ブログ 平成21年7月分
日記 7月1日 なにわ会だより
なにわ会だより第1号は48頁にまとめました。今までどおり都竹卓郎君、佐丸幹男君、窪添龍輝君に校正をお願い致します。3方よろしくお願いします。近く印刷して送ります。
昨日春日君の長女の方から29日のブログにコメントを頂きました。あのHPいろんな資料が見られますね。
日記 7月2日 73期会報 水交会
73期会報90号(21年6月)を頂いた。主な記事を抜粋する。
1 21年総会 10月6日 予定 靖國参拝 総会
懇親会(グランドヒル 市ヶ谷)
2 クラス会の運営
a 平成24年末を以ってクラス会の組織並びに業務をいったん終結する。
b 年会費の徴収は平成22年度より廃止。
3 会員の現状
現存者 285名 戦没者 282名 物故者 335名 計902名
4 会合
東海地区、関西地区、東横沿線会、神奈川3校合同の会、京橋会、
一金三木会、しろあり会、艦攻会等各種会合の記事が多い。
5 物故者
鹿士俊治様 平成21年2月19日没 高橋和夫様 平成21年3月31日没
狩野政男様 平成21年4月2日没
慶田彌市様 平成21年4月10日没
水交に次の記事があった。
マリアナ、レイテ、沖縄の三つの海戦に参加して思う60余年(前編) 池田武邦
日記 7月3日 なにわ会だより
9月に発行する「なにわ会だより」第1号の目次です。
始めに・・・・・・・・・・編 集 部・・1
連絡事項・・・・・・・・・編 集 部・・2
行事報告・・・・・・・・・編 集 部・・3
歩こう会・・・・・・・・・上野 三郎・・3
関西なにわ会・・・・・・・小西 愛明・・8
パインなにわ会・・・・・・編 集 部・・10
故大谷君を偲ぶ会・・・・・編 集 部・・11
永代神楽祭・・・・・・・・編 集 部・・12
会員だより・・・・・・・・編 集 部・・15
ブログ抜粋・・・・・・・・編 集 部・・30
他のクラス会・・・・・・・編 集 部・・40
入金報告・・・・・・・・・窪添 龍輝・・45
名簿変更訂正・・ ・・・伊藤 正敬・・46
72期連絡網・・・・・・・編 集 部・・47
編集後記・・・・・・・・・編 集 部・・48
今度は手間を省くため省力化してB5判横書きにしました。今まで通り3君に送って校正をお願いしました。
配布先会員は約400名です。
故河合不死男君の遺族 加藤様からメールで「真夏のオリオン」という東宝映画を見たと知らせてもらいました。「真夏のオリオン」については↓↓を見て下さい。伊58潜をモデルにした作品です。
http://www.manatsu-orion.com/index.html
故河合不死男君の最後
故河合不死男君が戦死したとき乗艦していた18号輸送艦の最後が琉球新報に次のように報ぜられた。
「人間魚雷・回天の隊員ら352人を乗せた旧日本海軍の第18号輸送艦が、1945年に米潜水艦に撃沈され全滅していた史実が明らかになった。元回天隊員らが、米海軍の資料「第二次大戦潜水艦作戦史」などから突き止めた。同艦はこれまで、那覇到着前に「行方不明」、その後「喪失認定」というのが国の資料に基づく史実だった。米海軍の資料によると、輸送艦は1945年3月13日に、回天隊員らを乗せ山口県・光基地を出港。那覇到着前の3月18日、米潜水艦・スプリンガーから1時間にわたり魚雷8発の攻撃を受け、粟国島沖合北北西5キロで輸送艦乗員225人と回天隊員127人が全滅したとされている。
遺族の中には国の戸籍原本の訂正につなげた人もいる。回天搭乗員だった兄猪熊房蔵さん=当時(18歳)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=は、県内にあったとされる回天基地の所在を探すなど戦後64年を経た今も兄の痕跡を追い続ける。第18号輸送艦の軌跡を調査したのは、元回天隊員らでつくる全国回天会会長を務めた故小灘利春さんと同会事務局長を務めた河崎春美さん=東京都江東区=ら。米海軍の記録「第二次大戦潜水艦作戦史」などの資料から突き止めた。河崎さんらは戦後、輸送艦乗員らの戦死の日や場所などが戸籍原本などでまちまちなことに疑問を抱き、調査に着手した。「第18号輸送艦の搭乗者は、国の記録では死亡日が違っていたり、沖縄本島の陸上戦に参加して戦死したりと、でたらめだった」と話す。米資料によると、第18号輸送艦は45年3月13日に、回天白龍隊員らを乗せ山口県にあった光基地を出港。那覇到着前に米潜水艦・スプリンガーから魚雷8発、1時間の攻撃を受け、大槻勝艦長ら乗員225人と、第1回天隊の白龍隊127人が全滅したとされている。搭乗員名簿は作成されているが、回天隊員127人は、14人の氏名などが判明している以外は不明のままだ。
猪熊得郎さんの兄房蔵さんは、26年3月生まれ。44年8月に回天特攻隊に志願、白龍隊搭乗員として、沖縄に赴く途次で死去した。だが、戦後の厚生省(当時)の記録(公報)や戸籍原本では「荘河丸」で鹿児島を出発し東シナで死亡したと記録されていた。 「東シナ海はあるが、東シナなんて場所はない」。得郎さんは、小灘さんや河崎さんらの史実の調査も踏まえ、国に戸籍原本の記録訂正を要求し、2000年3月に実現した。
次の写真は回天白龍隊隊長・故河合不死男君の遺品(アルバム)の中に有ったもので、ウィキペディアに掲載されている。
前列左より久住中尉(72期)、加賀谷大尉(71期)、三谷大尉(71期)、橋口中尉(72期)。後列左より河合中尉(72期)、帖佐大尉(71期)、福島中尉(72期)、山地大尉(70期)、小灘中尉(72期)
このうち橋口中尉は自決、三谷大尉・帖佐大尉・小灘中尉の3名は終戦時生存(戦後いずれも病死)、其の他は回天で戦死されている。
日記 7月4日 戦没者写真 74期HP
HPに掲載してある機関科の戦没者の写真のうち次の6名の写真が掲載されていなかった。石井勝信君の写真は取り込んだのが、なぜかHPに転送されていなかったので転送しなおした。川崎順二君と都所静世君の2人については他の写真を取り込んだ。合志秀夫君、国生眞三郎君、山下宏君の3名については、写真が見つからない。お持ちの方がおられたら是非連絡されたい。
第74期ホームページのURLが次のとおり変更されたので、なにわ会HPのリンク目次を訂正した。 http://www.kouyoukai.info/
なお、これまでのホームページも、6月末現在の状態でインターネットに残っているが、やがて消去されます。
74期の新しいHPにあった7月1日に行われた幹事会の記事を要約する。
1 12月の全国大会
参加申込者数 6月末で会員約300名、準会員 約170名
2 会 報
前月に報告の通り訃報関係は6月末で終了した。
当面は江鷹会談話室に該当情報入手者が従来の訃報連絡形式でのブログに掲載することにより会員への告知を期待する。
会報は8月号をもって終了する。
3 靖国神社永代神楽祭
74期として祭神を慰霊顕彰するため、3月30日を神楽奉奏日とした。
4 訃 報 西村 嘉交様 6月 2日 没
伊丹 邦夫様 6月22日 没
長谷川 隆様 6月27日 没
恩村 恭平様 7月 2日 没
5 会員数 509名
日記 7月5日 HP追加
ニュースに掲載しなかった記事「わが敵は湊川沖にあり・豊廣 稔」を取り込んだ。
日記 7月6日 永代神楽祭
左近允尚敏君から次のメールをいただきました。
「先週靖国神社の高橋さんに、いずれうかがってお願いしますが、と断って6月4日に変更の件と読み上げていただきたい祭神の名前を手紙でお願いしたところ、先ほど今回限りで了承することに決まりましたと電話がありました。
なお請書(先日貴兄がコピー配布されたもの)を改める必要があるので郵送または神社にみえるとき持ってきてくださいとのことでそのようにしますと返事をしました。」
これで「日記 6月24日 永代神楽祭反省会」に書いたように決定ました。
左近允尚敏君色々ご苦労さまでした。
日記 7月7日 海軍兵学校の歴史
海軍兵学校沿革をひもといて海軍兵学校の歴史を纏め始めた。完成したらHPに取り込みたい。
日記 7月8日
今日はなにわ会関係の電話、メール、手紙何一つありませんでした。
日記 7月9日 海軍兵学校の歴史
海軍兵学校の歴史をHPに取り込みました。これは海軍兵学校の沿革(有終会編)等を整理したものです。
日記 7月10日
昨日取り込んだ海軍兵学校の歴史に写真を加えました。そして「60期以降のクラス別卒業生数と戦没者数」を加えました。
戦没率最大のクラスは、68期と70期で66.3%、次いで69期の64,7%となっています。
1月あたりの戦没率を見ると72期の2.3%が最大で、73期の1.9%、71期の1.8%が続いています。
日記 7月11日 恩賜品拝受者
海軍兵学校の歴史に参考として
1 60期以降の恩賜品拝受者名簿
2 天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下のご来臨の記録
3 海軍兵学校に在学された皇族のお名前
を加えました。首席で卒業した者は58%も戦没しています。
海軍兵学校56期の遺族の会「ゴムの木会」が纏めた「海軍回顧録}を欲しいと右近恒二君から葉書をもらいました。早速56期の担当の方にメールでお願いします。
日記 7月13日 ゴムの木会」
海軍兵学校56期の遺族の会「ゴムの木の会」が纏めた「海軍回顧録}について、製本したものがあることが分りましたが、700頁以上の立派な装丁の本で、値段も相当高い物です。CDに入っている分を逐次パソコンに取り込んで行きます。
日記 7月12日 海軍兵学校の歴史 HP閲覧数
海軍兵学校の歴史、さらに詳細が見られるように、次の項目にリンクをはった。
八方園神社、支那事変、戦時中の江田島、分校急設、78期予科生徒、終戦
いずれも赤字の文字をクリックすると詳細記事が出てくる。
HP閲覧数が12万を超えた。多数の方に見ていただいていて有り難い。HPを立ち上げたのが、平成16年11月、それから4年8カ月(56月=672日)、1日あたり。178件である。71期以降の海軍兵学校のクラス会は概ねHPを立ち上げているが、他のクラスに比してずば抜けて多い。これは、取り込んである生きた戦記ものが会員以外の方に読まれているためと思う。最近はHPの更新は余り行っていない。もっぱらブログに書きこんでいろ。なお、なお、先日から記事「海軍兵学校の歴史」の充実に努めている。
前に海軍兵学校73期の会報を3部戴いたと書いたが、見たい希望の方がおられたら連絡されたい。早い方から逐次回覧致してもらう。
Commented by 原田久美
アクセス12万件、おめでとうございます。
これからも、ホームページやブログ、頑張って下さい。
Commented by 伊藤正敬
コメント有り難うございます。これからもよろしく。
Commented by 坂本奈津子(旧姓)
初めて拝見、そして投稿させていただきます。
こちらのなにわ会さんとは、直接関係があるわけでは、ないのですが、こちらでお名前を見かけた桂理平様は、亡き父が戦中、駆逐艦桜でお世話になった方のお一人だと存じます。桂様いかがお過ごしでしょうか?もうすぐ父の七回忌なのですが、そんな時、ふと桂様は、いかがお過ごしかと思い、こちらにご連絡を入れさせていただきました。
場違いな、また非常識なコメントだと判断されましたら、どうぞ削除されて下さい。失礼しました。故人坂本大二郎の長女より
Commented by 伊藤正敬
桂理平君、言われるとおり駆逐艦桜の航海長でした。今京都に住んでいます。詳しいことをここに書くのは問題がありますので、なにわ会のHPの一番下のところをクリックして私にメール下さい。住所近況等メールでお知らせします。
日記 7月14日 米書の中のクラス
左近允尚敏君から次の「米書の中のクラスメート」と題した資料(日本語翻訳文)」を戴きました。
故小灘利春君と安藤昌彦君の記事があります。
米書の中のクラスメート
左近允 尚敏 (2009.7.13)
1999年に出たマックス・ヘースティングス著“NEMESIS−The Battle for Japan, 1941-1945”に小灘利春君についての記事と、安藤昌彦君についての記事があり、前者には吉本健太郎君、石川誠三君の名前も出ているので、ざっと訳してご紹介する。
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小灘利春君
その1(P14-15)
一方、日本人は幻想を抱いていた。1944年夏という遅い時期になっても、少なくとも一般的な国民から見れば日本帝国の大部分は、まだ安泰だと思われていた。
重巡・足柄乗組の小灘利春少尉候補生はジャワに寄港するのが楽しみだった。「若いわれわれにとっては、何もかもが初めてでエギゾティックだった」と彼は語った。現地の子供たちが艦隊のお別れパーティで、日本の歌を唄ってくれたこともあった。
現地のイタリア料理店で食事をした小灘とほかの足柄の仲間は、オーナーの娘をじろじろと眺めていた。彼らにとっては初めて目にするヨーロッパ人の少女だった。
「私はここでアジアの明るい将来を目にしたと思った。どこも平和に見えた。シンガポールの中国人の多くはわれわれに友好的だった」
20歳の小灘の父親は、太平洋のある基地の司令だった。彼は医者になりたかったが、43年に兵隊にとられたので(むろん誤り)断念した。
「日本を守らなければならないことは知っていたから、それなりのことはしたかった」
次の年に足柄と護衛のフネは、アリューシャンの米軍の脅威から守るために北日本に配備替えになった。
「危険が増大しつつあると思うようになった」
候補生仲間と一緒だったガンルームでは「戦後どうなるかといった話は全く出なかった。随分と先のことに思われたからだった」
太平洋の島からは郵便はこなかったから、彼は父親がどうなるか何も知らなかった。候補生たちはただ当面の仕事を熱心にやった。進級試験のためによく勉強し、日誌をつけていたが、これは分隊長たちが厳しく検閲した(士官に進級試験などなかった。日誌の検閲もなかったはず。「勤務録」は副長に提出した記憶がある)。
艦隊が作戦に出動するのを長いこと待っていたが、ほかにやることはほとんどなかった。小灘と同僚の若い士官の一部は毎晩、艇指揮として内火艇でフネの周囲を哨戒した。最も興奮したのは暗い中で潜水員の頭を発見したと思ったときだったが、大きな海亀であることが分かった。潜望鏡が起こすウエーキを発見したと思ったときも興奮したが、今度はマグロの群れだった。
彼らは米英の海軍力を認識したが、泊地で日本海軍が依然として保有している多数の戦艦、巡洋艦、駆逐艦を見ると、別に絶望的な気分になる根拠はないように思われた。
「長い苦しい戦いになるだろうということは分かっていたが、アジアの平和と安全のためには戦うだけの価値はあると思われた」
その2(P478-479)
重巡・足柄の小灘や一緒の候補生たちは、日本の大型艦はもはや役に立たなくなったと思ったので潜水艦を希望した。中尉になっていた小灘は大竹の潜水学校で2週間を過ごしたが、突然同期の13人とともに新兵器、回天の要員として転勤を命じられた。
彼らは、大津島の訓練基地に着くまで回天のことは何も知らなかった。大津島でようやく回天の秘密を知らされたのである。回天は人間魚雷であり潜水員(?)が操縦する。指揮官たちは、日本本土に接近する敵艦船を撃破して日本の将来を変えるものだと説明した。小灘のグループは興奮した。「これこそ、われわれを喜ばせ興奮させた役割だった」と彼は語った。小灘と同僚たちの嬉しそうな顔の写真は、小灘のことばが本当であることを示している。
彼らは21歳だった。「回天は、われわれに戦争の今後を変えて祖国を救う機会を与えてくれたと思った」
約1375人の搭乗員が訓練を始めたが魚雷が不足していたため、終戦までに訓練を終えたのは150人にすぎなかった。回天は非常に危険な兵器だったから訓練中に15人が死んだ。一部の者は呼吸に失敗し、あとは岩に衝突し、あるいは荒波の中で失われた。
小灘は訓練中の雰囲気について、きわめて緊迫はしていたが、興奮を覚える経験だった」と述べている。彼の隊は1944年12月に訓練を終えたが、彼は次の隊の訓練のために4ヶ月大津島に残った。そしてフラストレーションを感じていた。「早く任務につきたいからだった」
一緒に訓練課程で学び、実際に敵に向かって発進した者がどうなったかを知ると、彼のフラストレーションはさらに高まった。吉本健太郎は小灘と同室だった。「特に頭脳明晰というわけではなかったが、実に愉快な男だった。二人は、あらゆることについて何時間も語り合った。戦争と死については除いてだが」 吉本はカロリン諸島の作戦で12月20日に発進したが、機械の故障で帰ってきた。彼は1945年1月12日に再び発進したが、以後消息不明である。
小灘と足柄で一緒だった石川誠三は「忠誠心あつく大胆な性格で、言うことは実に辛らつだった」が、やはり1月12日にグアム沖で伊58潜から発進した。本土の基地にある回天の搭乗員たちは、彼らがどうなったのか、戦果を挙げたのかどうかは全く分からなかった。アメリカの記録は彼らがほとんど戦果を挙げていないことを示している。
小灘が困惑したのは、1945年夏には、一緒に訓練を受け、特攻員として白のはちまきをつけるようになっていた14人のうち彼一人が生き残っていることだった。しかし自分の番ももう少しでやってきそうだった。
小灘は5月に、回天8基の隊長として東京の南140マイルにある八丈島に派遣された、搭乗員たちはあらゆる戦術場面での発進法を訓練し、あまり頼りにならない回天の整備を常に続けていた。小灘は誇らしげに「生涯で最も充実した日々だった」と語っている。
安藤昌彦君
その1(P15-16)
23歳の安藤昌彦は朝鮮の知事の息子だった。この高官の3人の息子のだれも軍人になりたいとは思わなかったが、3人ともならざるを得なかった。長兄はサイパンで戦死し、次兄は陸軍軍医だったがニューギニアで亡くなった。
1944年6月に残っていたのは、海軍兵学校の飛行学校(?)を終えたばかりの昌彦だけだった。彼が海軍の軍人になろうとしたのは尊敬する叔父が海軍士官だったからである。
安藤は幸いにも、燃料や航空機が枯渇する前の、充分な飛行訓練を受けられる最後のクラスの学生だった。配置が決められるとき、彼はただ一人水上機乗りになることを志望した。1ヶ月の後には彼は、単発3座の99艦爆〈誤り。零式水偵〉で対潜哨戒をやっていた。
決まった仕事は船団を護衛してマレー、あるいは蘭印から日本に向かうコースをのろのろと飛ぶことだった。彼の機は連合軍から見れば初歩的なものだった。レーダーがなく、磁気探知機と120ポンド爆弾1発だけを積んで飛ぶ。米潜発見というありそうもない場合に備えてだった。
くる月もくつ月も1日に2回、4角形を描きながら飛行した。退屈な仕事に思われるが、飛ぶのが好きな安藤にとっては退屈ではなかった。彼の誠実な搭乗員、加藤と菊池は彼よりだいぶ若く、海軍の経験に乏しかった。彼らは熱心に海上を見張り、潜水艦の所在を示す潜望鏡のウエーキを探した。
しばらく経ってから彼らは魔法瓶のコーヒーを飲み弁当を食べた。だれかが食事担当の補給科士官に「われ
われの毎日は、これが最後になるかもしれない毎日なんだ。われわれの最後の食事にこんなものしかできないのか」と文句を言ったので、弁当はまあまあの味だった。
飛行中に小便がしたくなったときは厄介だった。たたんだ油紙の入れ物が乗せてあり、一杯になったら結んで、パイロットの肩越しに後席の磁気探知機員に渡し、彼が窓から捨てる。しかしうっかりすると破れて中味が彼らの顔にかかった。
戦争最後の年になっても仏印と蘭印の日本軍基地では食料も燃料も豊富で、補充が困難なのは搭乗員だけだった。
「日本がむつかしい状況にあるのは分かっていたが、戦争に負けるほど危ない状況にあるとは思わなかった。われわれ若者は何があろうと、戦争の潮流を変えることができると思っていた」と安藤は語った。
その2(P292)
アメリカの大佐は書いている。
「われわれは潜水艦に対する日本機の能力をまるで軽蔑していた。日本は対潜戦でひどく劣っていた。われわれは確かに大胆だったが、それを可能にしたのは日本機の搭載電子機器がお粗末だったことだった」
パイロットの安藤昌彦は同意した。彼は仏印のカムラン湾から対潜哨戒で飛んでいた。彼のクルーは戦争を通じてたった一度だけ米潜を発見した。興奮した彼らは降下した。潜水艦は不注意にも水上航走中だった。後方から降下して急速に接近すると、司令塔の見張員が発見してハッチに飛び込んだ。潜水艦は急速潜航した。
安藤は高度600フィートで対潜爆弾を投下した。彼とクルーは潜没地点のすぐそばで爆弾が炸裂して大きな水柱が上がるのを、胸を躍らせながら見ていた。基地に帰投した彼らは潜水艦撃沈と報告した。
しかし彼らは戦後になって、その米潜の被害はほんのうわつらだけのものだったことを知った。これは日本の対潜機が経験した典型的な例だった。
その3(P329)
海軍のパイロット、安藤昌彦は語る。
「戦後私はときどき人から『戦争中飛行するのはたいへんだったでしょう』と言われたが、爆撃された日本の都市を見てからは『いちばん、たいへんだったのは東京ですよ』と答えたのだった」
その4〈P565〉
安藤昌彦は水上機をスラバヤの基地に着水させてからぶらぶら食堂に歩いて行ったが、パイロットたちは暗い顔をして黙っていた。「おい、何があったんだ」と彼が聞くと、だれかが「戦争は終わった」と言い、安藤はうっかり「どっちが勝ったんだ」と聞いてしまった。祖国が敗北を認めることなど彼の理解を超えていたのである。彼はのちに語った。
「若い士官たちは、リングの上のボクサーみたいなものだった。われわれは戦争が終わるまでに何が起きたのか、まるで知らなかった。頭にあるのは飛ぶことだけだったのだ。戦争が終わって思ったのは、いったいわれわれは、これからどうなるのだろうか、ということだった」
日記 7月15日 HPの戦記
HPの戦記は会員以外の方もよく読まれているようだが、まだ文字が小さいので見にくい頁があるから、大きい字に修正した方がいいとY会員からリコメンドを戴いた。前に大分修正したがまだ未修正が残っているので順に修正していくことにした。
都竹卓郎君からなにわ会だより第1号の校正を戴いた。
日記 7月16日 HPの修正
昨日戴いたリコメントに従ってHPの戦記を上の方から半分修正しました。
今日は暑い1日でしたね。お互い無理せず身体を大事にしましょう。
日記 7月17日 HP戦記
HPの戦記全部文字を大きく修正しました。読みやすくなったと思います。今度は戦没者関連、物故者関連を逐次修正します。
Commented by 匿名
文字を大きくなり読みやすくして頂きありがとうございます。暑い毎日がしばらく続きますが、無理しないで頑張ってください。
Commented by 伊藤正敬
コメント有り難うございました。逐次ほかの記事の字も大きくしていきます。今戦没者の記事を修正しています。
日記 7月18日 宛名ラベル
なにわ会だより第1号発送用ラベルを作成しました。会員175名、有志会員23名、戦後物故者遺族98名、戦没者遺族138名、其の他14名、合計448名のラベルを作成しました。今までニュースを送っていた会員のうち連絡報費未納の12名には連絡報費の振り込み用紙をもう一度同封して送ります。ご遺族の連絡報費未納の方には「なにわ会だより」は送りません。
日記 7月19日戦没者関連
戦没者関係の記事概ね文字大きくしました。あと7つですので明日は完了すると思います。
日記 7月20日 戦後物故者
戦後物故者の記事、全部文字を大きく見やすくしました。
日記 7月22日 永代神楽祭請け書
左近允尚敏君から新しい永代神楽祭の請け書を送ってもらいました。これで、先般の反省会の決定事項は総て確定しました。
1 永代神楽祭は22年以降毎年6月4日1400から行なう。
2 祝詞は次のとおり。
北植武男命を初めて海軍兵学校第72期生にして身罷り座しし334柱の命等、
石井勝信命を初めて海軍機関学校第53期生にして身罷り座しし56柱の命等、
佐伯源蔵命を初めて海軍経理学校第33期生にして身罷り座しし19柱の命等
3 懇親会場は広い部屋を手配する。
4 案内は3月に配布する「なにわ会だより」に出欠席の回答葉書を同封する。
5 会費は今年と同額とする
戴いた請け書は次のとおり。(なお、機関学校「52期生」となっているのは、「53期生」に, 「佐伯源蔵の命」となっているのは、「佐伯伝蔵の命」に訂正されるよう申し入れする。)
日記 7月21日 HPの修正
HPのうち、遺墨関連、思い出関連の記事全部字を大きくしました。
日記 7月24日 なにわ会だより第1号
なにわ会だより第1号概ね完成、来週には印刷屋に発注します。全部で52頁になりました。今度のなにわ会だよりは、手間を省くため、B5判、横書きとしました。印刷部数は約450部で今までと余り変わりません。
内容は、次の目次を見て想像して下さい。
目 次
始めに・・・・・・・・・編 集 部・・1
連絡事項・・・・・・・・編 集 部・・2
行事報告・・・・・・・・編 集 部・・3
歩こう会・・・・・・・・上野 三郎・・3
関西なにわ会・・・・・・小西 愛明・・8
パインなにわ会・・・・・編 集 部・・10
故大谷君を偲ぶ会・・・・編 集 部・・11
永代神楽祭・・・・・・・編 集 部・・12
会員だより・・・・・・・編 集 部・・16
ブログ抜粋・・・・・・・編 集 部・・31
他のクラス会・・・・・・編 集 部・・44
入金報告・・・・・・・・窪添 龍輝・・48
名簿変更訂正・・・・伊藤 正敬・・49
72期連絡網・・・・・・・編 集 部・・50
編集後記・・・・・・・・・編 集 部・・51
現状・・・・・・・・・。・編 集 部・・51
長い間なにわ会ニュースの校正を担当してニュース発行に貢献してくれた佐丸幹男君から、体調が思わしくないので、校正担当を辞退させて欲しいと申し出がありました。
長年ご協力戴いたことに深く感謝して、くれぐれも無理せず、大事に静養されるよう申し上げました。
ここに深甚な感謝の意を表します。
日記 7月25日 なにわ会だより第1号発注
なにわ会だより第1号完成、印刷屋に発注しました。内容等は先日書いたとおりです。9月初めに発送を予定しています。
記 7月25日 羽黒
海軍兵学校56期の方が作成された「海軍回顧碌』の中にあった浅井秋生氏の羽黒戦記(羽黒の奮戦・ソロモンからレイテまで)をHPに取り込んだ。私は、昭和18年12月5日から19年9月30日まで羽黒に勤務していたのでとても懐かしかった。浅井氏は昭和18年8月から20年3月まで羽黒砲術長として勤務されていて、私が羽黒勤務中の全期間の砲術長であった。したがって、当時のことが詳細記述されていた。羽黒は私が退艦したあと、レイテ作戦に参加、利根と共に一番敵艦に近づき戦闘した艦であり、その後もシンガポール付近で活躍、最後は英国艦隊と交戦、20年5月16日沈没した。その時、海軍兵学校72期の小島と海軍機関学校53期の土屋の2名が戦死している。
Commented by 佐竹
祖父が海軍でセブに行っていた者です。
2カ所程誤記かと思われる箇所があり発言させていただきます。
昭和19年12月5日 → 昭和18年12月5日かと
53期 → 73期かと
ご健勝をお祈りしております。
Commented
by naniwa-navy
私のHP、何時もご覧頂いているのですか。コメント有り難うございました。日時はご指摘のとおり打ち込みミスで訂正します。53期は海軍機関学校53期のことです。
Commented
by 佐竹
いつも拝見しております。
海軍機関学校に思い至りませんでした。コメントありがとうございました。
祖父と同じ時代の方が書かれていると思うと不思議な感じがします。
それでは失礼します。
Commented
by naniwa-navy
コメント有り難うございました。そうですね。おじいさんと同じ時代ですか。もう戦後64年、私は間もなく満86歳の誕生日を迎えます。今手元に海軍兵学校56期の方が書かれた海軍回顧録という本が有ります。その中から関心有るものをHPに取り込んでいます。当時新米士官だった我々の体験と違った記録が沢山あってとても参考になります。お暇な時にでもお読み下さい。
日記 7月26日 会員の近況
先日佐丸幹男君の体調不良のことを書きましたが、今日もまたもう1名の会員から入院中との連絡がありました。個人名をあげるのは差し支えますが、このところ、体調不良の会員が急増しています。
会員に流す情報も第T受信者が健在であることを前提に連絡網を作っていますので、体調不良の会員が増えるとどうしても途中で途絶えてしまいます。私が元気な間は今まで通り流していきますが、何時まで続けられるか自信ありません。
日記 7月27日 故秋田君
特4号の田島君から広島原爆で亡くなった故秋田稔君の状況の資料を戴きました。整理して近日中にブログに掲載します。
先に海軍兵学校56期の戦争回顧録に興味を持たれた右近恒二君から3件見たいと希望をいただきました。CDから取り込んで印刷して送ります。
日記 7月28日 秋田君
昭和20年8月6日の広島原爆に運悪く遭遇し,8月12日に亡くなった秋田実君の最後について,73期岩井良平氏の記事を特四号自認の田島明朗氏から頂いたので、その記事をまとめてみた。
秋田君は当時呉に在泊していた伊157潜の航海長であった。原爆投下の前日,8月5日の朝、非番であった砲術長岩井中尉は、前甲板で艦長に「呉は焼けてしまっているし、いよいよ最後も近い事だから、軍医長と3人で広島へ浩然の気を養いに行こう」と誘われた。事情があり,気が進まなかった砲術長は「何となく気が進みませんので、今回は遠慮させて頂きます。」と返答した。艦長は「残念だが航海長は当直だしするから、そんな事を言わず3人で行こう。」と勧められ,押し問答していた。そこへ航海長秋田大尉が来たので,砲術長は航海長に,「艦長が広島に行こうと言っておられるが,私は気が進まないので航海長行かれませんか」と勧めた。航海長は、「俺は当直だから」と渋った。通信長は「それなら,明日は私の当直ですから帰ってから交替して戴ければ良いですから。」と航海長の当直腕章に手を掛けて外すようにした。航海長は一寸考えていたが、「それでは、済まないが、そうするか」と当直腕章を砲術長に渡した。そして、暫くして、3人で上陸して広島に向かった。
翌6日、朝食後8時の課業始めの時間が近くなっても艦長たち3人は帰って来なかった。課業始め5分前になって、下士官兵が前甲板に並び始めた頃、空襲警報発令。直ちに配置についた頃「B29 1機 広島上空
遠ざかる」とのことで、警報はすぐ解除された。砲術長はおり椅子に腰を卸して、艦長たちもいい加減で帰ればいいものを等とぼんやり海面を眺めていた時、ピカーとエンジ色に紫色が混じったような光が走った。
12時過ぎ、広島が全滅したらしい情報があり、機関長、水雷長、砲術長、手空きの准士官等で協議した結果、まだ艦長以下3人が帰らないところをみると、捜索の必要があるということになった。
1300砲術長は当直を潜航長と交代して、広島出身の水兵長1名と広島に捜索に向かったが町中焼け野が原、全く分らなかった。翌7日朝8時過ぎ帰艦した。
7日は機関長が捜索に行ったが、何等情報なく帰艦した。
8日1600頃宇品基地隊の隊員の2等兵曹が来艦し、「伊157潜の艦長、航海長、軍医長と称する人たちを救助してあるが心当たりがありますか」とのこと。砲術長は大有りだと喜んだ。お礼を言うと共に事情を聞いた。それによると、当日以前から基地隊の隊員が広島の郊外に駐屯して防空壕の作業をしていたが、朝の爆発で広島が壊滅状態になったので、宇品の基地隊に向かって隊伍を組んで移動していた。広島と宇品の間の路上に倒れている3人の1人が伊157潜の艦長・航海長・軍医長だが助けてくれというので、放っても置けなかったから救助してあるとの事であった。
9日、今度は水雷長が、6艦隊司令部のトラックを借用して宇品の基地隊より3人を引き取ってきて呉病に入院させた。その夜、砲術長も見舞に行った。3人とも全身に火傷をしており、艦長は大分こたえていて弱っておられた。航海長は全身にわたって火傷を負い苦しみながらも、はっきりと事情を話してくれた。
「当日の朝、広島駅にきて列車の待ち時間が相当有るので、駅に近い橋の所で、魚釣りをしているのを見ていたところ、ピカットやられて地面に叩き付けられた。 気が付いてみると、周り中火災になっているので艦長を助けながら3人で宇品の方向に逃げた。 途中で艦長が精根尽き果てて動けなくなったところを宇品の基地隊の隊員に救助された。 最後の決戦を前にこんな事になってしまって申し訳がない. 仇を取ってくれ。」と語った。
軍医長は「3人で逃げたが、艦長次いで航海長も声もでないまでへたばり、自分も動けなくなっていたが、そこへ宇品の基地隊の隊員が通りかかったので、自分が呼び止めて救助してもらった。」と語った。
平素の航海長の艦長への補佐ぶりから、大がらな艦長を助けながら移動してした航海長も、艦長が精根尽き果てくるに従い手助けくらいでは及ばなくなり、共にへたばって行った姿が眼に浮かぶような気がした。
呉病の横穴防空壕はコンクリート製で、艦長達は通路の横のドアも無ければ部屋らしくも整えられていない、小部屋風の所に収容されていたように憶え「いる。 通路の奥には大部屋があり、そこには民間人を含め2〜3百人と思われる被災者が収容され治療を受けていた。 火傷の治療に塗る油性の薬の一種独特の臭気が充満していて耐え難い思いがした。 顔面等に火傷を負った3・40歳の婦人が子供を抱いて呆然として座っていた。その母の姿が、被災者が充満し殺伐としたコンクリートの大部屋と共に心に焼き付けられている。 数日後、呉病に収容された被災者は、航海長、軍医長を含めて、三朝温泉がミジューム泉で火傷に効くとかで貨物列車を仕立てて送られたと聞いた。 確か艦長は呉病に収容されてから1日おいた11日の夜、遂に永眠された。砲術長は当直で艦に残っていたが、機関長達が東京から来られた奥さんと、簡単に葬儀を行い、遺骨を引き渡されたとの事であった。 秋田航海長は8月12日三朝温泉で逝去した。
日記 7月29日 56期海軍回顧録
海軍兵学校56期の海軍回顧録の目次
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/56-mokuji1.html
をHPに取り込みました。沢山の記事が有ります。先日ある会員から、その中に読んで見たい記事が有ると連絡が有ったので、印刷して送付しました。
次の3件です。
1 われ空母ヨークタウンを撃沈せり
田辺 彌八
2 第五艦隊の北方作戦
久住 忠男
3 アッツ島沖海戦
三浦憲太郎
この3件はHPに取り込んであります。
これから、昭和19年以降の記事を逐次HPに取り込んで行くつもりです。
目次を見て、読んで見たい記事が有ればお知らせ下さい。
その記事をメール添付で送ります。
日記 7月30日 56期の記事
56期海軍回顧碌の
「山本連合艦隊司令長官の死 野村了介」
「われ空母ヨークタウンを撃沈せり 田辺
彌八」
「第五艦隊の北方作戦 久住
忠男」
「アッツ島沖海戦 三浦
憲太郎」
「あ号作戦 辻本 毅」
「愛宕の最期 岩部六郎」
「天佑を確信し全軍突撃せよ
三上 作夫」
「レイテ沖海戦「作戦参謀」の手記
大谷 藤之助」
「大和特攻作戦の経緯 三上作夫」
「大和特攻作戦に従事 宮本鷹雄」
をHPに掲載した。
日記 7月31日 56期の記事
昭三会(兵56期、機37期、経17期)戦公没者名簿と56期海軍回顧碌の「宇垣長官の最期 野村了介」 「自衛隊と昭三会の自衛官 杉江一三」 「靖國神社の再建と遺族会 大谷藤之助」を掲載した。
テレビ放送
有志会員のHさんから次の情報を戴きました。
NHK総合テレビで、次の再放送が有ります
1 8月4日(火) 1:29〜2:12、証言記録・兵士たちの戦争『フィリピン・シブヤン海
戦艦武蔵の最期』
2 8月5日(水) 0:45〜1:29、証言記録・兵士たちの戦争『人間魚雷
悲劇の作戦〜回天特別攻撃隊』