ブログ 平成20年12月分
日記 平成20年12月31日
深井伸一さんから100号記念誌への投稿を頂きました。
春日美智子様から1月10日までに原稿を送るというメールを頂きました。
守家友義君から先日お願いした写真を頂きました。
私の所に、ニュース5号を除いて1号からのニュース全部ありますが、5号をお持ちの方ご連絡下さい。ニュース編集上必要な場合が出てきますので。
平成20年(2008年)も今日限りになりました。今年は我々が海軍兵学校(海軍機関学校)(海軍経理学校)に入校してから68年、卒業してから65年、太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)から67年、終戦から63年目にあたります。そして「なにわ会」の公式行事は12月の年末クラス会で幕を閉じることになりました。「なにわ会」を支えてきた「なにわ会ニュース」も3月発行予定の100号で幕を閉じます。現在100号の編集にかかっていますが、最後とあって投稿も多く、最終号にふさわしいものが出来そうです。
「なにわ会」の公式行事が終わり、「なにわ会ニュース」の発行が終わっても「なにわ会」の絆は永遠です。HPとブログは引き続き継続するつもりですし、6月1日の靖國神社永代神楽祭もありあす。クラスの情報はHP、ブログで流すほか、メールでも一括名宛で流すことを考えております。したがって、クラスに関する情報 会員の情報(名簿記事の変更等)、各種会合の状況、報告等 はどしどし知らせてください。ブログの記事を整理して年2回「なにわ会連絡報」として配布すことも考えております。
100号記念誌については、現在まで次の会員の投稿を頂いています。
旭 輝雄、泉 五郎、上野 三郎,來島 照彦、桂 理平、国本 鎭雄、幸田 正仁、畊野 篤郎、後藤英一郎、小西 愛明、左近允尚敏,杉田 繁春,杉田 政一,高松 道雄、東條 重道、中井 末一、中山 皎、林 藤太,樋口 直、堀劍二郎、三好 文彦,百瀬 茂、守家 友義,山田 良彦、山本 省吾,和田 恭三,渡邉 望、野崎 貞雄、高田 俊彦、岩切和香子(会友岩切の妻),五頭 和明(購読会員) 以上31名
最終号ですので,総員集合に相応しいようにまだ投稿していない方,是非とも一言投稿してください。ご遺族,購読会員の方もご遠慮なく。1月10日までに頂ければ何とか取り込めますのでよろしくお願いします。なお,投稿頂いた方の写真を是非入れたいのでよろしくご協力下さい。
Commented by たろう at 2008-12-31 23:11 x
いつも更新を楽しみに拝見しております。
私の祖父は主計兵として153空を経て201空に所属しておりました。昭和19年10月からはセブにおり昭和20年4月の米軍上陸時に負傷、同島北部で終戦を迎えました。
最近認知症となりましたが、折々に聞いた話や履歴申立書から当時のことを想像しております。子供が大きくなったら祖父のことは伝えたいと思っています。
伊藤様が末永くお元気で本ブログを更新されることをお祈りしております。
いつもこのブログをご覧頂いているようで有り難うございます。これは会員に対する情報配布を主としています。HPのほうにも、いろいろ掲載しております。参考になれば嬉しいです。平和を願っています。
Commented by 春日の長女 at 2009-01-01 12:42 x
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
日記 12月28日 守屋君
10月に頂いていた守家友義君の「思い出」という投稿、フロッピーで頂いたのですが、大事にしまいこんでいて、今朝見つけました。早速取り込みました。写真1枚送ってくれるよう電話でお願いしました。100号記念詩誌に投稿される方、なるべく年内にお願いします。年明けになる方は予約(題名と大体の字数記入)してください。出来るだけメールでお願いします。メール出来ない方は、パソコンで打ち込んだものをフロッピーかCDに保存して送ってくれると助かります。
購読会員の方がHPの打ち込みミスを教えてくれました。HPの戦記、戦没者、物故者関連の記事は、先に山本君、桂君の協力を頂いて随分訂正しましたが、まだ見落としがあるようです。何しろ、何千と取り込んでありますので、なかなかチェックも出来ません。気付かれた方はその都度教えて下さい。
76期の会報を頂きました。76期は20年11月11日横浜において全国総会・懇親会を行い、500余名が集まりました。21年は東京で11月24日実施を予定しています。
クラス会として,25年まで年1回の総会,年2回の会報発行,会員名簿の常時整備,期友の動向把握と関係者への連絡に勤め,その資金として5年間で1万円の納入を提案しています。さらに、向こう5年間の運営資金として、1口5千円 2口以上期待として寄付金を募集しています。
故春日君の長女美智子様から早速年内に100号への投稿記事をメールで送りますとメールを頂きました。早速のリアクション嬉しいです。
日記 12月27日 74期会報受領
74期の会報21年1月1日号受領。期会活動終結後の各支部、地区の運営について期待している。また関東北支部、東京地区、神奈川6区、千葉支部、関西支部、九州支部、丸の内木曜会のクラス会の報告が掲載されている。
酒巻和雄氏(68期)の講和内容が海軍兵学校連合クラス会第8回全国大会記念誌の48頁から59頁まで12頁にわたって掲載されているが、その経緯について書かれている。
渡邉 望君から関西なにわ会の記事の校正の返事をいただきました。
日記 12月26日
高松道雄君と幸田正仁君から先日送った投稿記事の校正が帰ってきました。
71期のHPで次の記事を拝見しました。
訃報
花田 賢司氏 20・7・24 没
桧垣 保雄氏 20・9・5 没
大島 清二氏 20・10・7 没
鈴木 好和氏 20・12・6 没
堀江 一間氏 20・12・17 没
Commented by 春日の長女 at 2008-12-27 10:52 x
父の潜水艦(ハ201)の艦長であらせられた70期の佐藤様が12月23日に亡くなられたそうです。非常にお元気でいらっしゃったので、みな信じられない思いです。もう、お葬式も済ませられたということでした。
日記 12月25日 73期会報
73期会報を頂きました。読んで見て、一番目立ったのは訃報の多いことでした。
99号で19年8月以降の物故者11名を紹介しましたが、その後、浅野敬三、宇井野誠、大竹司郎、小澤泰郎、大野次郎、常野憲秀、鈴木孝夫、曽矢錬三、田島大像、田中健夫、西出公男、狭間俊雄、藤澤保雄、益田善雄、百田紀一、山森直清、蓬田秀雄の諸兄、計17名が逝去され、1年間で28名も亡くなっている。そして、20年11月1日現在の現存者は289名です。
佐丸幹男君から2回目の校正を返却していただきました。
泉五郎君から耄語碌
クリスマス 一晩信者の お目当ては
ケーキにシャンパン プレゼント
クリスマス 似非信者への プレゼント
まずい不ケーキ 仕事キャンセル
不景気の 非情を写す このカメラ
キャッキャッ云っても わしゃノンノン
味めくら 子供に媚びて 日本は
柔けりゃ美味い、甘けりゃ美味い。
日記 12月23日
昨日頂いた幸田君の歩こう会の記事と渡邉望君の関西なにわ会の記事を取り込みました。
日記 12月22日関西なにわ会 歩こう会
幸田君から湘南あるこう会の記事を貰いました。
渡辺望君から関西なにわ会の記事を貰いました。
杉田繁春君から校正を貰いました。
日記 12月21日
高松道雄君の投稿の取り込み、終わりました。本人に送って校正して貰います。
日記 12月20日窪添龍輝君校正返却
先日送った2回目の原稿の校正、窪添龍輝君から戻ってきました。
今日は1日かかって、高松君の投稿を打ち込みました。あと、英文の打ち込みが残っています。
日記 12月19日 高松君の投稿
高松道雄君から100号の原稿をいただぃました。約4000字で英語もあり打ち込みに嬉しい悲鳴を上げながら頑張っています。
後藤英一郎君から先の投稿原稿に入れる写真を頂きました。
日記 12月18日
今度のなにわ会ニュースは最終号ですので、投稿いただいた記事には出来るだけ投稿者の写真を入れたいと思っています。これから投稿される方は写真1枚添付して下さい。
先日中山君に投稿してもらいましたが、写真も頂いたので記事に貼り付けました。
年末クラス会の記事、中井君から上野君経由いただきました。整理して、両君に校正をお願いしました。
日記 12月17日 後藤英一郎君の投稿
後藤英一郎君から100号記念誌の記事の投稿を頂きました。
日記 12月16日 77期会誌
77期会誌「江田島」88号を頂きました。77期は数年前から年会費の徴収をやめて、クラス基金で運用されてきました。次第に基金が心細くなり、85歳になる平成25年まで持たせるのが難しくなってきて、クラス会の基金を支える寄付金(1口5000円、2口以上歓迎)を募集しています。変わった記事として、「俺も77期」と題して16名の会員が書いています。
日記 HPの写真変更 投稿記事(桂・畊野・山本)
HPのTOP頁の写真のうち、海軍経理学校の写真を高田君から頂いたカラー写真と入れ替えました。最終号の表紙には3校のカラー写真を入れたいと思っています。
先日頂いた畊野篤郎君の投稿の変更がきました。前の投稿と入れ変えました。
小西愛明君の投稿記事、本人の校正終わりました。
山本省吾君から100号への投稿を頂きました。
日記 12月14日 耄語録
泉五郎君から次の耄語録を頂いた。
この国の 戦中・戦後派 現代っ子 同じ面でも 異邦人
先達て故広瀬遼太郎君の令弟晴雄氏から一冊の本を頂いた。神風特攻隊員が、あの世から今の日本に舞い戻つたという想定での風刺的小説である。戦死者から見れば、今の日本は正に異国であろう。
我々にしても今の日本は到底いい国だとは思えない。確かに物質的には恵まれ過ぎるほど恵まれている。然しこんな国にして仕舞ったのは誰か?
戦後左に振れ過ぎた振子を正常に戻すには容易なことではない。強盗殺人は日常茶飯事! 官僚、政治家は相変わらずの汚職怠慢。
女と紛う男ども、牡顔負けの雌共が幅をきかすテレビの画面。ドラマでは概ね男が女に張り飛ばされて悄然としている。
流石戦中派には少ないが、いい年をした大の大人が妙ちきりんな風体で能書き垂れる番組もある! 視聴率を上げる為なら相手が、低脳族であろうがミーハーであろうが一向に構わない、国家の風格などは糞喰らへ! 自由な日本合衆国万歳!
人の世は 川の流れに 似たるかな 老いは岸辺に 澱(よど)み漂う
老境、世の流れに乗るのは中々難しい。これは自然のこととは思うが、そして老人はやがて岸辺の藻屑と朽ち果てる。 それにしても世の様の移り変わりはすざましい。 然し、老人は口だけ何とか達者でも新しい知識技術進歩には到底ついてゆけない。特に日進月歩どころか分進秒歩のインターネット社会には全くお手上げである。 ところがインターネット社会は地球の回転とは無関係な現象である。 かくて、人間は夜も昼もない別次元の世界に追いやられ、自らもそちらを向いて走り出す。 然し、春夏秋冬、朝昼晩と、地球のリズムで生かされた人間が、自らその生活のリズムを破壊するような文明に耽溺(たんでき)する様は人類自滅の前兆としか思えない。 そろそろ岸辺に澱(よど)み朽ち果てるほうが賢明か!
言霊の 幸ふ国と 謳(うた)われし 今は昔の カタカナジャパン
昨今日本の言葉の乱れは情けない。もっとも言葉などと云うものは生き物のようなもので、同じ日本でも時代や地方によって変遷相違があるのは致し方ない。 然し言葉には霊が宿ると信じ、美しい言葉を目指してきた我々には、最近の言葉の乱れは耐え難い。 特にマスコミの低俗番組に毒される言葉の乱れには耳を覆いたくなる。低俗番組だけではない。政治番組でも政策論争までが矢鱈とカタカナ言葉を使いたがる。
例えば「コンプライアンス」なんていう言葉を聞いて即座に理解できる国民がどれ程いるか?
「サブプライムローン」がどのようなローンなのか直ちに判る一般消費者がいるか?
など例を挙げ出せばキリがない。ただ即座に訳語が一般大衆に馴染まない言葉なら止むを得ない一面もある。 然し例えば今回の北京オリンピックでも「星野ジャパン」や「なでしこジャパン」など、ただ語呂合わせだけの表現は国名への冒涜である。 肝心な点はこのような言葉遣いが何の批判も受けずに国民の間に浸透してゆくことである。 悲しい哉!かくて日本人は母国語を喪失してゆくことになる。
戦没者 敬称なしの 霊とのみ 白木の柱 非礼祭
8月15日例年の如く全国戦没者追悼式が日本武道館で行われた。たまにはテレビを通じてでも追悼の意を捧げるかと思い画面に見入った。毎年の事ながら通り一遍な天皇の言葉には心底より迸(ほとばし)る何物かがない。 何よりも戦後派代表の衆議院議長河野洋平の式辞は、戦没者の慰霊と云うより戦争の非を唱え、相手国に詫びるのが主眼であるかの如き感さへ覚える。 そもそも祭壇中央白木の柱は立派だが、全国戦没者之霊とのみ記されて他に一切の敬称はない。これは一体どういうことか?!或は天皇の拝礼に配慮してわざと敬称を省略したのか? 慰霊祭などとは言語道断、これでは正に非礼祭である。遺族の心中や如何。(以上,20/9/1発信)
世界一 融通無碍な 日本語 縦横斜め 逆からも
昨今日本語の乱れは誠に嘆かわしい限りではあるが、考えてみると日本語ほど融通無碍な言葉も少ないのではなかろうか? 勿論言語学は愚か外国語もその昔、受験英語を少々勉強しただけの門外漢の感想であるから、学者先生から見ると何を下らぬ話しかと笑いものになるかも知れない。 日本語の面白いところは、文章を右から書いても左から書いても読める。もともと日本語は漢文同様縦書きで行は右から左の順である。 然し明治の開国以来、左から右への横書き欧文に接するや、忽ちカタカナを活用して左から右への語順で簡単に翻訳文を表現した。多少の抵抗はあるが、無理すりゃ縦書きでも読み書きできぬことはない。 仮に原稿用紙に斜め書きすれば、これは忽ち一通の簡易暗号文章になる!膨大な乱数表も不要で甚だ実戦的である。戦時中こんなアイディアはあつたのかナ?
靖国に そっぽを向いても 総理様 漁師が死ねば 家まで参る
福田総理が遂に退陣した。そもそも、彼に一国の首相としての器量があつたかどうか甚だ疑問である。その腰抜けぶりは流石、日本赤軍の暴挙許した親父の跡取りである。万事が万事、事なかれ主義の番頭政治で、北朝鮮にも舐められぱなしである。 よくもこれで日本の総理が務まるものだと感心するが、目先の人気取りばかりは中々たいしたものである。 話は少々旧聞に属するが、先般東京湾口で自衛艦が漁船と衝突事故を起こしたとき対応には、防衛大臣に加え総理までが弔問に自宅まで訪れた。こんな国は世界中探しても見つからない。こんな男を頭領に頂かねばならない自衛隊員が誠に気の毒である。 自衛隊をよくよく疎ましく思っている彼の本心を垣間見た気分である。私には彼が戦後派日本人のチャンピオンに思える。
自衛艦 そこどけ邪魔だ 道空けろ 漁船ヨットが 目に入らぬか
話のついでにこの事件の直後、東京都知事の石原慎太郎までが「軍艦も漁船もレジャー用のヨットも航海上の権利は同等だ」と放言、自衛艦の対応を一方的に非難した。 東京湾口などはいわばインター近くで、最も交通量の錯綜するハイウェイのようなものである。陸上でも道路建設等のためは個人の権利より公的利害の優先される場合は多々ある。 漁業と海上交通との調整こそ必要で、これと一部富裕層のレジャーであるヨットの航行権を同列に論ずるなど言語道断の思い上がりである。 今回の事件、自衛艦の見張り怠慢が最大の原因であろうことは疑う余地もなさそうであるが、それにしても漁船が真っ二つになるとはよくよくの事である。海難審判の真相究明を待ちたい。(以上 20/9/7発信)
何が国技か 無頼の相撲 所詮はどっこい 金儲け
相撲界の荒廃は目を覆うばかりである。伝統とそれに伴う国民の甘やかしが国技としての相撲界に、独善的な驕りと自惚れを助長してきたことには疑いの余地がない。 相撲界は今や完全に時代遅れの社会である。元々は神事に一環としての行事が、興行性を帯びるにつれ次第に営利化してゆくのも時代の流れであつたろう。その挙句が外人力士の登場と相成った。そもそも体格や生活習慣、社会意識の違う外人まで登場させること自体が国技からの逸脱である。
逸脱というのに語弊があるなら、相撲界が自ら国技から脱皮して国際化という変革への第一歩を踏み出したのである。 国際化を容認するなら、財団法人日本相撲協会は個人商店のような相撲部屋の寄り合い所帯では、所詮自滅の道を辿るしかないのである。何れ大相撲にスポンサー企業の四股名をつけた力士の登場と相成る日も遠くないかもしれない。相撲部屋も個人的タニマチから企業スポンサーへ鞍替えし、総てを明朗管理しなければ大相撲に未来はない。
ことのついでに柔道も、今や道着を着たレスリングになりさがつた。我々には見たくないJyuudouである。(20/9/10 発信)
人間は 言葉でものを 考える 言葉乱れりゃ 国も危うし
最近の言葉の乱れはいみじくも会誌99号で椎野廣君の「日本のマジョティは大丈夫か?」 の一文で軽妙にして実に見事に喝破されている。全く同感!今や日本語は正に崩壊の寸前である。 言葉の乱れは即ち思考の乱れ、この問題を追及解明してゆくことは我々浅学の徒に成し得ることではない。然し、最近の日本語の乱れは正に日本文化崩落の兆しである。 戦後の漢字制限がその尖兵となった。確かに言えることは、漢字は種類も多いし字画も甚だ複雑である。然し文字自体は表意的な形態のため、見慣れれば複雑なものでも楷書ならば識別は容易である。 然し、その反面筆記するには中々手間がかかる。そこで行書、草書と変化簡略化されると今度は本来の形とはまるで違う印象のものもあり、これは相当難儀な代物となってよほど研鑽を積まないと読み書きできない。楷書は書きづらい、行書草書は読みづらい、漢字が敬遠される最大の原因であろう。 明治維新、30字そこそこで文章表現が可能な欧米文化に驚いた日本では、英語を公用語にと云う議論さへあつたという。 そして今次大戦惨敗の結果、漢字軽視は天下御免の風潮となつた。自らの固有文化を軽視して漢字使用に制限を課す一方では、カタカナ言葉の乱用はお構いなし。立法行政自身が矢鱈と外来語を導入、マスコミがこれを国民に啓発するどころか、逆に己の優越性を誇示するかの如く外来語を乱用する。例えば政権公約とか政策綱領といえばよいものを我が党の「マニフェスト」とのたまう。新聞は家庭内暴力と書けばよいものを「ドメスチックヴァイオレンス」と言い換えて得意げに報道する? 漢字と訳のわからぬカタカナの羅列とどちらが速読し易いか? しかも、今やコンピューター時代、文字数の少ない英文などに比べれば、多少時間はかかるかも知れないが、複雑な文字候補でも識別さへ出来れば記録するのに訳もへちまもない。 電子技術の発達が今や漢字復権の時代を生んだといえよう。 若い世代の国民は漢字に愛着など持つていない!などと決め付けるのはとんでもない誤りである。最近の新生児に対する命名傾向を見てみるがよい。強く、美しく、爽やかな語感を持つ文字が流行っている。残念なことは文法を無視して矢鱈と勝手な読み方をする輩の多いことである。 かと思へば 自らを「さいたま」などと名乗る痴呆都市がある。そこにあるものは、伝統や歴史を無視した目先の安直さだけである。真似するところが出て来ない内に、ギネスに国辱的痴呆都市名第一号として登録申請をしては如何かナ!(20/9/18)
先生と 生徒はただの 友達か 師も師と言えず 親も親なり
最近の教育界の乱れは「何とも情けない!」の一言に尽きる。考えてみるとこれは何も最近だけでなく、敗戦後一貫して日本の教育は混迷を続けている。その尖兵として社会を毒してきた日狂組もさることながら、己の子供のことしか考えない親もオヤである。 特に小中学生のくらいの子供を持つ親は、親自身が若く、社会人として未熟なせいもあってか甚だ身勝手な人間も多い。 誇張や虚構も多いかもしれないがテレビ画面に映し出される教育現場の光景は我々老人には眼を覆いたくなるばかりである。「三尺下がつて師の影を踏まず」なんていう言葉は勿論、昔話としても通用しないようなご時勢ではあるが、師も師で大学教授が猥褻(わいせつ)行為で首になつたりもする! 教師になるには袖の下が罷り通る。開いた口がふさがらぬ。 些か大昔のことで恐縮だが、嘘のような本当の話をご披露しよう。次男が中学進学の際、学区が新設校に変更になった。当然昔の伝統校への進学を期待していた地区の父兄は拒否反応を起こし、新設中学の船出は大変だった。 初会合で「PTA」などは、「おばはん連中の井戸端会議のようなもんじゃ」とのたまつて、おばはん方から総スカンを喰らつた私だが、どういう訳かその私が初代会長ということに相成った。 後に校長が転勤となり学校での送別会のあと、校長見送りに際しPTA役員も車に添乗して新任校まで付添うのが慣例であるときた。 私は勿論言下に拒否した。幼稚園の子供じゃあるまいし何処の世界に大の男が新しい転勤先まで添って貰うところがあるか?! 海軍じゃ艦長が転勤で戦地に赴くときでも、舷側「帽振れ!」でおしまいが、この体たらく! やがて、三年の年季奉公がやっと終わつたら「PTA会長のご真影」を学校に飾りますときた。勿論、言下に拒否! 呆れ果てて腹を立てる気にもならなかつたが、こんな昔話は序の口で、今やわが国教育界の惨状には言うべき言葉がない!(20/9/22)
情けなや 明けても暮れても 人殺し 親も子殺し 子も親殺し
正に世も末である。毎日殺人事件が報道されない日はない。明けても暮れても凶悪事件ばかり!それでも発生率はアイルランドと並んで世界では最も少ない方らしい。 因みに昔は、殺人事件などはどれ程あつたのか?新聞などでもそんなに騒がれた記憶はないが、念のためインターネットで調べて驚いた! といつても戦前の正確な統計は検出できなかつたが戦後も60年以上、殺人件数は現在と大差はないようである。貧困、差別、病気など、昔も今も動機に大差はなかったのか? これには大変なショックを受けた。正直、耄語録などと気取って現代社会の非ばかり鳴らしていたが、我ながら嫌気がさして暫く筆をとる気もしなくなつた。 そんな時、伊藤編集長からブログの原稿が少ないので投稿しろとの催促があつた。
以下の拙稿は、少々発表のタイミングがずれたので中身は省略して表題のみ。もつとも中身は書かなくてもわかる程度のことばかり、ご同感をえられれば幸甚。
マスコミは 巨報か虚報か 木鐸(たく)か 金だけ目当ての 馬鹿番組
NHK 海自の現状 糞味噌に これじゃやる気も起こらんぞな!もし
何とかならぬか 三里塚 年ふり行けば 義憤も私憤
日狂組 これ非難して 何故悪い 社会の黴菌 日本の恥辱
空爆長 紙の爆弾 一発で 腑抜け腰抜け どうした先生?
(20/12/14)
人間は万物の霊長などと自惚れているが人間と動物の違いは、自らの手で火を操ることが出来るか否かにかかつている。 そしてその火力を動力に、更には電力に転換して宇宙の神秘、生命やエネルギーの根源に迫ろうとしている。 詳しい理論は理解しかねるが、人間は遂に冷凍マウスの死骸から脳細胞核をとりだし、これを母体マウスの胎内に移植して、新たな生命体四匹のクローンマウスに再生復活させることに成功したようである。 これは果たして科学の進歩なのか、破滅への第一歩なのか?クローン人間の誕生は人類に何を齎すか?私には判らない!人間が何故そこまでやらねばならぬのか?進歩すればするほど自滅の淵へ突き進むかに思える、この近代文明の愚かさ恐ろしさが身に沁みる。人間は万物の霊長などと自惚れているが、人間ほど傲慢な生き物は他の星にもいるのだろうか?
中国にはその昔、天が墜ちてきたらどうしようと憂いた杞の国の人を馬鹿にして、杞憂という言葉がある。然し杞憂は形を変えてやがて現実のものとなる日も近い。
日記 12月13日 小西愛明、畊野篤郎の投稿受領
100号への投稿として畊野篤郎君と小西愛明君から原稿を頂いた。
74期談話室の記事
74期の談話室の記事の転載です。
池田氏ご夫妻(矢矧測的長で枕崎平和記念慰霊展望台を守る会の会長、建築家として有名ー日本設計創始者、ハウステンボス設計同社長、建築学・家協会名誉会員、科学大学名誉教授の他名ヨットマンでもあられる)
ご令室様は洗面器の水も怖い方であったが御主人のため努力され、東京〜長崎のセールにも同行されるそうである。
お住まいはハウステンボスの南約20キロの琵琶首鼻の突端にあり、地元では大先生ご夫妻と敬われておられる。
自ら設計され釘一本無い文化財のようなお住まいで、広い板張りは海に突き出、左回りに海が広がる。定置網が仕掛けられ、多良山系が遠望される。
我等の1号生徒池田武邦氏には一度拝顔の栄に浴したいと念願して居た。それは35分隊のクラス諸兄の個性豊かでしかも比類なき団結の根源を究めたい為である。今年4月7日の第2艦隊(旗艦大和)慰霊祭でのご挨拶を拝聴し、その念を益々強くしていた。この度お会いした感想は失礼ながら 凛とした青年海軍士官其の侭の中に優しく包容力抜群、筋の通った話は短節で「3号生徒は皆個性豊かで優秀であった」とあくまで謙虚であられた。駄文は擱こう。「この伍長生徒にして35分隊あり」、立派な72期1号生徒に恵まれたあの日あの時、今も続く篤い思いを語りながら一路嬉野を目指した。
日記 12月12日 湘南歩こう会
「湘南歩こう会」の忘年一泊旅行は、好天に恵まれた12月10日と11日、「別所温泉」で行なわれました。参加者は、足立夫妻、深尾夫妻のほか、男性は幸田、高田、女性は伊藤、小松崎、藤井、村上の皆さんで、計10名でした。今年3月に新装成った「玉屋旅館」に1泊しましたが、設備、食事、サービスとも抜群で、一同大満足でした。1
0日は、別所温泉の「常楽寺」(石造多宝塔)、「安楽寺」〔八角三重塔〕、「北向観音堂」、「足湯ななくり」などを徒歩で遊覧、翌11日は旅館の車で、旅館から約10分の「無言館」(戦没画学生の絵画、遺品など展示)を見学、タクシーで上田に移動、上田城址を見物して二日間の旅を終わりました。この時期には珍しいぽかぽか陽気で、一同楽しんで帰りました。
Commented by 上野三郎 at 2008-12-13 21:18
他用があり欠席しましたが、とてもいい旅行となったようですね、羨ましい限りです。集合写真では皆様厚着をしておられますが、快晴で一寸暑かったのではありませんか。
Commented by あらい at 2008-12-14 16:29
わたしも15年ぐらい前に別所温泉、上田城址など行ったことがあります。池波正太郎『真田太平記』を読んで行きたくなり、「しのび」になったつもりでそこらへん巡りました。
歩こう会の記事を読んでまた行きたくなりました。今度行く機会があれば「無言館」も訪ねてみたいです。
Commented by 伊藤正敬 at 2008-12-15 05:34
上野三郎さん、あらいさん コメント有り難うございました。このブログ、コメント少ないので、いつも寂しくおもっています。ほかの方もコメントよろしくお願いします。
購読会員のブログの転載です。
「生駒山の空戦ー2008年12月11日
最近、内地防空関係の本を読んでいておもしろい撃墜記録を見つけました。 「おもしろい」っても、「笑える」って意味じゃないですから。 「へえ、こんなこともあるんだー」とびっくりしたというか何というか。
昭和20年1月(ご本人の回想によると「20日ごろ」)。
鳴尾基地で関西方面の防空を担当していた332空の相澤善三郎中尉(72期)。
この日、日本海側から太平洋に向かって抜けようとしていたF13(B29の偵察機型)発見の報に接し、同期の松木亮司中尉とともに「それっ!」と邀撃に上がります。 この日の相澤中尉の乗機は零戦。 332空は、対大型爆撃迎撃用に作られた雷電配備の部隊で、相澤中尉もふだんは雷電に乗っています。 なのに、え? 零戦でF13に立ち向かっていったの? ちょっとびっくり。
私のイメージでは、B29というのは高度10000メートルぐらいのところを悠々と侵入してきて、日本軍の迎撃機がハアハア言いながら上がってきた頃にはもうそこらへんにいない、みたいな・・・・。 B29ってあんなに大きいのに逃げ足が速いらしいですね。爆弾を落として身軽になったあとなど、あっという間に姿が見えなくなるというか・・・・。 B29ですらそうなので、それの偵察機型ということは、最初から爆弾は積んでいない(つまり身軽)、爆撃照準や編隊行動の制限もないから好きなように回避行動が取れる、ということで、ただでさえ落としにくいB29よりさらに落としにくいのでは? それを零戦で追っかけようというのだから、すごい!
そもそも零戦で高度10000メートルまで上がれるのかな、動けるのかなと思うのですが、この日の相澤中尉の零戦は10000メートル以上上がれるようにエンジンを調整してあったのだとか。 そして、期待にたがわず、一緒に上がった松木中尉を置き去りにしてぐんぐん上昇していきます。 11000メートルまで上がったときには、目標のF13はちょうど相澤中尉のほうに向かってくるような好位置に占位していました。 静かにそっと旋回し、近づいてから20ミリ機銃を撃ち込む相澤中尉。 機銃弾は吸い込まれるようにF13に向かって飛んでいったとか。
(相手から反撃があったかどうかは不明) 攻撃できる時間などほんの数秒のことだったでしょう。 ハッとして見たら、F13の主翼、エンジンのあたりから黒煙を噴きながら、そのまま南のほうに飛び去っていったそうです。 ご本人は自覚はなかったようですが、基地に戻ってから他の部隊から米軍機1機が潮岬沖に落ちたと知らされ、他に該当する空戦もなかったことから、相澤中尉が火を噴かせたF13と認定されました。 もう64年ほど経ちますが、相澤中尉がF13と一騎打ちをした生駒山の上空。平成20年12月11日のそこは平和な空です。
わたしは母に、 「ばあちゃんに戦争中のことは聞いたらいかんよ」 と釘を刺されていたので、祖母に聞いたことはありません。 母は19年生まれなので聞いてもわかりません。
今年になってかな、皇統護持作戦のために杉安にやってきた343空の3人(大村大尉、加藤大尉、堀飛曹長)のことを聞くために、終戦時10歳だったおばに電話をした時、 「戦争中は大阪にいて、終戦後すぐに宮崎に帰ってきた」 みたいな話を聞きました。 ということは、うちの母は1歳の頃まで大阪にいたってことか? うちの祖母や母がいた大阪の町を命をかけて守ってくれていた人たちがいたんだなあ・・・・。いや、いまもお元気にされている姿を見て、なんだか胸がいっぱいになりました。」
日記 12月11日 湘南歩こう会旅行
昨日と本日2日間の旅行会が行われ10名が参加しました。細部は高田君から知らせて貰って掲載します。
100号原稿現在約130頁分集まってきました。これからの投稿も期待されますので、これまで纏まった分の校正をお願いしました。
日記 12月10日
左近允尚敏君から中村元一君を偲ぶ記事を頂きました。彼の提言で高田君に中村君の思い出をお願いしました。
国本君からニュース用写真を送ってもらいました。
日記 12月9日
11月27日に水交会で行われた池田武邦君の講演の概要を77期の方から頂いたので転載します。
「 池田氏経歴」T14、1月生、S18,9兵72期卒(625名)、軽巡矢矧(満載排水量 8500トン)艤装員、18,12矢矧竣工して航海士、S19,6マリアナ海戦、S19,10,24、5レイテ沖海戦、S20.4.7沖縄海戦、5月広島県大竹の潜水学校教官で終戦、
S21,4東大工学部建築科入学、S24,3同科卒業、(株)日本設計入社、工学博士、霞ヶ関ビル、新宿京王プラザビル、新宿の超高層ビル設計に参加して同社社長。近年は「長崎科学総合大学教授」。
(1)マリアナ沖海戦(S19,6,19)
零戦の航続距離300哩、F6F200哩を利用して全面に巡洋艦戦隊を配置しF6Fに攻撃させ、後方空母から爆装零戦で敵空母を攻撃する「アウトレンジ戦法」でしたが結果は「マリアナの七面鳥打ち」で零戦219機、F6Fの損害12機でした。 空母翔鶴は敵潜の魚雷で新大空母大鳳も敵潜の魚雷ですが、気化ガソリン換気扇SWのスパークとの説です。米側は通信完備で敵情を把握したが日本側は雑音多く通信不備が敗因の1端のようです。
(2)レイテ沖海戦(S19.10,24,25)
タウイタウイを出てからは敵潜に悩まされ、レイテでは一方的に空爆雷撃にさらされて操艦がやっとであった。
(3)沖縄海戦(S20.4.7)
大和、矢矧、駆逐艦8隻ですがF6F,艦攻、艦爆の攻撃でAM1130より邀撃し、 矢矧は1403,大和は1416大爆発後沈没です。駆逐艦4隻も沈没です。
ここで問題は沈没艦の将兵数百名が浮遊中F6Fの銃撃で戦死しています。ジュネーブ条約違反です。池田氏は5時間浮遊して駆逐艦冬月に救助されて佐世保に帰還しました。
(4) 結論
敵は日本の情報を的確に把握したが、日本は通信設備不良で敵情を把握出来なかった事だそうです。通信設備の差が決定的敗因だと繰り返されました。
山田良彦君から艦爆隊員のことを100号に投稿して貰いました。
杉田繁春君から内地で亡くなった戦没者の戦没場所の現在の地名を調査した結果を100号掲載用として送って貰いました。
相澤善三郎君から100号記事に入れる写真を送って貰いました。
日記 12月8日
6日のブログに書いた相澤善三郎君の記事をパソコンに取り込み終わりました。
今まで頂いた100号の原稿を整理して、校正担当者に送る準備を始めました。最終版ですので、投稿者の写真を出来るだけ掲載したいと思います。総員集合の集まりが、まだ余り良くないので、どうか積極的に投稿して下さい。
杉田繁春君から本土で戦没した期友の戦没地について調査した資料を送って頂きました。これらを整理して100号で発表したいと思います。
日記 12月6日
4日のクラス会の写真、HPにも多数とりこみました。
ジェイ・シップス34号(2008年12月発行)に相澤善三郎君のインタッビュー記事が4頁にわたって掲載されています。100号に転載します。
日記 12月5日 桂理平君の山根君の記事
昨日の年末クラス会名簿印刷時は79名でしたが、その後の欠席が3名(溝井君、新庄君、佐丸君)出て76名になりましたが、当日出席1名(三好君)あり、77名でした。ホテルには前日77名と訂正してありましたので +− 0 でした。
故山根君の追悼文を桂理平君からもらいました。
海軍兵学校の改装後の写真
今日のクラス会で田島様から頂いた改装後の元海軍兵学校(第1術科学校及び幹部候補生学校)の写真です。
元第1生徒館(昔の3階が4階に改装)
元第2生徒館(幹部候補生学校)
大講堂
教育参考館
日記 12月4日 年末クラス会
なにわ会最後の年末クラス会が1200から1430までアルカディアで行われ、77名が参加しました。今日は電車の遅延事故があり、何名かの方が未着でしたが、定刻12時、野崎君の司会で開始されました。
まず戦没者及び戦後物故者に対し黙祷を捧げました。
続いて年度幹事代表の左近允尚敏君の挨拶がありました。
関西からはるばる参加してくれた石井晃君の音頭で乾杯が行われ懇談に入りました。
暫時懇談の後、足の悪いのを無理して参加してくれた樋口直君のなにわ会を振り返ってというなにわ会の幕締めにふさわしいお話がありました。
さらに懇談に入りましたが、その途中で、広島から参加された田島特四号生徒の感謝の言葉、石井君の関西なにわ会の報告、藤瀬君のガン治療の話、編集長の21年以降のなにわ会についての話等がありました。最後の会ということでもあり座は盛況を極め、瞬く間に2時間半の予定時間を経過し、最後に相澤善三郎君の音頭で軍歌演習を行い散会しました。
日記 12月3日
山田 良君欠席に変更、参加者77名になりました。
HPトップからのリンク先のサブ頁、TOPへのリンクは全部修正おわりました。
その先のサブ頁のTOPへのリンクはこれから修正します。
日記 12月2日 年末クラス会
上野三郎君から電話で溝井清君欠席に変更の連絡あり、参加者78名になりました。
日記 12月1日
今中井君から電話あり、年末クラス会に中井夫人風邪で行けなくなったとのこと、さらに平野律郎君からメールあり、風邪ひいたので欠席とのこと、さらに伊藤の家内も足の痛みがひどくなり欠席に変更、参加者79名となりました。
当日配布する資料、「会の次第と軍歌」、「参加者名簿」、「21年以降のなにわ会について」の印刷終わりました。