なにわ会のブログ 20年6月分
日記6月28日73期会報,74期会報受領
海兵73期会報88号をいただきました。
20年4月30日現在,現存者306名,戦没者282名,物故者314名となっています。19年8月以降次の11名が逝去されています。
後藤顕郎,吉田常敏,有村政男,篠原真人,土方希男,堀 実,徳富敬太郎,北公人,岩田友男,島元廣海,小川三郎の諸君
会友の後藤 寛君の「創業期の海軍と鎌倉ー3」が掲載されている。
74期会報347号(7月号)をいただきました。
第36回19分隊会が4月16,17日戦死した72期片山市吾さんの出身地である常滑市で行なわれ。72期からは大槻敏直君,奥平夫人,高橋夫人,花田夫人,片山君の妹次女と4女とそれぞれの長女,さらにゲストとして三好文彦君と杉田政一君の長女が参加して,片山市吾君の冥福を祈った。
日記6月27日
笹幸恵さんから先日の慰霊祭参加の感想を頂き,記事に取り込みました。
岡野武弘さん(故井尻文彦君の弟)から慰霊祭についての感謝の文を頂き,記事に取り込みました。
星野道子さん(故猪口智君の妹)から叔父猪口力平氏の「特攻隊の誕生について」を欲しいとメールを頂き,連合クラス会第8回大会の記念誌を都竹卓郎君から送るように手配しました。
ブログが役立って嬉しいです。
日記6月27日第1回校正発送
なにわ会ニュース99号第1回の校正を発送しました。
椎野廣君から先日送った校正戻ってきました。
日記6月25日
田島明朗氏から加藤種男君の源田司令の菩提寺訪問記事の写真3枚と江田島の赤レンガ生徒館と教育参考館の改装後の写真をいただきました。
なにわ会ニュース99号もおおむね110頁程度になりそうです。明日第1回目の校正約60頁を校正担当の方に発送いたします。
日記6月25日
田島明朗氏から加藤種男君の源田司令の菩提寺訪問記事の写真3枚と江田島の赤レンガ生徒館と教育参考館の改装後の写真をいただきました。
なにわ会ニュース99号もおおむね110頁程度になりそうです。明日第1回目の校正約60頁を校正担当の方に発送いたします。
日記6月24日
なにわ会HPのチェック終わりました。まだ打ち込みミスはあると思いますがリンクは全部確かめました。名簿はすべてチェックして現在の名簿に訂正しました。
椎野廣君の投稿記事,村山隆君から校正が帰ってきました。「蟋蟀」こんな字今の若者読めませんね。会報には常用漢字を主体にしてもらうと助かるのですが。
福嶋俊一君
福嶋敏也様から要旨次のメールをいただきました。
「私は、兵学校72期、福嶋俊一の甥の福嶋敏也と申します。私には、2人の男の子がいます。私自身も今や47歳となり、我が息子に私の叔父である俊一の生き様を伝えて行きたいと考え始めました。もし、叔父俊一のこと少しでも知ることができれば、幸いです。」
福嶋俊一君は戦闘機で20年2月16日筑波空で迎撃戦死しています。彼のことご存知の方,ご連絡お願いします。。
日記6月23日
田島明朗特4号生徒から加藤種男君の源田家訪問の記事を携帯電話のメールで頂きました。簡単にパソコンに取り込めて助かりました。
HP逐次チェックしています。随分ミスを見つけ訂正しています。あと3日はかかるでしょう。
小西愛明君に送った投稿の校正の返事をいただきました。
日記6月22日
久しぶりでHPをチェックしました。随分リンクきれの頁がありましたので訂正しました。
岡本俊章君の352空奮戦記に写真3枚HPに入れました。
# by naniwa-navy | 2008-06-22 20:41 | 日記 | Comments(0)なにわ会HP 9万件ヒット
なにわ会HPが開設以来3年と6ヶ月(1275日)でHIT数9万件を突破しました。 1日平均70件です。他のクラスでHIT数が分かるのは
71期 21105回(545日 1日平均 38件)
73期 28509回(1640日 1日平均 17件)
74期 2004回(180日 1日平均 11件)
76期 10272回 (720日 1日平均 14件)
なにわ会のHPは随分多くの人が見て頂いているようです。
戦争を知らない一般の人,なにわ会で戦死した会員の甥,姪,さらにその子供達がみてくれているようです。
日記6月21日 77期会報
77期会報87号を頂いた。冒頭に「77期会の針路」と題して代表理事の青木一郎君が次のように書いている。
「1 77期会の組織的活動は85歳,平成25年まで,を目標に続ける。
2 21年,23年に改めてこれを見直す。
3 残存資金は期友の協力と理事諸兄の節約努力で,24年までは保つ。
県期会,地区分隊会,趣味,スポーツ等の同好会は,それこそ最後の2人になるまで続けて欲しい。」
会報の記事は地区期会便りが多い。
編集後記に次の記載があった。
会報「江田島」は会員の情報誌として役割を果たしていきたいが,クラス会存続のための経費節減がはかられているので,現在の48頁から,来年以降32頁まで徐々に減頁していくことを検討されている。
海軍の3つのゴルフ優勝杯について1頁にわたって書かれている。
久邇宮杯 :相模水交会で活躍:現在水交会に寄贈 保存
長老杯 :アドミラル会で活躍:現在も年3回実施されている。
海軍大臣杯 :オール・ネービーゴルフ大会で活躍:現在は73期深田秀明さんの事務所に静かに眠っている。
日記6月20日 椎野廣君の記事 武蔵の写真
椎野廣君の投稿記事(村山君パソコンで打ち込み)を村山君から送ってもらい,パソコンにとりこみました。
昨日書いた武蔵の写真ですが,宮田實君が白石先輩の了解を取ってくれました。掲載して問題ありません。
日記6月19日
村山隆君から武蔵の記事の校正について電話をいただきました。同時に掲載予定の写真については宮田君に再度確かめます。
小西愛明君の「診療科が一つ増えた」の投稿,打ち込み終わり,小西愛明君に送って校正してもらいます。
# by naniwa-navy | 2008-06-19 21:40 | 日記 | Comments(0)日記6月18日
林藤太君から戦闘機会の報告の校正が帰ってきました。同時に岩佐中佐に関する記事と写真をもらいました。(これは100号掲載予定です。)
その中に昭和17年8月8日の2学年の夏休みに6名の級友が岩佐中佐の生家を訪問した写真があります。そのうち一番左が誰か分かりません。お分かりの方,教えてください。↓の写真です。
写真左から?(氏名分からず),故登丸肇、清水 尚、故品川 弘、林 藤太、故戸塚 弘
田島明朗特4号生徒から機・加藤種男氏の源田司令の出身地、広島県加計町訪問記事を投稿したいと問い合わせがあり,よろしくと返事しました。
機・椎野廣君の論文をHPに掲載したらどうかと泉五郎君から電話があり,村山隆君から送ってくるそうです。村山君からはニュースにも掲載してはと言ってきました。
日記6月17日レイテ作戦写真
宮田實君からレイテ作戦に出撃する写真をおくってもらいました。古い写真ですが,うまくとりこめたら99号に掲載します。
左近允尚敏君から校正2通かえってきました。
岡本俊章君の空戦記
表記に先日頂いた写真を取り込みました。↓
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-okamoto-352kuu1.html
)日記6月16日
新庄 浩君から慰霊祭の写真を送って貰いました。
日記6月15日
連合クラス会の記念誌にあった駆逐艦雷のことが,イギリスの日本人向けのコミュニテイ新聞「週刊ジャーニー」に次のように掲載されていたとしりました。(この新聞はロンドンの日本食材店等で無料配布されるものですので何処からかの転載と思いますとのこと。)
表題「漂流、駆逐艦・雷が救助 英元士官が感謝の来日 来月感謝の来日・艦長の墓参り」
英海軍中尉のサムエル・フォール卿(89歳)が、昭和17年3月オランダ領インドネシア付近のスラバヤ沖海戦で、乗り込んでいた軍艦が撃沈され約450人の乗員が海上で漂流した。参戦した雷の艦長・工藤俊作中佐の号令で、全乗員が救助にあたり重油まみれの将兵らを艦上に引き上げ、体を洗い流して衣服や食料を提供した。
感謝したフォール卿は、艦長の消息を探すため来日した際元自衛官で作家の恵隆之介さん(54歳)に出会い、調査を依頼。工藤艦長は、妻、かよさんと2人暮らしで、昭和54年77歳で他界、2人の墓が埼玉県川口市内にあることが判明。乗組員の中で戦後も工藤艦長と親交を続けていた元航海長の谷川清澄さん(92歳)が存命している事が分かった。
89歳のサムエル・フォール卿は、戦後、英外務省に勤務し駐スエーデン大使などを歴任したが、「元気なうちに艦長の墓参りをし、関係者に礼を言いたい」。谷川さんとの7月の対面も楽しみにしている。
この関連記事が産経新聞に掲載されていた。(6月8日8時0分配信 )
漂流…駆逐艦「雷」が救助 英元士官が感謝の来日 来月、艦長の墓参り
太平洋戦争はじめ、インドネシア沖で漂流中、旧日本海軍の駆逐艦「雷(いかずち)」に救助された元英海軍士官が、当時の艦長の行動に感謝し、墓参のため7月にも来日する。
来日するのは元英海軍中尉、サムエル・フォール卿(89)。戦後、英外務省に勤務し、駐スウェーデン大使などを歴任した。 フォール卿は、昭和17年3月、スラバヤ沖海戦で、乗り込んでいた軍艦が日本海軍に撃沈され、約450人の乗員とともに24時間近く海上で漂流した。参戦した雷は艦長の工藤俊作中佐の号令で、全乗員が救助にあたった。感謝したフォール卿は、工藤艦長をたたえる講演を続けながら、消息を探してきた。
来日したフォール卿と知り合った元自衛官で作家の恵隆之介さん(54)が調査。工藤艦長は妻、かよさんと2人暮らしで昭和54年に77歳で他界、2人の墓が埼玉県川口市内にあることが判明した。存命する雷の士官では、ただ1人確認できた元航海長の谷川清澄さん(92)=静岡県在住=が戦後も工藤艦長と親交を続けていたことが分かった。
フォール卿は「元気なうちに艦長の墓参りをし、関係者に礼を言いたい」と再来日を決意。谷川さんとの対面も楽しみにしているという。
恵さんは「フォール卿が話さなければ、雷の英雄的な行動は歴史の闇に消えていた。艦長や乗員の行動は日英間の新たな友情のきずなとなるはず」と指摘。乗員の慰霊・顕彰碑建立のための事務局「故海軍中佐工藤俊作顕彰会」を立ち上げ、フォール卿の来日と墓前祭の実現を呼びかけている。問い合わせは(電)090・8839・3783
先日の慰霊祭反省幹事会が横浜で行われ,左近允尚敏君、上野三郎君、中井末一君、野崎貞雄君,高杉敏夫君と私が参加しました。その席で,機関科の幹事野崎貞雄君から先に見送ることになった記念誌について是非刊行して欲しいとの強い意見が出ました。いろいろな意見が出ることは当然なことです。希望者を調べてある数纏れば刊行することを検討してみたいと思います。
20年5月のブログをHPに取り込みました。
日記6月14日
先日の海軍兵学校連合クラス会の三浦先輩の祭文,誤打ち込みがありましたので訂正しました。
日記6月13日
6月9日に行われた海軍兵学校連合クラス会について新聞に次のとおり掲載された。
【集う】最後の海軍兵学校連合クラス会全国大会
(9日、東京都新宿区のグランドヒル市ケ谷)
2008.6.12 18:05
最後の「軍歌演習」する海軍兵学校の卒業生たち
旧海軍のエリートで海のジェントルマンを育てた海軍兵学校の卒業生が4年に1度集まる「海軍兵学校連合クラス会全国大会」が今回開いた第8回で、卒業生の高齢化のためその幕を閉じることとなった。
クラス会は実行委員長の菱川信太郎氏(海兵75期)が「戦陣に散華した人たちが望んだのは美しい国土と日本人の心であり、これを次代の人が受け継いでくれることを祈り、(連合クラス会を)解散したい」と開会の辞を述べ、海自横須賀音楽隊が伴奏する国歌斉唱に続き軍艦旗掲揚、「国の鎮め」吹奏に合わせた黙祷(もくとう)で厳かに始まった。
大会会長の本村哲郎氏(65期)は「先の大戦で痛恨の敗戦を喫したが、海軍最後の日に海軍大臣米内光政大将は主要幹部に海軍の再建、海軍技術の活用、美風を後世にと希望した。この大臣の希望に沿った努力が今日の繁栄に通じた」と戦後の復興に果たした海兵出身者の労をねぎらった。
来賓として純白の夏制服に4つ星の肩章をつけて出席した海上自衛隊の赤星慶治海幕長は「海自では長老だが、ここでは若いのでうれしい。みなさんの日本へのご貢献、ご奉仕に心から敬意を表す。最近事件や不祥事が多い海自だが、海軍のよき伝統を受け継いで国民の負託や信頼に応えられるよう努力したい」と挨拶した。
この日は62期から最後の78期までの430人が全国から集まり、期ごとにテーブルを囲み、思い出話や記念撮影に時を忘れた。海兵の昭和に入ってから昭和19年までの卒業生約5000人のうち、約2500人が戦死しているだけに各期の結束は強く、昭和48年から始まった同窓会にあたる連合クラス会は解散するが、同期会にあたる各期の会合は今後も続けられる。
最後の「軍歌演習」では「艦船勤務」「江田島健児の歌」「軍艦」を歩調を取りながら背筋を伸ばして一同が唱和、熱気が会場を包んだ。(大塚智彦)(以上産経新聞)
旧海軍兵学校、高齢化で最後のクラス会…430人、感無量
2008年6月9日(月)21:10
戦前、広島県にあった海軍兵学校出身者の4年に1度の同窓会である連合クラス会が9日、東京・新宿で開かれた。
高齢化を理由に今回が最後となるクラス会には、前回を上回る約430人が出席して旧交を温め合った。
来賓として出席した赤星慶治・海上幕僚長は、昨今の不祥事を念頭に置いてか、「海軍のよき伝統を引き継ぎ、一歩一歩、国民の期待に沿える任務にまい進したい」と、あいさつもやや緊張気味。
「軍艦行進曲」を全員が手を振りながら歌い上げ、クラス会は終了。同会代表幹事の菱川信太郎さん(81)は「同期の桜のつながりは終わることはない」と感無量の様子だった。(以上読売新聞)
最後の海軍兵学校連合クラス会全国大会(9日、東京都新宿区のグランドヒル市ケ谷)
旧海軍のエリートで海のジェントルマンを育てた海軍兵学校の卒業生が4年に1度集まる「海軍兵学校連合クラス会全国大会」が今回開いた第8回で、卒業生の高齢化のためその幕を閉じることとなった。
クラス会は実行委員長の菱川信太郎氏(海兵75期)が「戦陣に散華した人たちが望んだのは美しい国土と日本人の心であり、これを次代の人が受け継いでくれることを祈り、(連合クラス会を)解散したい」と開会の辞を述べ、海自横須賀音楽隊が伴奏する国歌斉唱に続き軍艦旗掲揚、「国の鎮め」吹奏に合わせた黙祷(もくとう)で厳かに始まった。
大会会長の本村哲郎氏(65期)は「先の大戦で痛恨の敗戦を喫したが、海軍最後の日に海軍大臣米内光政大将は主要幹部に海軍の再建、海軍技術の活用、美風を後世にと希望した。この大臣の希望に沿った努力が今日の繁栄に通じた」と戦後の復興に果たした海兵出身者の労をねぎらった。来賓として純白の夏制服に4つ星の肩章をつけて出席した海上自衛隊の赤星慶治海幕長は「海自では長老だが、ここでは若いのでうれしい。みなさんの日本へのご貢献、ご奉仕に心から敬意を表す。最近事件や不祥事が多い海自だが、海軍のよき伝統を受け継いで国民の負託や信頼に応えられるよう努力したい」とあいさつした。
動画(海軍兵学校連合クラス会)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~imada/20-6class/class.htm
↑のを貼り付けてください。74期の談話室にあった9日の海軍兵学校連合クラス会の写真を動画にしたのが見られます。
日記海軍兵学校連合クラス会慰霊祭
6月9日の海軍兵学校連合クラス会慰霊祭のおいて70期の三浦先輩が祭文を奏上されたが,そのコピーを三浦先輩から頂いたので,先輩のご了解をえて次に掲載します。
祭文
本日ここに全国の海軍兵学校連合クラス会会員が集まりまして、長い帝国海軍の歴史を顕彰し、國神社に鎮まります兵学校の英霊に参拝する事になりました。謹んで申し上げます。
明治二年第一期生が誕生して以来昭和二十年帝国海軍が解散するまでの兵学校の卒業生、在校生の総数は約二四、六〇〇名であります。
日清、日露両戦役に於ける戦死者は約200柱、大東亜戦争に於ける戦死者は約3000柱でありました。
帝国海軍は固い家族的な同期の結びつきを伝統としましたが、・戦後縦の同窓会が生まれまして連合クラス会と名付けられて活溌(かつはつ)に活動して参りましたが、アンカークラスも八十歳になりましたので、本大会を以てこの連合グラス会の幕を閉じる事になりました。海軍の伝統は防衛省に引き継がれましたが、明治から百四十年を経て兵学枚の同窓会が姿を消す事になり、寂莫(せきばく)の情深いものがあります。英霊諸兄のご了承を賜りたいと存じます。
兄等は日清戦争黄海海戦、日露戦争日本海海戦の輝く勝利により極東の小国であった我が国を欧米列強に並ぶ一流国に昇格させました。兄等の功績は永く後世に語り継がるべき「坂の上の雲」であります。
昭和六年満州事変から昭和十二年に始まる大東亜戦争を総括して十五年戦争と呼ぶ歴史家がいます。この長い戦いは正しく自存自衛の戦いでありましたが、止んぬる哉、遂に全国を焦土と化し、三一〇万人の死者を数え、剰(あまつさえ)え人類史上初めて原子爆弾を広島と長崎のド真ん中に投下されて筆舌に尽くし難い惨禍を蒙りました。
敗戦は天皇のご聖断によってようやく終戦を迎えましたが、日本民族はこの惨たる悲劇から反省と教訓をしかと後世に伝えなければなりません。この十五年戦争の英霊は胸中ふつふつと燃える「明日への遺言」をあたためておられると思います。我々その憂国の遺言を会得しなければなりません。
史家は歴史の訓(おし)えの一端をあげています。曰く、
一つ 固内政冶の統合をはかる為には陸海軍の最高指揮官は総理大臣でなければならなかった。「天皇は陸海軍を統帥す」とある明治憲法の条項は大正時代に改められるべきであっ。
二つ 国際的に孤立するが如きは絶対に避けるべきであった。国際連盟から追放された傷は大きかった。
三つ 情報合戦に於いて我が国は他国に著しく劣っていた
等々であります。
繰り返しになりますが.この十五年にわたる戦争の歴史をしっかりと見直して.真剣に歴史に学んで、反省を子孫に伝えなければ英霊に安らぎは見られないでありましょう。
翻(ひるがえ)って昭和十六年太平洋戦争の劈頭(へきとう)、南方攻略作戦に於いてハワィからマレー半島にかけて陣を進めて欧米の勢力を東アジアから一掃しました。日露戦争日本海海戦の勝利ともども、見てとった結果、東アジア諸国は物心共に変わったと言われています。
今日東アジア諸国の経済カは目を見張るものがあります。経済学者はアメリカが風邪をひいても、最早、東アジアはくしゃみをしなくなったと申しています。帝国海軍の勢いと威力が今日の東アジアの躍進に大きく力を貸したのであります。
さて、激流の二十世紀を経て近未来の我が国は.日米同盟に防衛のベースをおき乍ら、この躍進する東アジアに羽を拡げております。外交、防衛.経済.環境等多くの問題をかかえておりますにも拘らず、国内の政争.党争のために政治の多くの勢力を割かれている情況にあります。憂慮に堪えません。
海軍兵学校在天の英霊諸兄のお加護を賜ります様、その連合クラス会解散に臨んで衷心お願い申し上げる次第であります。
平成二十年六月五日
海軍兵学校連合クラス会第八回全国大会慰霊祭に於いて
第七十期 三浦 節
日記6月11日
第8回海軍兵学校連合クラス会記念誌31頁の卒業者数・戦死者数について
70期から74期までの戦死者数について各期のHP等の数との比較
クラス・記念誌の数・クラスの数(説明)
1 70期・287・282(70期名簿による)
2 71期・329・331(HPによる)
3 72期・337・335(HPによる・記念誌の337の中に短艇競技中に殉職した田村生徒と復員後戦病死が認められた八淵龍二(24.1.15死亡)が含まれているのか?
4 73期・282・284(HPによる・クラスの数字には21年・23年に逝去した戦病死2名が含まれている)
5 74期・ 20・20(74期名簿による)
このほか68期は記念誌191名だが名簿は193名(刑死2名を含む)となっている。
いずれにしても,分類の仕方によって数が変化する。
他のクラスのHPを見て気づいた事項の紹介
1 71期
a 慰霊祭(於靖国神社)
平成20年度戦没者慰霊祭 20・5・24 実施 来賓5人、ご遺族105名、会員47名(付き添え9名)計157名が参列、靖国会館で直会を開催、ご遺族55名、会員54名,計109名が参加した。この慰霊祭は来年度で終了する予定
b 平成20年度クラス懇談会予定 20年11月
c 最近の物故者
吉田弘俊氏 20・5・18 死去
前田孝正氏 20・5・23 死去
2 74期の談話室
9日の海軍兵学校連合クラス会の記事が写真入りで出ていました。慰霊祭に私が参加しなかったので関係分を転載します。
「慰霊祭(於靖国神社)
1000参集殿に集合、昇殿、祭文奏上(70期三浦 節氏)、礼拝等厳粛のうちに行われた。 参加者は、62期~78期、遺族・家族を含め約250名であった。」
日記6月10日
やっと慰霊祭の後始末終わりました。深井 良君の甥紳一君が新しくブログを開きました。
http://celicalb73.blog.ocn.ne.jp/blog/2008/06/post_99d8.html
↑のとおりです。覗いてください。
連合クラス会第8回全国大会記念誌
昨日頂いた記念誌について
今までの記念誌は100頁から130頁だったが,今回は61頁にまとめられた。
内容の主なものは次のとおり。
1 本村会長と菱川実行委員長の挨拶
2 熱海光雄氏(67期)の「連合クラス会始末記」
3 河野幹夫氏(73期)の「連合クラス会 考」
4 海軍および海軍兵学校のあゆみ
5 菱川信太郎氏(75期)の「南海の日章旗」
6 新聞記事「駆逐艦雷敵兵救助」
7 松永栄氏(73期)の「73期最後の戦い」
8 猪口力平氏(52期)の「特攻隊の誕生について」
9 赤井英之助氏(63期)の「青年将校の心得」
(8と9は戦時下における兵学校での訓話)
10 久保陽氏(74期)の「酒巻和夫氏(68期)の講和」
なお,第1回,第2回の全国大会実行委員長,第4回の大会会長を勤められた福地誠夫氏(53期)が昨19年7月103歳でなくなられた。ご冥福を祈ると書かれていた。
また,7の「73期の最後の戦い」の中に次の記述があった。
「20年8月13日K3(攻撃第3飛行隊)1500全機出撃命令 山田大尉(これは前後の文章から判断すると山田良彦君である。)機出撃直後に出撃命令中止」と記載されている。
# by naniwa-navy | 2008-06-10 06:11 | 日記 | Comments(0)日記6月9日海軍兵学校連合クラス会
今日6月9日最後の海軍兵学校連合クラスが行はれました。慰霊祭には参加しませんでしたが広報映画から懇親会まで参加しました。今回が全国大会第8回になります。懇親会の参加者数は名簿によれば62期1名、64期4名、65期1名、66期1名、67期3名、68期2名、69期9名、70期33名、71期12名、72期5名、73期25名、74期37名,75期74名、76期44名,77期57名、78期71名、合計385名でした。
慰霊祭の後,グランドヒル市ヶ谷で12時から海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏、13時から海上自衛隊の広報映画の上映と音楽会が平行して行われ,暫く休憩して14時30分から懇親会となりました。懇親会は大会実行委員長の菱川信太郎氏(75期)の開会の辞で始まりました。
まず音楽隊の演奏のもと,国歌を斉唱,さらに軍艦旗を掲揚,そして戦没者と物故者に黙祷ささげました。ここまで協力してくれた海上自衛隊音楽隊を参加者一同の感謝拍手で見送りました。
軍艦旗掲揚
黙祷
今回大会会長を勤められたのは本村哲郎氏(65期)で,92歳を超えた高齢ながらお元気で会長として連合クラス会を顧みて挨拶されました。
次いで,多忙な公務のなか,ご参加頂いた海上幕僚長赤星慶治海将からお祝辞をいただきました。
次いで,水交会会長の林崎千秋氏(防衛大学4期,幹部候補生学校11期)の祝辞がありました。
その後,69期までの長老の紹介があり,出席の最長老の有馬敬一氏(64期)の音頭で乾杯懇談に入りました。
本日参加した72期は写真の5名です。
都竹卓郎・松下太郎・若松祿郎・平川 進・伊藤正敬
今回は豊富なおいしい料理でたらふくお腹も膨らみました。何時ものこの会は,開会後すぐに何もなくなっることが多かったのですが,本日は帰りになってもまだ沢山料理が残っていました。あと幹事役の方が頂かれたと思いますが満足する料理でした。
腹も膨れ,時間もきて軍歌になりました。「艦船勤務・江田島健治の歌・軍艦」を声高らかに合唱しました。
軍歌が終わって名残は尽きませんが,時間となり,江藤圭一氏(64期)の音頭で万歳を三唱しました。
最後に中村悌次氏(67期)の閉会の辞がありました。この中で,今まで連合クラス会の立ち上げ,運営に精魂を尽くされた方々のお名前をあげて感謝の意を表されました。特に同期の熱海光雄氏が体調を崩し参加されなかったことを残念がって述べておられました。
以上で懇親会は盛大に終わりました。帰りにお土産と第8回全国大会記念誌を頂ました。記念誌をざっと見ただけですが,72期の戦死者数が337名のままになっているのは,28年3月厚生省援護局資料によるとありますが,現在72期としては335名として処理しています。
日記6月7日
昨日から今日にかけて慰霊祭の事後処理にかかっていました。大部終わりましたが,ご遺族の欠席が案外多かったです。結局会員85名、遺族82名、計167名に左近允尚敏君の紹介のフリージャナリスト笹幸恵女史の特別参加を加えて168名になりました。
笹幸恵女史は平成19年5月、文春から「女ひとり玉砕の島を行く」を出版(ガダルカナル、ムンダ、ブーゲンビル、タラワ、マキン、サイパン、テニアン、硫黄島)。本年4月靖国神社で出している「やすくに」に『「何が戦後か」 団塊ジュニアが見た慰霊碑の「いま」を投稿。 文春、諸君、SAPIO などに執筆。昨年11月フジテレビが「団塊ジュニア南方を行く」を1時間放映(ナレーションも彼女〉、いい番組だった。彼女の慰霊祭に特別参加しての感想をお願いしました。
今回案内状は発送しなかった次の方の参加がありました。
島美佐子様(寺本實三君の妹)
國神社に献金した時,72期の慰霊祭が6月5日に行われることを聞き,参加申し込みがあった。寺本實三君が一学年時同分隊だった旭輝雄君に会えていろいろ兄のことが聞けて嬉しかったといっておられました。
なにわ会靖国慰霊祭懇親会
昨日は伊藤様、左近充様他の皆様のおかげでとても良い時間を過ごす事ができました。終日降った雨も、昇殿参拝の時は降りやんで清々しい空気となり、伯父達が仲間や遺族に会いに舞い降りて来た様な夢想をしました。艦爆の山田良彦様のお隣で、当時のお話をいろいろお伺いできてうれしかったです。モモちゃん、ガスキン、タイソウ、ロング、ヘルマン、ナグロー、ナイスボーイ(伯父深井良です)などのあだ名の由来などもおかしくお聞きしました。伯父も酒は飲む方だったとか。霞空、百里空では飛行訓練中のミスに対するギザ(50銭硬貨)の罰金はシロップ代などではなく、飲み会用にプールされ、休日には霞空の時は荒川沖駅から、百里の時は石岡から東京方面へくり出したそうです。その他にも足立義之ご夫妻、艦爆故高橋義郎(ナグロー)氏の弟、高橋義也ご夫妻、艦爆故岡田次夫(モモちゃん)氏の弟藤本和久様とお話しました。2号時伯父と同じ37分隊の山根眞樹生様は、当時よほどひどい目にお会いになったのか、隣の分隊の1号K氏によく殴られたと、昨日の事の様に憤慨されていました。新入生の時伯父と同分隊の足立喜次様は空母瑞鶴沈没の時、天皇の写真を庶務主任と泳いで運んで救助された駆逐艦の士官室に掲げたそうです。「良」と呼んでいたと言う溝井清様には「深井君は本当にカッコ良かったな」と仰って頂きました。お話はできませんでしたが1号でご一緒の旭輝雄様、2号でご一緒の森園良已様のお元気なお姿も拝見できました。江田島の図書館で「第九銀河隊指揮官深井良」を読んで下さった、以前伊藤様を介してメールを頂いた故精島勝義の甥精島弘文様とも、興味深いお話する事ができました。
遊就館では伯父の遺影を見てきました。85番のボードの右端、上から10番目です。館内では韓国語を話す声が聞こえましたが、どの様にご覧になったのでしょうか。帰りは、再び靖国神社境内の濡れた玉砂利を歩きながら、九段の庭で桜の花になって会おうと言い交わされた桜の古木をしみじみと眺めました。故人も生存者もなにわ会の方々は本当に命をかけて日本を守った人々です。この真実が将来、忘れられる事の無い様、記録の重要性を再認識しました。本当に有意義な一日でした。ありがとうございます。 深井紳一
伊藤正敬氏、精島弘文氏
深井紳一、山根眞樹生氏
山田良彦氏、高橋義也ご夫妻、藤本和久氏
深井紳一、山田良彦氏
足立喜次氏
日記慰霊祭反省
昨日の慰霊祭無事終了しましたが,後期高齢者のやること,ミスがあってご迷惑をかけました。
その第一は岡本俊章君の昇殿参拝のみを懇親会も出席と間違えたことです。
2番目は会員の幸田正仁君,三好文彦君が出席の返事を頂いていたのに姿を見なかったことです。
3番目は市瀬文人君から奥様欠席の連絡があったのを本人欠席として処理したことです。
今回の名簿作成中随分変更が多く苦労しましたが,何とか大役を果たせてホットしています。
懇親会の席でご遺族から来年以降の永代神楽祭について質問が多かったので,概略次の様に説明しました。
1 ニュースは9月の99号と来年3月の100号で終わりとします。
2 以後の情報配布はHPとブログによるほか,出来れば3月に1回程度のブログの要約を会員には全部に,ご遺族には希望者に配布します。(ただし伊藤正敬が元気な間,99号発送時に葉書を同封,会員およびご遺族の希望,意見を聴取したいと考えています。)
3 永代神楽祭は来年から毎年6月1日(大尉昇進の日)1400から行います。とりあえず来年は案内の往復葉書を出して員数を把握します。
なお永代神楽祭については↓を見てください。
http://www.yasukuni.or.jp/guide/index.html
要旨次のとおり。
ご遺族からのお申し出による「永代神楽祭」は、神霊のご命日など縁ある日に神楽を奉奏し、永代に亘って神霊をお慰めする祭典です。永代神楽祭では、ご遺族が本殿に参列する中、神霊の御名が奏上され、香淳皇后の御歌に作曲・振り付けした「みたま慰めの舞」を二人の仕女が奉仕します。
日記6月5日 最後の慰霊祭
なにわ会としての最後の慰霊祭が行われました。
この慰霊祭は第1回が昭和27年10月12日に行われ,その後暫く空いて第2回が昭和43年11月23日,第3回が昭和45年6月1日,以後毎年6月に実施されてきました。今回は第41回目になります。参加者は昨年より多く会員87(84),遺族が90(61),計177(145)名でした。
注 昇殿参拝(懇親会)
なお,当日当日欠席が若干あった様です。
幹事は1000集合,参加者は1030頃から次々と集まってきました,
(受付風景・幹事中井末一・上野三郎・遠路富山から参加の高松道雄)
受付の終わったものは参集殿に入り,時間まで懇談を楽しんだ。
1200昇殿参拝,年度代表幹事左近允尚敏君の祭文奏上の後,代表5名による玉串奉奠があり,無事終了。
場所をアルカディア市ケ谷に移して懇親会になりました。野崎貞雄幹事の見事な司会で会は進められました。まず左近允尚敏君の挨拶,遺族代表として山田三郎君の令兄山田一夫様の感謝の言葉,九州から遠路参加の池田武邦君の音頭で乾杯,あと懇談に入りました。懇談中次のご遺族から過去のなにわ会慰霊祭を振り返って感謝の言葉や感想の陳述がありました。
岡野武弘氏(井尻文彦君の弟)・横川康春氏(上原庸佑君の弟)・精島弘文氏(勝義君の甥)
さらに,北海道から参加の右近恒二君の挨拶もあり会は大いに盛り上がりました。
瞬く間に予定の1530になり例年の軍歌係相澤善三郎君の音頭で軍歌を歌い,話はつきませんでしたが散会となりました。
追記
1 70期三浦節氏「私観 太平洋戦争」を主計科の富田岩芳君が50部寄付され,希望者に配布されました。
2 土井輝章君の母上 土井茂子様 平成20年1月4日午後10時に肺炎で逝去されました。
母在世中のなにわ会のご好意に感謝の気持ちで,妹さんの土井美幸さんが見えて参加者に珍味のお菓子を配られました。
日記6月4日
名簿印刷後の追加訂正
6月3日 慰霊祭(昇殿参拝のみ)追加参加 前田政夫君の姪・寺崎友紀子
6月4日 会員欠席に変更 市瀬文人君
慰霊祭のみ参加。 前橋誠一君の弟:前橋康弘
懇親会の席数
17テーブル 8→7に変更
慰霊祭参加予定者名簿
昨日印刷した名簿をHPに掲載しました。見てください。
会員 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/ireisai-kaiin1.html
遺族 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/ireisai-sanka-izoku.html
日記6月3日
なにわ会としての最後の慰霊祭は明後日になりました。今日は当日配布する名簿等を4部,180枚づつ作成しました。作成後の変更は訂正できませんのでご了承ください。
今日NTTの担当が来て,パソコンの接続を光に変更しました。
日記6月2日
故土井輝章君の母上 土井茂子様 平成20年1月4日午後10時に肺炎で逝去されました。
妹さんの土井美幸さんが5日の慰霊祭の懇親会に参加されます。
慰霊祭参加者 次のとおり変更がありました。
1 欠席に変更
登丸 滋(登丸肇の弟)
山田紀美子(登丸肇の姪)
木村 靖(木村Gのお弟)
田辺 眞次(田辺光男の弟)
田辺ます子(田辺光男の義妹)
中西 英子(中西健造の妻)
北川 裕子(中西健造の娘)
2 追加出席
山崎 明子(大森茂の姪)
土井 美幸(土井輝章の妹)
日記6月2日
故土井輝章君の母上 土井茂子様 平成20年1月4日午後10時に肺炎で逝去されました。
妹さんの土井美幸さんが5日の慰霊祭の懇親会に参加されます。
慰霊祭参加者 次のとおり変更がありました。
1 欠席に変更
登丸 滋(登丸肇の弟)
山田紀美子(登丸肇の姪)
木村 靖(木村Gの弟)
山崎 明子(大森茂の姪)
田辺 眞次(田辺光男の弟)
田辺ます子(田辺光男の義妹)
中西 英子(中西健造の妻)
北川 裕子(中西健造の娘)
土井 美幸(土井輝章の妹)
日記6月1日
故寺本実三君(偵察《攻256》・東京府立4中出身)のご遺族島美佐子様(妹)から慰霊祭・懇親会に参加したいと連絡あり,これで昇殿参拝180名,懇親会149名になりました。
故丸秀夫君のご遺族丸昌美様から電話があり,出席するのは,義妹の洋子でなく,姪の昌美とその子の紗奈だと連絡がありました。
左近允尚敏君,上野三郎君本日送付した名簿訂正してください。
なにわ会名簿の遺族和夫様は20年3月1日に逝去されました。次号で,なにわ会の名簿を訂正します。
以上を訂正して,当日配布の名簿を作成します。以後の追加・変更は,名簿上ではそのままとします。