ブログ 平成20年11月分
日記 11月30日
もう11月も終りですね。本当に月日の立つのが早いですね。最後の年末クラス会も目前に迫ってきました。今日は当日配布する資料の印刷前の最終チェックを左近允尚敏、上野三郎、窪添龍輝、高杉敏夫の4君にお願いしました。左近允尚敏君からはすぐご意見を頂きましたので修正しました。ただ、私が今年購入したパソコンはビスタですのでワードもエクセルも2007が入っていますので、そのまま保存した文章は2003以前のでは開けません。開ける様式で保存すべきところ間違えて保存したため開けなかったようです。
# by naniwa-navy | 2008-11-30 22:53 | 日記 | Comments(0)日記 11月29日連絡報代
99号でお願いした連絡報代《会員と購読会員(5000円)遺族会員(1000円)》について窪添龍輝君から)納入状況を知らせて貰いました。
正会員 兵101、機17、主12、会友6 計136(78%)
物故者遺族 兵51、機6、主4 計61(55%)
戦没者遺族 兵82、機9、主3、計94(57%)
有志 15(62%)
会員の未納入の方振込よろしくお願いします。
林 藤太君から100号の記事「群馬県戦没社慰霊祭」をもらいました。
日記 11月28日 関西なにわ会
名村英俊君が同伴2名で参加,山下誠君が都合で欠席に変更,現在のところ82名参加になっています。
74期の会報「江鷹」352号を頂いた。74期も来年末で組織的活動を終了するのでそれに関連する記事があった。10月3日に16分隊会が行なわれ安藤と上野両君が参加していた。
次の3君の訃報記事があった。
岡部怜也昨君(7月29日没) 長谷川泰彦君(10月1日没) 平野俊哲君(10月9日没)
昨日、大阪で関西なにわ会が開催され12人が集まりました。そして山本君からメールがありました。要旨次の通りです。
1、年末クラス会の資料、「21年以降のなにわ会について」資料配布、山本君が要旨を説明してくれた。
2、関西なにわ会の存続は改めて今決めるのではなく、今後の成り行ききに任せ、元気な者が声を掛け合おうということになり、差し詰め今回京都から4人(桂、小西、加藤、山本)と多数の参加があり、誰かは元気だろうから、来春、京都で花見を兼ねて懇親会を開こうという話になった。
3、戦記についてはHP戦記目録をプリントアウトし意見を聞いた処、3名は不要(会誌をずっと保管している。改めて読むと虚しさ感じる)4名は送料とも5千円程度なら会誌発行希望(活字で読むのが一番、後世に語り部として、戦争の実態を残すべきである。)3名はDVDーRで残すべき(今後、インターネット付、テレビやプリンター、携帯電話などが普及する。嵩を取らず安価)でした。あと2名は態度保留。
日記 11月27日 桂君の呉江田島訪問記
上野三郎君から電話あり、藤瀬君年末クラス会に参加されるとのこと、これで参加予定者81名になりました。
桂理平、小西愛明、鈴木彊が先日行ったt江田島、呉訪問記をいただきました。田島特4号生徒のアレンジでとてもいい訪問になったと感謝しています。
日記 11月26日 戦記
NPの戦記関係全部修正終わりました。文字を大きくし、行間を広くしました。誤字、脱字もだいぶ訂正しましたが、まだ誤りがあると思います。気づいた方があれば教えて下さい。
日記 11月24日年末クラス会参加者名簿
年末クラス会まであと10日、そろそろ当日配布の資料作成にかかります。HPに掲載しましたので見てください。参加予定者は80名ちょうどです。
今月27日に関西なにわ会が開催され、12名集まるそうです。年末クラス会当日配布予定の「平成21年以降のなにわ会について」を参会者に配布がたお願いしました。
)日記 11月21日
中井夫人年末クラス会に参加するとの連絡あり、これで参加予定者80名になりました。
日記 11月20日
堀剣二郎君から宮島弥山にある{江田島の案内版」の写真を送ってもらいました。長男の方が写された写真です。
懐かしかったので「宮島弥山」で検索してみました。沢山の写真と記事がありました。生徒の時の競技では20数分で登っていたと思いますが、ネットの体験談では1時間半から2時間かかっているようです。堀君有り難うございました。
なにわ会HPのうち、戦没者の遺墨関係と復員後物故者関連記事の修正が終わりました。(文字を大きくし、行間を広くして読み易くしました。)
次は逐次戦記を修正します。
日記 11月19日
若松禄郎君から年末クラス会参加の連絡がありました。これで出席予定79名です。
上野三郎君から新春湘南クラス会の案内がきました。概要次のとおりです。
1 日時 平成21年1月4日1200から
2 場所 鎌倉市小町2−7−2 二楽荘
3 会費 7000円(同伴者5000円)
4 幹事 上野三郎 市瀬文人
5 その他 奥様同伴歓迎
)日記 11月18日 メールアドレス
山田良彦君からHPからブログがリンクされていないといわれ、調べたらリンクを貼っていませんでした。すぐ、リンクを貼りました。直メールで会員のメールドレス一覧を送付しました。
日記 11月17日
今年6月に行われた連合クラス会第8回全国大会時作成された「記念誌(62頁)」の72期割当分が50部ありました。12月4日最後の年末クラス会時、参加者に配布が計画されています。年末クラス会に参加されない方で配布ご希望ならば、私が取りまとめ発送致しますのでご連絡下さい。代金は不要です。
日記 11月16日
東條重道君から100号記念誌に相応しい記事をメール添付で送って貰いました。手書きに比べものすごく助かります。
)湘南歩こう会
11月の歩こう会が高田君指導で浜離宮界隈めぐりが11月14日小春日和に恵まれ実施された。
11:00ゆりかもめ入り口に集合、参加者9名。全く景観を一変した汐留ビルの谷間を抜けて、大手門橋を渡り「浜離宮恩賜公園」に到着。
「浜離宮恩賜公園」
園内に入り都心にこのような静寂なスポットがあるとは全くの驚きである。
@三百年の松
江戸時代、6代将軍徳川家宣が改修時に植えたと伝えられている、都内最大の黒松
A潮入れの池とバックの近代ビル
海水を引きいれ、潮の干満による眺めが楽しめるようになっている。バックは近代ビル対象的だ
B集合写真(高田君撮影)
左より幸田、浦本、深尾、深尾夫人、品川夫人、小松崎夫人、伊藤夫人、上野
C中島にある休憩室(お茶屋)
お伝い橋を渡ると御茶屋がある、中では抹茶が振舞われた(有料)
外人(ポーランド人と言っていたが)が正座、日本人はあぐら、此れは何を物語るか?
(浜離宮恩賜公園の歴史)
@江戸幕府が開かれて暫くは将軍家の鷹狩りの場であった
A1654年甲府藩主松平綱重が此の地を拝領、埋め立て別邸を建てる
B6代将軍家宣が将軍家の別邸として大幅な改修を行う
C幕末外国人接待所として石造洋館である延遼館(幕府海軍伝習屯所)が建設され明治維新後も迎賓館として使用された。明治維新後宮内省の管轄となり名前も浜離宮と改められた
D1945にGHQ の要求で東京都に下賜された
海軍発祥の地ー旗山
幕府の軍艦操練所のあったとろが維新後海軍省の管轄になり、海軍省や海軍操練所(海軍兵学校の前身)が設置され、其処の築山の上に 「海軍部旗」が掲揚された、この旗をみて人々は旗山と呼んだ。現在も海軍発祥の地として「旗山」と刻まれた碑が水神社前に建つている
海軍経理学校の碑
海軍経理学校のあった一角、隅田川の勝どき橋のたもとに大きな碑が建っている
此の地に立って兵学校のあった江田島とを比べると、経理学校出身者の融通性のある性格も立地条件の差が大いに影響していると感じる
築地で昼食
14:00予定の散策を終わり、座敷に座って軽く喉をうるおし、食事を食べながら懇談、14:40解散
今日の歩行は12,000歩、海軍ゆかりの土地の散策を兼ねての想い出深い歩こう会となった。これを企画指導してくれた高田君に感謝。
以上 記事は上野三郎君作成、写真は高田俊彦君撮影です。
ご両人 有り難うございました。
日記 11月15日 三好君から記事入手
先に亡くなった平田隆一君の追悼記事を頂きました。
日記 11月14日 100号記念誌の投稿
今日は湘南歩こう会があり次の9名の方が参加され浜離宮にいきました。細部は上野君の写真入り報告に期待します。
参加者
男性 上野三郎、幸田正仁、浦本 生、高田俊彦、深尾秀文
女性 伊藤夫人、小松崎夫人、深尾夫人、品川夫人、
年末クラス会の出席予定者、前に連絡頂いていた(主)安藤夫人を落としていました。(出席予定だった横田敏之君が都合悪く欠席に変更になりました。)
総計78名です。最新参加予定者名簿をHPに掲載しました。
先日頂いた100号記念誌への投稿記事の校正が岩切夫人、樋口直君、來島照彦君、百瀬 茂君から帰ってきました。今日は杉田繁春君の戦没者慰霊の記事と林君の雷電についての投稿を頂きました。このところ沢山の投稿を頂き、整理に嬉しい悲鳴を挙げています。
そこでお願いですが、出来るだけパソコンのメール添付で送ってください。また、パソコンされない方は、お子様やお孫さんに打ってもらってメールで送って頂くと嬉しいですが。また、パソコンで打ち込みは出来るけれでも、メールで送れない方は、CDかフロッピーに保存して送ってください。ご協力をお願いします。
)日記 11月13日 HP復旧
HPやっと修復おわりました。ついでに古い記事を整理いたしました。
今日関西の石井君から年末クラス会出席の返事がきました。
これで出席77名になりました。
日記 11月12日
なにわ会HPのTOP頁ですが、今鋭意再作成中です。ブログを見られた加藤康人様(河合不死男の遺族)が消えた前のHPを見つけてくれて添付して送ってくれました。大助かりでした。沢山のリンクが貼ってありますので、完成までにはまだ相当日数がかかりそうです。
桂利平君から近況、中山皎君から総員集合の記事をもらいました。
日記 11月11日
年末クラス会出席追加
(主遺族) 安藤和子(寿郎の妻)累計77名
78期会神奈川支部(さがみ会)から会報27号を頂きました。
樋口直君から100号の冒頭に入れる「なにわ会解散の辞』をいただきました。メールで頂いたので大助かりです。
お断り HP
なにわ会のHPのTOP頁を誤って消してしまいました。TOP頁にリンクしている頁は大丈夫ですが、TOP頁が出ません。今作り直していますがしばらく暫くお待ちください。バックアップをとってなかったので大変です。
コメント by あらい at 2008-11-12 23:02 x
TOP頁消失の記事を読んだ時は自分の身に降りかかってきたことのようにショックを受けてしまいましたが、送ってくだった方がおられたとか、よかったですね(わたしも勉強のために加藤様のサイトはときどき覗かせていただいています)。
あまり無理をせずに、ボチボチ作業なされてください。
11月10日 五省
年末クラス会の出欠
出席 (主)冨田岩芳 累計76名
旭 輝雄君から『私の歩んだ人生では、矢張り「五省」を残したいと思います」とメールを頂いた。 パソコンで検索したらフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の次の説明が出てきた。
五省(ごせい)とは、旧大日本帝国海軍の士官養成機関であった広島県江田島の海軍兵学校において、生徒がその日の行いを反省するために自ら発していた5つの問い掛けのこと。考案者は当時兵学校校長であった松下元(まつした・はじめ)少将。
今日では大日本帝国海軍の精神を象徴する標語であるかのように語られることがあるが、五省が兵学校校舎に掲げられるようになったのは国内の軍国主義的色合いが濃くなり始めた1932年(昭和7年)からであり、その採用期間は七十余年に及ぶ帝国海軍の歴史の中において、末期の十数年間にすぎない。古参の海軍軍人の中には、文語調箇条書きの五省を生徒に唱和させることについて、「(リベラリズムと柔軟性を重んじた)帝国海軍の伝統になじまない」として不快とする者も少なからず存在した。
しかし一方で、太平洋戦争の敵国であったアメリカ海軍では高く評価されている。1970年ごろ、米第7艦隊司令官だったウィリアム・T・マック中将(後のアナポリス海軍兵学校の校長)が江田島を見学し、海上自衛隊第1術科学校及び海上自衛隊幹部候補生学校で受け継がれていた海軍兵学校の五省に感銘を受け、英訳を募集。何人か応募した中で、古語を使った松井康矩氏(海兵第76期、フルブライト留学第1期生)の英訳が採用され、松井氏は賞金1,000ドルを獲得した。その後、アナポリス海軍兵学校の教材として使用することになり、英訳の版権はアメリカ海軍が保有。現在でも同校の史料館や講堂、学生集会所にこの英訳が掲げられている。以下、五省と英訳(左側が松井訳)を紹介する。
五省(The Five Reflections)
一、至誠に悖る勿かりしか
(ひとつ、しせいにもとる、なかりしか⇒真心に反する点はなかったか)
(Hast thou not gone against sincerity?⇒Have you compromised your sincerity?)
一、言行に恥づる勿かりしか
(ひとつ、げんこうにはづる、なかりしか⇒発言や行いに恥ずべき点はなかったか)
(Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds?⇒Have you spoken or acted shamefully?)
一、気力に缺くる勿かりしか
(ひとつ、きりょくにかくる、なかりしか⇒精神力は十分であったか)
(Hast thou not lacked vigour?⇒Have you been lacking in spiritual vigor?)
一、努力に憾み勿かりしか
(ひとつ、どりょくにうらみ、なかりしか⇒十分に努力したか)
(Hast thou exerted all possible efforts?⇒Have you regret the level of your effort?)
一、不精に亘る勿かりしか
(ひとつ、ぶしょうにわたる、なかりしか⇒最後まで十分に取り組んだか)
(Hast thou not become slothful?⇒Have you lapsed into laziness?)
日本の海軍兵学校では、夜間「自習止め5分前」のラッパが鳴り響くと、生徒は素早く書物を机の中に収めて、粛然と姿勢を正し、その日の当番生徒が、五省の各項目に問い掛け、その他の生徒は瞑目し、心の中でその問いに答えながらその日一日の自分の行動について自省自戒していたといわれる。現在でも、海上自衛隊第1術科学校及び海上自衛隊幹部候補生学校の学生たちが、旧海軍時代の伝統を受け継ぎ、兵学校時代と変わらぬスタイルで、毎晩自習終了時刻の5分前になると、五省の唱和により自分を顧みて、日々の修養に励んでいるといわれている。
日記 11月9日遺墨集
HPの遺墨すべて修正終わりました。
左近允尚敏君から新しいメールアドレスいただきました。
昨日頂いた來島照彦君の記事、その前の百瀬 茂君の記事取り込み終わりました。
日記 11月8日
來島照彦君から100号記念誌の原稿を頂きました。
日記 11月7日 熱海さんを偲ぶ会 年末クラス会の返事
出席追加 後藤脩 累計75名
昨6日行われた67期の熱海さんを偲ぶ会に参加された左近允尚敏君から次のメールを頂きました。
参加者 67期市来さん、68期茂木さん、小柳さん、69期平野さん、70期小平、高井、田辺、三浦、宮崎、宮沢さん、71期三上さん、72期樋口、都竹、上野、泉、若松、左近允の6名 73期ー6名、74期ー6名、75期ー30名、76期ー13名、77期ー17名、78期ー13名、(これは名簿から)。計105名、プラス遺族数名参加。
日記 11月6日
年末クラス会の返事
出席(兵)定塚 累計74名
欠席(兵)竹森 累計88名
日記 11月5日
5日の年末クラス会の返事
出席 (兵)宝納徳一 (兵遺族)小灘郁子 小灘 裕子 累計73名
欠席 (主)足立暢也 (兵遺族)伊佐信子 累計87名
100号記念誌の投稿として、泉五郎君からメールで、百瀬茂君から手書きで原稿を頂きました。締切間際になって一辺に頂くと困りますので、出来れば早めにお願いします。
先日メールで近況を送りましたが、大谷君が見て校正をしてくれました。原稿では数字は全部縦書きに直してあったのですが、なぜか横書きの儘でした。原因はわかりません。
日記 11月4日
年末クラス会の出席追加
(兵)横田敏之、 (兵遺族)若本千秋(太田威夫の長女) 小灘郁子 裕子(小灘利春の妻・長女) 累計72名
水交11,12月号を入手しました。その中になにわ会会員の講演の記事がありましたので紹介します。
第6回市来会 11月14日(金)1330〜1530 場所 水交会
「アメリカから見た真珠湾奇襲」
講師 兵72期 左近允尚敏氏 会費1000円
402回定期講演会 11月27日(木)1400〜1600 場所 水交会
「マリアナ レイテ 沖縄の3つの海戦に出撃して」
講師 兵72期(元矢矧乗組み) 池田武邦氏 会費 500円
参加申込みは水交会事務局へ。
岩切和香子様(会友 故岩切勝の妻)から100号記念誌の原稿を頂きました。
岩切君の生徒時代の資料です。
日記 11月3日
67年前の今日、{カイヘイ(カイキ)(カイケイ)ゴウカクイインチョウ}の電報を頂いて大喜びした日である。HPの復員後亡くなった方の記事を整理していてよく出てきた日にちは、15年11月3日、15年12月1日、16年12月8日、18年9月15日、そして20年8月15日である。
今日は近くのお寺で火わたりの行があって行ってきました。気分転換の意味で写真を入れてみます。
日記11月2日
昨11月1日行われた中田喜直と小灘利春を偲んだコンサート(ニュース99号76頁で紹介したもの)に参加した左近允尚敏君から次のメールを頂きました。
「定員250人の席が満杯の盛況でした。(1400−1630)
途中で池田君、故中田君の妹さんの「お話」がありました。
クラスはばらばらでしたが、気づいた限りでは次のとおり(順不同)。
旭、松下、相澤、若松、池田夫妻、窪添、岩松、新庄、小林(勝)、原田夫妻、都竹、樋口、上野、豊広、横田夫妻、山田(穣)夫人、左近允
コンサート後、場所を変えて懇親会(60名くらい)が1700から2050まで。
気づいた限りでは下線を引いた者が参加。
横田君はひさしぶり、「君、だれだっけ」と言われてしまいました」
小灘夫人に聞いたところ、上記のほか、小松崎夫人、品川夫人、藤井夫人も来ていただいたと言っておられました。また、鈴木脩夫人も参加られたと泉くんから電話を頂きました。
若本千秋様(故太田威夫君の長女)から要旨次のメールをいただきました。
「一度皆様にお会いしてお話を聞きたくメ−ルを送りました。父のクラス会ですが、お話が聞けるといいかなと思いますが参加できますでしょうか?」
これに対し「大歓迎です。ぜひご参加ください」と返事をだしました。
日記 11月1日 なにわ会の由来 復員後物故者記録
HP閲覧数10万件突破しました。2004年12月からですから、3年10月で1日平均約70件見ていただいていることになります。これからも頑張ります。
年末クラス会の返事を整理し、出席予定者名簿をHPに掲載しました。
返信に書かれた近況をメールアドレスのわかっている方に直メールで送りました。
昨日堀君から次のメールを貰いました。
「なにわ会の名称ができた頃の記憶
昭和20年の9月20日前後 呉軍港で在泊総艦船宛に信号が届いた。 72期がクラス会を行ううので1900(記憶がはつきりしない)頃潜水艦基地隊に集まれという趣旨であつた。私は艦の内火艇で基地隊の桟橋に行き上陸し参加した。部屋は長机、長椅子の食堂のようなところで、照明は当時の一般家庭と同様の裸電球に傘型シェードのあるもので薄暗い感じ、集合人数は20名位であつた。そのうち記憶にあるのは兵科の太刀川君と主計科の高杉君だけである。議題はクラス会を続ける事とその名称であつた。当時の連合軍の占領下で軍人にたいする処遇も明らかでない時勢では少しカモフラージしたものがよいのでは、ということで なにわ会ということになった。この名称を見て感ずることは各人各様であろうが、私は、クラスの主任指導官であった原田中佐(当時)が訓示された「君たちは72期であるから少々辛いことがあっても「何くそ」で頑張れ」に由来の「なに」が幹で「なに」を含んだ耳慣れしたことばに「なにわ」があるので、こうなっていると感じている。じ後60数年間クラス会の名称となりクラスの融和の根幹となった「なにわ会」に「御苦労様」とあいさつしたい。」
なにわ会の名づけの由来についてはニュース18号7頁と19号17頁に掲載されており、HPにも取り込んである。(HPのTOP頁のなにわ会ニュース→ 記事目次→ 目次→『なにわ会の由来(押本)と(澤本) をクリックすると出てくるので参考にしてください。
先に書き込んだようにHPの戦記ものを逐次読み易いように字を大きくし、誤字を訂正していますが、並行して「復員後物故者の記事』を修正していました。約1月かかってやっと全部の修正が終わりました。復員後の物故者188名+教官9名計197名のうち164名(83%)の者の記事です。件数にして346件もあります。自分の投稿記事を見て誤りがあればご連絡ください。
戦記の方も間もなく完了します。次は戦没者の記事にとりかかります。