです。

 

日記 86日 56期の海軍回顧録

先日送った56期の海軍回顧録

(1 われ空母ヨークタウンを撃沈せり 田辺彌八、 2 第五艦隊の北方作戦 久住忠男、

3 アッツ島沖海戦 三浦憲太郎の3件)

を受け取った会員から次の手紙を戴いた。(要旨のみ掲載)

「早速回顧碌をお送り頂き有り難うございます。すぐ読ませて頂きました。ヨークタウンを撃沈の 田辺氏は確か潜水学校で一度教えて頂いたことがあると思います。臨場感あふれる内容で感動しました。

5艦隊北方作戦の久住氏と アッツ島沖海戦の三浦氏は何れも私が乗艦前の参謀でおめにかかりませんでした。何れの作戦も私の乗艦前のものです。私の時、司令部が一時的に那智から多摩に移ってきました。何せ小さい艦なので、候補生は個室から追い出されて久し振りでハンモックで寝ました。ハンモックの上げ下げは従兵がしてくれたので苦労は無しでした。昭和18年暮れから多摩と1水戦旗艦の阿武隈(国本鎮雄が乗っていた。)で日本海回りで宗谷海峡を通って北千島最北端の占守(しゅむしゅ)島へ行き、19年元旦に幌筵(ほろむしろ)海峡に入港しました。すぐ北のカムチャッカ半島には富士山そっくりの山があって印象的でした。この島は海軍、向かいの少し大きい幌筵島は陸軍の受持ちで隼戦闘機が飛んでいたのが見えました。この方面に行ったのはこの1回だけですが、この記事によると、この艦隊はアリュウシャンとの間を随分往復しているようです。

細萱(ほそがや)長官(、松木参謀長、1水戦司令官で有名なヒゲの木村少将のお顔を思い出します。(以下略)」 

日記 87日 小山さん

戦死した故金原薫君のお姉様の小山ゆりさんの長男の方から先日次のメールを頂きました。

『私の母が、最近なにわ会よりの案内が来なくなってしまったのでどうなっているのか調べてほしい。との事で、メールを送らせていただきます。母:小山ゆり(72期 金原薫の姉)(薫はS19.10台湾沖会戦にて戦死。)以前はよく会合に出席しており、間中様にエスコートしていただいていたとの由、何故案内が途絶えてしまったのかは判りませんが差し支えなければ従前どおり母宛に案内をお送りいただけますでしょうか。』

これに対し、電話で、年会費が納められなくなったので、却ってご迷惑ではと思い発送を控えていた旨お話し、最近2年間のなにわ会ニュース(97号から100号まで)を送りました。


本日、それを受け取った礼状を頂きました。、

日記 88日 講演会

次により講演会が行われます。

日時:平成21年9月15日(火)1330〜1530 

場所:水交会

演題:「アメリカから見たミッドウェー」

(水交会のHPでは「アメリカから見たガダルカナル」となっていますが間違いで訂正されます。)

講師:左近允尚敏氏(兵72期)

申し込みは水交会事務局(東・吉岡)あるいは世話人の平間(または副:影山)までご連絡下さい。

(メールアドレスは水交会HP参照)

日記 8月9日 74期会報

海軍兵学校第74期会報「江鷹」360号を頂いた。この「江鷹」は昭和54年9月第1号が発行され、それ以来毎月1回、一度の休みもなく発行され、この360号が最終号となった。記載事項の主なところを抜粋する。

1 22年1月からクラス会の名簿管理を水交会に委託する。(これに関連して20万円水交会に寄付した。)

2 江鷹会解散後(21年以降)の各地区の集り一覧が掲載されている。

3 第37回19分隊会が平成21年6月23日東京水交会で行われた記事が有った。最後の分隊会となったそうである。72期からは伍長の大槻敏直君、宮田實君夫妻、片山市吾君の姪、高橋猛典夫人とゲストとして左近允尚敏君が参加している。

4 物故者6名が掲載されている。

  川村 巌 様 21年7月5日 没(他の5名はブログ掲載済み)

なにわ会HPの2階級特進者に誤りがあったので訂正した。

日記 810日 NHKスペシャル

昨夜「第一回 開戦 海軍あって国家なし」を観ました。戦時中海軍軍令部にいた元参謀たちが、1980年から11年間もにわたり秘かに集まって開いた「海軍反省会」を録音したという貴重なテープが見つかり、その400時間に及ぶ証言からまとめられたものです。

これらの証言によると、海軍の作戦計画を握る軍令部は、右翼や陸軍に押され、勝つ見込みもなく、何の長期的戦略もないまま、「陸海軍あるを知って、国あることを忘れていた」とずるずると開戦に踏み切ったといっていました。その原因として軍令部の力が大きくなりすぎた。その陰には“宮様軍令部総長”(伏見宮博恭王)の存在があったという意見もあった。そこには開戦の大義といったものはなく、ましてや「自存自衛」とか「アジア解放」という声はまったく聞かれなかった。

今夜の第二回は、かの特攻作戦がどのように計画されたかの内幕が聞かれるようだ。

わがなにわ会会員では、46名も特攻で戦死している。海軍兵学校72期625名、海軍機関学校53期111名計736名中、6.25%にあたる。

日記 811日 索引表

 昨日矢田次夫君から久し振りで電話を頂いた。彼は耳が物凄く悪くて、こちらの言うことは殆ど理解してくれないが、向うの言うことはよくわかる。そのため返事はファックスで行っている。

 電話の内容は、彼が昔投稿した「舞鶴練習隊第5期練習員の年次総会に臨んで」という記事の照会であった。HPに索引目次という項目が有るので、それで調べたらすぐ分った。ニュースの過去の記事を調べるのにとても便利である。ただ、その記事をHPにリンクさせるともっと便利になるので、これから順番にリンクさせていくつもりである。

 先ごろから窪添龍輝君にメール送ってもリアクションが無いので電話で確かめたところ、メールアドレスを変更したためだろうということで新しいメールアドレスを教えて貰った。会員のメールアドレスをチェックして、メールで近日中に送ります。

 昨晩もNHKスペシャルを拝見した。あれを見た人は皆海軍軍令部のお偉方に憤慨したことと思う。

日記 813日 ラジオ放送

 今朝0400からNHK第T放送で池田武邦君のこころの時代 「巡洋艦“矢矧(やはぎ)”の青春」と題する放送がありました。堀剣二郎君と有志会員のK様から電話をいただきました。14日0400から続きが有ります。

メールで遺族会員のメールアドレスを流しました。              

日記 812日 メールアドレス

会員のメールアドレスをメールで送りました。遺族会員のメールアドレスは整理して後日送ります。

日記 814日 池田武邦君の放送

今朝の NHK ラジオ 第一放送で池田武邦君の回想談話を拝聴しました。3回に分けての放送でしたが、最終回だけ聞きました。

この件について、74期の談話室に投稿が有り、それに対しコメントが12件もありました。

その中の要点を転記します。

1 池田さんは 兵学校を卒業され 巡洋艦・矢矧 に配置されたが、まだ建造中で、其の竣工までを手掛けて配乗され、沖縄への特攻作戦に大和に従ったこと、戦後 東大で建築学を学ばれた事などを交え、誠に理路整然と、穏やかに語られ、判りやすく感心しました。

2 14日朝池田さんのお話を拝聴しました。感銘をうけました。テープに録らなかったことを悔やんでいます。

3 今朝0400よりのNHKラジオ拝聴しました。レイテ作戦、沖縄海上特攻の生々しい経験からして今日の日本人の軽薄な考えに、人間として先人の心を大切にと訴えていました。まったく同感です。

4 このことは、「水交」の7・8月合併号に「マリアナ、レイテ、沖縄の三つの海戦に参加して思う60余年(前編)」として掲載されています。1号生徒の貴重なご体験、ご高見として感銘深く読ませて頂きました。水交会会員でない期友で本記事を読みたい方は、ご一報下さい。(複写配布については、直接池田さんからご快諾を得たので遠慮なく申し出て下さい)

5 NHKが珍しく変なコメントを入れないで池田さんの戦没者に対する意見や今日の国民の誤った考えに対する指摘をそのまま放送してくれたのはうれしい気持ちでした。

日記 8月15日 終戦記念日 田島氏の手紙

今日は64年目の終戦記念日です。この日に特別4号生徒:田島明朗氏から次の手紙を頂きました。

前略

毎日ブログを拝見する度にご苦労に深謝致しております。昨日、NHKから貸与した写真、文献等々ゴッソリ送り返して参りました。

 最初、スタッフが来廣致しました時は(「軍令部」を番組にしたい、資料を貸してほしい、軍令部勤務でご生存の方、縁故のある方を紹介して欲しい)と、軍令部と正面から取り組んで制作に当る意気込みでございました。それがあの「海軍反省会?」のテープが見つかり、番組の制作方針が全く変ってしまったのが今回の三部作です。

 ご批評は「なにわ会プログ」等々で拝読するご意見のものが殆どでございます。呉水交会に「お茶飲み会」と称する6478期迄の有志の昼食会があり、11日に例会を行いましたが「このメンバーが反省会等を開く資格は無い」「特攻」を論じているが、上からの命令とか志願だったとかは枝葉末節のことで、実際特攻隊員を見送ったのは鳥巣一人だけではないか」などかなり激越な批評が出ました。ただ、「見た後味は良くないに決まっているが、今夜放送の3回目も見る」が総員の意見でいかにも旧海軍士官の集まりらしいと思いました。

 NHKから初回の放送直後に電話があり「旧海軍サンから抗議の電話が来るぞ」と申して置きましたがその通りだそうです。

 余談ですが、小灘さんがご生存の頃、大津島の回天慰釜祭で何度もお目に掛かりましたが、出席している鳥巣参謀に対しては「あの人の無茶な命令で何人もの回天搭乗員が無駄に死んだんだ」と言われ、一切口をきかれませんでした。

 さて、同封いたしましたコピーは、ニュース38号に「鳴呼わが艇長畠中和夫大尉」を寄稿した艇付の藤川正視氏が、この5月に広島で「特潜関係予科練の集い」が開かれた時に配布されたもので、話は旧聞に属し、また写真のカラーコピーですが「なにわ会ニュース」に採り上げられた事がありませんのでご参考までにご送付申し上げます。(以下略)

送られてきた写真は次の2枚です。(写真略)

☆佐多岬沖の「蛟竜」艇上で畠中大尉が自決後、この軍艦旗で遺体を覆い、佐伯に帰投し、遭族を探して母堂に渡されたもの。この軍艦旗を掲げるご母堂(左側)大阪のご自宅で。

畠山家。「海ゆかば」の掛軸が見える。左端;藤川正視氏。

藤川氏は高知県庁に数回通って畠中家の住所を調べ、大阪の艇長宅を訪ねて積年の願いが成就出来たと目を潤ませていたとのことである。

畠中和夫君の記事は「なにわ会ニュース」に次の3件が収録されている。

@ 喝呼わが艇長畠中和夫大尉(38号40頁) 投稿者 藤川正視(艇付)

A 和夫ノ自決ヲ知リ記ス(19号38頁) 投稿者 畠中賢一郎(父上)

B 古武士 故畠中和夫君(19号32頁) 投稿者 定塚 脩

このうち、@とAはHPに取り込んである。Bは後日取り込みます。

HPで見るには、TOP頁の「索引目次2」をクリック、出てきた「索引目次2」の「7戦没者関係」をクリック、てきた「なにわ会ニュース索引表その7」の「畠中和夫」を探して下さい。」(掲載は戦没者の名簿順になっている。)

日記 816日 索引表

なにわ会ニュースの索引表は2冊有りますが、最初から100号までの索引表を作って会員に配布しようとしたが、ニュースを殆ど保存している人が少ないので、作成しても余り利用されないのではないかとの意見があり作成を止めました。

その代わりに、索引表をHPに取り込みました。色々な記事を探すのにとても便利です。

そこで、この索引表にリンクを貼れば、もっと便利になると考え、「索引表その2」を作りました。ただ、HPに取り込んでいない記事が随分有りますので、これから逐次取り込みます。

日記 8月17日 戦没者索引表

まず戦没者の索引表の記事を全部リンクさせようと頑張っています。

日記 818日 74HP

74期HPに8月の幹事会の記事が有りました。

訃報 恩村 恭平 7月 2日没、川村 巌 7月 5日没

日記 819日 戦没者の記事

なにわ会ニュース二ある戦没者の記事のなかでまだHPに取り込んでいないのが随分あります。

先日から順に取り込んでいます。今までに追加取り込んだのは次のとおりです。

   題名             投稿者       戦没者

桂さんが亡兄の墓参        木村  靖    木村  G

(晴男)の宿帳          藤田 貞子    藤田 春男

追悼の辞             星野 道子    猪口  智 

合原直の出撃           三好 文彦    合原  直

橋口寛大尉自決す         小灘 利春    橋口  寛

我が子睦の思い出         土屋さとし    土屋  睦

土井輝章君の遺書         安部 克巳    土井 輝章

一場の夢・東郷良一        安藤  伸    東郷 良一

長兄圭太郎を憶う         近藤 政恵    近藤圭太郎

海軍少佐達川猪和夫        宝来 久道    達川猪和夫

兄の遺品             増田  澄    丸山  隆

戦没期友の墓参等報告       杉田 繁春(墓参)

大西長官と多田圭太        編 集 部    多田 圭太

宮林の仏壇にお参りした樋口 直  土原 弘子    宮林 久夫

吉本君との束の間の縁       小平 邦紀    吉本健太郎

多田圭太の思い出         本山 和男    多田 圭太

福山正通君を偲び「月」への応募  林  藤太    福山 正通

無名の碑 清水武を読んで所感   桂  理平    清水  武

弟の思い出の句          土原 弘子    宮林 久夫

潜水学校第12期出陣賦と橋口君  泉  五郎    橋口  寛

思い出すまま

山之内素明君から「何年目の候補生だ?」

大野 嘉秋君のこと

昭和1811月軍艦愛宕に配乗となった少尉候補生兵5名機2名主2名計9名だった。

記憶が定かではないが、大野、小松崎、今井、福岡、前川 以上兵、大前、重森 以上機、主は 伴と山之内。

先日、なにわ会ブログで、兵56期の方々の戦記の中に、愛宕の最後の記事を読ませていただきました。その中に、大谷参謀とか宮本鷹雄参謀の御名を拝見し、愛宕の戦闘艦橋の風景を一瞬思い出しました。当時、大野君は航海士配置、小生も庶務主任配置で、「配置に着け」では、同じ艦橋に駆け上がって行きました。

トラック環礁の中だったか、リンガ泊地であったか、記憶にないが、「訓練配置に着け」で艦橋に上がると、いつもの通り 艦橋の右半分は2Fの司令部で栗田長官以下小柳参謀長、志岐先任参謀、はじめ、コサ、ホサ、キサ など略称プレートを帽子に着けた方々で一杯である。艦橋の左半分が愛宕の乗組員の動く場所だった。

艦隊の陣形運動が、旗旒信号で指示されると,艦側は、航海士が窓口になって、航海長に伝えられ、艦長に届く。その間に、海図台も覗き込む。庶務主任の戦闘配置は艦橋でも訓練となると、なにもすることがない。「航海士は多忙だなあ」と思って「訓練終わり」をまっていた。一段落ついて、長官も下に降りられて、艦橋も静かになったとき、参謀の一人が、「航海長 あの候補生は、何年目の候補生かね?」と。横田航海長もこの質問にはびっくりされたことであろう。我々はわずか6ケ月の候補生生活だったが、その昔、1年、1年半という候補生時代があったと聞くが、大野君の活躍ぶりは、その短い期間の中ででも、すごいベテラン候補生に匹敵するものがあったのであろう。

本人は、認められて多分に嬉しかったであろうが、一度も口にしなかったようだ。候補生では、同じ艦橋にいた私だけが、知っている話かもしれないと思って、素晴らしい候補生だった大野君の逸話を披露します。

候補生ではこんな思い出もあります。

愛宕の庶務主任のとき、執務中「オス、元気か」と大声で主計科事務室入ってくる人がいる。振り返ると、主計科の候補生である。クラスではない。よく御顔をみると、衣笠秀夫さんではないか。主33期の1号30期の衣笠さんである。4号と1号とが同じ候補生でいるとは、吃驚仰天である。海兵団勤務で健康を回復されての海上勤務となられたわけである。

「近所そこらの候補生と鍛え方が違うぞ」とのご託宣。  ごもっとも ごもっとも。1号と4号では。

 

もう一つ

昭和19年7月ごろ、呉鎮付のとき、軍艦盤手の任用進級事務処理を行う主計科士官がいないからと、乗組を命じられて、着任しガンルームに入ったら、「やあ」と声掛けられたのは、斉藤政幸氏だった。中学は彼が1年上。72期と33期でコレスとなったが、中学の先輩は扱いにくい。しかも、健康を害していた、彼はまだ候補生だったから、なおさらのこと。今日では、彼とは、滅多に会うことはないが、鹿児島で健在である。

中学の同窓会では、当然にテーブルの順が違う。  

 

日記 820

74期 岡野 幸郎 様  8月15日 没 

本日HPに取り込んだ記事は次のとおりです。

サイパンに兄を偲ぶ      横川 康春  上原 庸佑

牛尾久二の墓参        柴田 英夫  牛尾 久二

久住宏君墓参記        足立 英夫  久住  宏

里村章 保兄弟        森田 禎介  里村  保

宮林久夫の御仏前       矢田 次夫  宮林 久夫

1811ケ月の生涯・有村信義君  押本 直正  小林  恵

 

日記 822日 弔電

昨日の桂 理平君の逝去に関連し、今後弔電を会の名前で打つことにしました。(本件について、(兵)左近允、上野、泉(機)村山、(主)窪添、高田の諸君の賛同を頂き、決定しました。)、

9月発行予定の「なにわ会だより第1号」の校正を印刷屋から送って貰いました。

 

訃報 桂 理平君逝去

氏名 桂 理平 君(名簿10P)

平成21年8月21日(金) 心不全で逝去

喪主    妻 桂 敏子 様    

御通夜  平成21年8月22日(土) 1900〜

告別式       8月23日(日) 1400〜

斎場   (株)セレマ槙島シテイホール

住所    京都府宇治市槇島町目川190−1

電話  0774ー25ー6655

交通   近鉄 迎島駅からタクシーで

(山本省吾君からの連絡による。電話連絡網で情報希望者に流してください)

 

日記 824日

遺族訃報 小林晃君の兄

故小林晃君の兄 博さんが、8月20日に老衰のために逝去しました。享年90歳でした。

通夜は22日午後7時より、葬儀は23日午前10時より旭川市神楽2−10、旭川ベルコ会館で行われます。

喪主は妻・冨美子さんです。

 

日記 826日 70期だより

70期だより(H21.8)を頂いた。

訃報 森川久男様 2123日逝去 三浦氏の弔辞が掲載されていた。森川先輩は70期会の会計事務を担当されていてクラス会の中心人物で在られた。

会員の高齢化に伴い、クラス会の世話人として御遺族など若い人にお手伝いを頂くことになり、3名が引き受けられた。

第7回永代神楽祭の案内が掲載されており出席通知の用紙が添付されていた。なお、玉ぐし料と靖國会館の使用料20000円は会の基金から支出、懇親会参加の会費は2000円とされている。

70期電話連絡網が掲載されていた。

826日から94日まで戦没者なし。.

 

次の4件をHPに取り込んだ。

田村生徒の殉職 藤田日記(桂 理平)

今井義幸供養の記(白根行男)

兄成瀬秋夫の戦場を訪ねて(加藤孝平)

若林立夫と35年目の再会(松山 実)

 

日記 825日 桂理平君の葬儀

京都の山本省吾君から次のメールをいただきました。

「桂理平君の22日の通夜には鈴木・渡邊・久米川・小西の諸君と山本が参列。翌23日告別式には鈴木君のみが参列し、追悼文を読んでくれました。なお佐藤君よりも弔電を貰いました。また京都セブンティー会(7378期及びコレス)の連中10数名も参列し、海軍関係者も多く盛大な葬儀が行われました。」

つぎの記事をHPに取り込みました。

石川誠三君を偲ぶ    田中 宏謨

回天搭乗員の最期    押本直正

 

827日 樋口直君

今朝樋口 直君から電話をもらいました。退院されたそうです。そして、不具合だったパソコンも修理して使えるようになったそうです。

本日次の記事をHPに取り込みました。

今井義幸の墓標  白根行男

今井義幸の号令  押本直正

比島・台湾で散華した戦闘機友  藤田 昇

寺岡恭平君のこと  上田 敦

 

日記 828

次の記事をHPに取り込みました。

小澤易一の思い出    (加藤 孝二)

喝呼 村田善則     (山田  穣)

故大村きぬ様の手紙   (加藤 孝二)

おとうと高崎 孝一   (山根 澄子)

同郷のクラスメイト   (押本 直正)

喝呼 村田善則     (岡本 俊章)

柿崎少佐のことども   (斎藤 寛)

兄の想い出       (清村 博一)

 

日記 829日 桂 理平君の弔辞

先日亡くなった桂 理平君の弔辞を鈴木 彊君からメールで送って貰いました。

 

日記 8月30日 戦没者関連

なにわ会ニュースの戦没者関連の記事256件のうち、墓地訪問とか遺族訪問の記事50件を除き206件をHPに取り込み終わりました。索引目次その2からリンクさせてあります。

昨日、本日次の記事をとりこみました。(  )内は投稿者名

久住宏吾のこと         (伊津野省三)

能登に宮林を偲ぶ        (矢田 次夫)

眞崎中尉の墓          (木村  靖)

何時までもお元気で       (矢田 次夫)

焼津のミセスクラス会と田辺の墓(旭  輝雄)

眞崎の墓後目談         (木村  靖)

かくも厳しきものか古川次男   (田島 明朗)

今想う防人の心         (小島喜久江)

72期と27期           (三輪 和子)

真鍋大尉のこと         (吉川  泰)

兄 村上達           (村上 典夫)

 

日記 831日 索引表 戦記

今度は索引表その2の戦記の記事のリンクの整理にかかります。

故大谷君を偲ぶ会・・・・編 集 部・・11 

永代神楽祭・・・・・・・編 集 部・・12   

会員だより・・・・・・・編 集 部・・16  

ブログ抜粋・・・・・・・編 集 部・・31  

他のクラス会・・・・・・編 集 部・・44  

入金報告・・・・・・・・窪添 龍輝・・48  

名簿変更訂正・・・・伊藤 正敬・・49  

72期連絡網・・・・・・・編 集 部・・50  

編集後記・・・・・・・・・編 集 部・・51  

現状・・・・・・・・・。・編 集 部・・51

 

 長い間なにわ会ニュースの校正を担当してニュース発行に貢献してくれた佐丸幹男君から、体調が思わしくないので、校正担当を辞退させて欲しいと申し出がありました。

長年ご協力戴いたことに深く感謝して、くれぐれも無理せず、大事に静養されるよう申し上げました。

ここに深甚な感謝の意を表します。

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