ブログ 20年1月
なにわ会のブログ 20年1月
日記1月31日
窪添龍輝君から年会費の振込み用紙を送ってもらった。これはニュース発送時,ニュースに入れて会員に配るものです。ニュースの発送先は私のところできめています。従って,発送先と振込み用紙があわなければいけませんので,頂いたのをチェックしています。
それにしても窪添龍輝君の作業大変なものですね。敬意を表します。
1号48分隊員の寄せ書き
泉五郎君から昭和18年9月,海軍兵学校卒業直前に書かれたと思われる寄せ書きを頂いた。現在の生存者は彼1人。6名戦死,3名戦後死亡,ここにその寄せ書きを掲載して亡くなった方のご冥福を祈ります。
戦没者
飯塚勝男君、今田勝治君、岸 雪雄君、小林正一君、野中繁男君、林 慶治君 戦後物故者
飯澤 治君、菅井 超君、府瀬川清蔵君
生存者 泉 五郎君
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伊藤さん、深井です。野中さんは伯父深井良の宇佐空での仲間です。林慶治さん(横中29期)は特攻9日前に海兵63分隊の大山裕正さんと3人で横須賀で「共ニ語ル」、そしてその晩「厚木空ニ一泊」しています。そして曇天小雨のなか0945に出発し、1130に運命の美保空に帰っています。「征空万里」と読むのでしょうか、ダイナミックな性格を感じますし、林さんは忠君愛国の士という感じですね。
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by naniwa-navy
林慶治君は横中同級生です。
大山裕正君は最近横浜に転居されましたが体調不良のようです。新住所は今度のなにわ会ニュース見て下さい。
日記1月30日
21日に書き込んだ荒木信正君の甥の方から,次のメールを頂きました。
大槻敏直様と市瀬文人様と電話でお話ができました。1学年時同分隊 大槻敏直様は、卒業後の配属先でもお会されたとのことで、叔父の事を覚えておられました。卒業後は本土の航空基地で教官として後身のご指導に従事されたとのことでした。
2学年時同分隊 市瀬文人様は、叔父と親しくご交友下さいましたとのことで、海軍兵学校での叔父の日常の様子、文武・人柄等を、詳しく教えて頂きました。卒業後は水上機に搭乗され、本土の航空基地で教官として後身のご指導に従事されたとのことでした。
伊藤正敬様、市瀬文人様は、「なにわ会」ホームページの「20年湘南1,2」の写真で、大槻敏直様は、ご経営の店舗ホームページにて、お姿を拝見致しました。
今年も、故郷の熊本県益城の地へ墓参りを致しますが、伊藤様、大槻様、市瀬様、皆様のご配慮と「なにわ会」のこと、墓前報告いたします。そして上の写真が添付されていました。
なお,この件に関し,東條重道君からрェあったので彼を荒木氏に紹介しました。
67期会の「ご連絡」と言うA4 16頁の冊子をいただきました。内容は訃報,行事,級友消息,ご遺族消息,会計報告等です。なにわ会の21年以降の情報配布の参考にしたいと思います。現在の生存者は22名になっています。
佐丸幹男君から校正が戻ってきました。これで98号全部まとまりましたので,最後の仕上げをして来週中に印刷屋に発注できると思います。
泉五郎君から72期卒業時と大尉昇任時の海軍公報と1号48分隊の卒業時の寄せ書きを送ってもらいました。寄せ書きは取り込んでニュースに掲載しようと思っています。
日記1月29日
先日亡くなった村上義長君の弔辞を室井正君から村山隆君経由でうけとりました。是で98号の投稿をしめきります。
京都の山本省吾君と電話で戦記取りまとめの件について話し合いました。彼は次の意見をもっています。
「自分の経験によると、一般の原稿をパソコンに取り入れるのは大変な時間と努力が必要で、貴兄あってこそ可能だったと深く感謝しています。その貴重な結果を一部の人達しか見られないのは本当に残念です。貴兄の話では費用の点が大きいようですが、立派のものを造ることもさる事ながら、まずみんなに読んでもらうことが先だと思います。そこで提案として掲載は一人一編とし、総ての編集を当方でやり、印刷・製本・配布のみ外部に委託する方式でも費用不足になるでしょうか?」
今,一応どれくらいのものが取り込まれているか,纏めて印刷配布する,配布しないは別にして,逐次ニュースの形式に直しています。またこの件について,他の会員のご意見も頂きたいものです。
昨日お知らせしたニュースの配布部数について,上野三郎君,溝井清君,田島明朗氏,片岡氏から早速ご返事を頂きました。有り難うございました。
八巻淑博さんからのお電話
1月28日の19時ころ伯父と同じ旧制横須賀中学29期の八巻淑博さんからお電話を頂きました。伯父とは同じ5年南組で、本の制作にご協力頂いた山口の篠原茂雄さんとも親しい仲であったとの事。ご本人も13期飛行予備学生出身の少尉として、串本空で伯父の第九銀河隊の信本廣夫さん(二等飛行兵曹)に飛行機用レーダーをお教えになったとの事で、第九銀河隊の編成を見て第一中隊一小隊二番機の電信員として信本さんの名前を発見し、大変驚かれたそうです。もっと驚くのは八巻様の奥様は、深井家に婿入りした曽祖父川嶋峰次郎の実家である横須賀の川嶋紙店の川嶋清彦様のいとこであり、つまり八巻さんと私や伯父良は遠い親戚に当たるということです。ご本人も仰っていましたが不思議なご縁です。伯父の思い出をお聞きしました。何かの会でお菓子を買いに行く者を決めるのに、あみだくじを皆で引いたら伯父があたり、菓子を買うのが恥ずかしいのか真っ赤になって買いに行ったそうです。私も赤面症で、よくからかわれた事を思い出しました。また、たまたまお互いに帰郷中に平坂下を上から良が、八巻さんが下から歩いてきてばったり出会い「よう、どうしてる?」「今、百里にいるんだ」という話をしたそうです。とても張り切っている様子だったとのことでした。陸士57期の斎須重一様、陸士58期の森善冶様、陸士56期の吉田四郎様(横中4年から陸軍士官学校に入校した秀才−森善冶様による)からもお電話、お手紙、書籍をお送り頂きました。八巻さんによると当時は「横中にあらずんば人にあらず」と町を闊歩していたそうです。
深井紳一(神風特攻の海兵72期21分隊深井良の甥)
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Commented by 伊藤 正敬
八巻君からいろいろお情報があってよかったですね。昨日精嶋勝義君(72期巡洋艦筑摩で戦死)の甥の弘文君からメールで,今江田島の幹部候補生学校にいるが,同校の図書室で深井良様の本を借りて読んでいるといってきました。なかなか,有名になってきましたね。
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by 深井
何もかも情報を下さる伊藤さんのおかげです。父の世代は多く語りませんが、私達の世代は日本を守ろうと大変な時代を生きた伯父達のことに関心が強いのでしょうか。家族の中だけで忘れ去られようとしていた深井良が、いろいろな方に知って頂けてうれしいです。
74期が名簿(A5 287頁)とHPを纏めてカラー印刷した「江鷹会の今昔」A5 100頁のものをを送付して貰いました。パソコンでHPを見られる人は限られているので,会員総員に見てもらおうと印刷配布されたそうです。
なにわ会のHPは会員多数の昭和39年以降44年間の投稿を殆ど全部取り込んであり,その全部を製本印刷配布するなど考えられませんが,何とか,戦記だけでも纏めて「なにわ会会員かく戦えり」として出せないものかと模索しています。
都竹卓郎君から校正をいただきました。
なにわ会ニュース98号来月上旬印刷屋に来てもらい発注予定です。ところで,今まで投稿者には2部送付していましたが,その必要はないのではないかと言う意見がありますので,98号から原則1部送付に変更します。
ただし,ご希望の方にはご希望部数送付いたしますので,2部以上送付ご希望の方は希望部数お知らせ下さい。なお,次回からクロネコヤマト便で発送します。
1月も残り少なくなってきました。このところ寒い日が続いていますが皆さん大丈夫ですか。
昨日から,100号の最終記念号に取り込もうと思って,戦記の整理を始めました。戦記だけでも随分沢山あって,全部取り込むとすれば膨大なものになります。せいぜい300頁程度に纏めようと考えています。今逐次取り込みを初めました。是非取り組んで欲しいものがあればご連絡下さい。なお,機関科は既に立派な本「海行かば」を発行されていますので,これに収録されているものは取り込まないつもりです。
左近允尚敏君から72期で2階級特進した者の名簿を作ってみたとメールを貰いました。何れも特攻で戦死した者です。最初の特攻戦死は19年10月で,20年6月以降72期で特攻で戦死した者はいませんので,全員海軍中尉で出撃して戦死後海軍少佐に任ぜられています。現在まで確認出来たのは神風で39名,回天で6名,計45名です。機53期の該当者を調べ,99号で発表したいと思っています。
窪添龍輝君から2回目の校正が帰ってきました。
やっと分かりました。21分隊深井良の甥、深井紳一です。
かねて昭和18年の正月に伯父深井良と一緒に記念写真を写された方がどなたであるか分かりませんでした。お分かりになりそうな方々に照会していたところ、23日の19時ころ陸士56期の吉田四郎(横中29期)さんからお電話頂き「私が本人です」とご連絡を受けました。撮影時のお話をお聞きしました。当時、横須賀中学から陸士、海兵へ行った者は正月の帰郷時に横中へ行き、在校生に受験の話や兵学校の様子を話しに行ったそうです。吉田さんは追浜の浦郷小出身で、伯父とは横中でも同じクラスというわけでなく、たまたま同じ時に横中を訪れ、記念写真を撮ったようです。どこの写真館かはご記憶になく、一緒に写した経緯もあまり憶えていないとの事で、友人という事でなければ、おそらく陸士、海兵の良いツーショットで写真館が店頭用に撮ったのかなという気がします。というわけで深井良の思い出話をお聞きできると思いましたが残念でした。吉田さん曰く、諏訪小から横中へ行ったものがいれば深井君の話が聞けるのではとの事でした。この件に関して陸士57期の斎須重一には色々お話をお聞きしました。横中29期の八巻(ヤマキ)淑博(13期予備学生)さんからは留守電が入っていて、お手紙を頂ける事になっています。伊藤正敬さんをはじめ、皆様親身にお教え頂きありがたい事です。
(写真 略)
斎須重一様の「様」が抜けてしまっていて、どうもすみません。
深井紳一
Commented by naniwa-navy x
深井さん 伊藤正敬です。写真の方,吉田君と判ってよかったですね。吉田君は4年から陸士に入学しています。昨日吉田君,今日森君から電話いただきました
今日は平成17年に亡くなった三笠C治君の奥様道江様と昨年亡くなった春日仁君の奥様尚子様から多額の寄付金を頂きました。ご好意深謝致します。頂いた寄付金は窪添龍輝君の銀行口座に振り込みまました。同じ横浜銀行だと手数料なしで送金できますね。とても便利です。
春日仁君のお別れの言葉の校正を渡邉望君から貰い,これで春日仁君関連の投稿の編集作業完了しました。
HPの19年度後期住所変更を訂正掲載しました。
先日書いた荒木信正君の甥の方から次にメールをいただきました。
「遺族代表としてご連絡頂きました、叔母美那子は3年前に他界し、葬儀には小生も参列いたしました。叔父信正を三男とご連絡しましたが、梓郎(長男)、信正(次男)、信竹(三男)、美那子(長女)でした。」
1号同分隊の大槻敏直君,2号同分隊の市瀬文人君を紹介しておきました。
春日美智子様から,最終原稿の校正を頂きました。所要箇所訂正して校正担当に送ります。
昨日書いた百瀬君寄稿の広島原爆の記事についての都竹君の指摘について検討しました。戦時中の陸軍が原爆につぃて研究や実験をしたかどうかと言う事についてです。
百瀬君の寄稿の表現は次のとおりです。
「日本では仁科博士が原子爆弾の実験に失敗しており,米国が成功したのか。これは大変なことになったとの感があった。」
日本の原子爆弾開発について,「 フリー百科事典『ウィキペディア」には次のとおり書かれています。
「第二次世界大戦(太平洋戦争)中の大日本帝国には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と海軍のF研究(Fissionの頭文字より)である。
ニ号研究・F研究の開始
昭和15年(1940年)、理化学研究所の仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている。昭和16年(1941年)に日本陸軍は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託、アメリカによるマンハッタン計画が開始された翌年の昭和18年(1943年)1月に、同研究所の仁科博士を中心に開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、昭和19年(1944年)3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。他方、日本海軍も昭和16年(1941年)5月に京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、昭和17年(1942年)には核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と共同で原子爆弾の可能性を検討した。しかし当時は、岡山・鳥取県境の人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、ウラン鉱石はもっぱらナチス・ドイツの潜水艦(U-234)による輸入に頼る状況であり[1]、原子爆弾1個に必要な約2トンのウラン鉱石の確保は絶望的な状況であった。また熱拡散法は米国の気体拡散法(隔膜法)より効率が悪かった。
研究打ち切りと敗戦
昭和20年(1945年)5月15日のアメリカ軍による空襲で熱拡散塔が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった[2]。同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。」
従って投稿者百瀬君の意思を尊重して寄稿どおり掲載します。
それにしても,校正担者がよく内容までも検討して頂いて感謝しています。
荒木信正君の甥の荒木浩様から次のメールを頂きました。
「叔父荒木信正(攻撃第七〇八飛行隊)の記録を拝見させて頂きました。
叔父信正は、故荒木又男の三男にして、小生の父(長男)荒木梓郎(健在)の弟でした。
終戦近き頃、特攻隊を沖縄方面の敵軍に向け引率し、何時か帰らぬ英霊となられたと聞き及んでおります。今は、故郷熊本の益城の地にて、先祖の墓に並んで御霊をやすめておられます。小生、今は埼玉に在住ながら、毎年、親族を代表して墓参りをいたしております。貴殿の資料にめぐり合い有り難く、幸せです。何か、叔父に関する話や、資料がありましたら、お知らせ願えれば幸甚に存じます。宜しくお願い申し上げます。」
何か荒木君のことご存知のかた,伊藤正敬あてご連絡下さい。
春日美智子さんから葬儀の時の写真2枚と妹さん,その孫の投稿の訂正を貰いました。渡邉 望君から春日仁君へのお別れの言葉を頂き,全部編集し直しました。村山隆君に先日逝去された村上義長君の記事について尋ねた所98号に入れて欲しいとのこと,追加挿入します。
百瀬茂君の投稿記事について疑問があると都竹君から連絡がありました。
年度幹事左近允尚敏君から20年の年末クラス会,20年12月4日(木)市ヶ谷のアルカディアで行なうことで場所の予約を確保したと連絡があった。
ある人のブログに「400潜と晴嵐」という本を書店で見つけたという記事があった。そしてそのコメントに次のビデオの紹介があった。。
http://www.youtube.com/watch?v=DK-X1LUfCHg
これを見たら,前にテレビで見たことのある画像であった。401潜水艦の艦長,飛行長(70期)と矢田次夫(72期)が出ていた。御覧になっていない方見て下さい。
なにわ会ニュース98号,全部まとまりましたが,春日仁君関連記事の訂正があるようで,これが来たら,頁数を打ち直して更に校正担当の方の指摘箇所を訂正して,印刷屋に発注します。昨日は上野君が歩こう会の報告を打ち込んでくれて嬉しかったです。
平成20年度第1回の歩こう会が実施された。
気温2〜6度と極寒の中元気印の11名が午前11時湘南モノレール
寒い中を三々五々の人並みに混じって真っ直ぐに江ノ島神社に向かう、参詣路の両側の店並みは昔と変らない佇まいであるが、ただ店の掛け声だけが勇ましく、素通りが多いようだ。
江ノ島神社で今年一年の無事を祈り、歌舞伎役者の信心の厚い中津宮に詣で、ゴール(奥津宮は敬遠)のサムエル・コッキング苑に500円の入場料を払い入苑。
春を先取りしたチユウリップに歓迎され、此処で全員写真を撮る。
苑内はとてもよく整備されており、又湘南海岸では見られない暖かい土地にしか育たない植物が生育しており太平洋に面した島だなとの感を深くした。
後列左おり 深尾、加藤、上野、浦本
前列左より 高田、小松崎、品川、藤井、伊藤、深尾、幸田
海抜100メートルの展望台より見る360度視野の眺望は見事で(富士山が見えなかったのが残念だったが)湘南地区の素晴らしさを再確認した。
展望台をバックに写真を撮る。
ゆっくりと下山しヨットハーバー近くの昼食場所の着いた時は2時近く腹が空いていた関係もあり、思い思いの料理で魚料理を堪能し3時30分頃帰途に着く。
よく歩き(?)よく食べた一日だった。
Commented by naniwa-navy
寒い中ご苦労様でした。写真入りの報告有り難うございました。このように皆がこのブログに書き込んでくれると,とても嬉しいです。このブログがなにわ会の情報交換の場として活躍してくれる事を期待しています。伊藤
Commented by 金曜の寒梅
伊藤様 何かと有難うございました。先程、金枝様のご紹介で伯父の機関学校時代に友人であった松本様にお電話させていただき、当初の目的を果たすことが出来ました。このブログの益々のご発展をお祈りいたします。
Commented by naniwa-navy
何時もこのブログを見て頂いて有り難うございます。海軍機関学校51期の方とご連絡が取れたとのこと,よかったですね。このブログがお役にたってとても嬉しいです。 伊藤正敬です。
会計担当の窪添龍輝君から入金報告,会計報告をいただきました。19年度末のなにわ会基金の残高は約216万です。永代神楽祭の50万,20年度の食い込み50万,100号の印刷発送費56万円を差し引いて残高約60万という事になります。,
20年末の生存者5000円,ご遺族の希望者から1000円頂いて約100万入りますので,
合計160万円残ります。90歳まで持たせるとなると1年約32万しか使えなくて少し心細いですが,寄付金に期待しましょう。
昨日のブログに書いたように春日美智子さんから関連資料を頂いたので,春日君関連の記事を整理しました。また,当日の渡邉望君の弔辞も是非ニュースに入れて欲しいとの希望があり,渡邉望君に電話してお願いしました。
Commented by 春日長女 x
お世話になります。父を亡くし寂しいですが、なにわ会に支えられて母、子とも過ごし感謝しています。
さて、母が、香典の一部を些少ながら寄付したいと申しております。送金方法を教えていただけましたら幸いです。
かねてお願いしていた春日仁君の写真を長女美智子様から沢山送ってい頂きました。
まず生前の春日君の写真です。
次は式場全般の写真です。
次は参列した72期4名です。左から久米川英世,鈴木彊,渡邉望,泉五郎の4君です。
長女 at 2008-01-19
21:56 x
上の写真ですが、ニュースに載せていtだく分は、カラーコピーでなく、プリントの方がきれいですので、焼き増しした分を郵送いたします。
よろしくお願い致します。
妹の文と孫の文は、修正分を近日送信いたします。
お手数をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。
Commented by naniwa-navy at 2008-01-19 22:23 x
承知しました。ただし,写真はお預かりした写真そのものを印刷屋に渡して取り込んでもらうので,あれでいいと思いますが印刷屋と相談してみます。
妹さんと孫の方の文章,編集の都合もあり,なるべく早くお願いします。
Commented by 春日長女 at 2008-01-20
13:44 x
原稿遅れていて申し訳ありません。長男の中学受験の願書提出が本日だそうですが、本日中にはメールにて原稿の修正版をお送りいたします。
何とぞよろしくお願い申し上げます。
春日 仁君の娘さん美智子様から次のメールを頂きました。
「父の写真を郵送しました。
告別式の写真解説です。
渡邉望様により棺にかけていただいた旧海軍本物の軍艦旗と海軍兵学校第72期生一同からいただいた供花と渡邉望様より「お別れの言葉」を頂戴し、家族も知らない父の姿を紹介していただきました。(右より泉五郎様、渡邉望様、鈴木ツトム様、久米川英世様)
渡邉様より、棺には戦闘帽を入れるよう言いつかり、戦闘帽を納棺しました。天国で戦友たちに会っているでしょうか。同期4人に棺を担いでもらい出棺いたしました。お骨まで拾っていただき父もよろこんでいると思います。渡邉望様は、骨になった父をじっとみつめていらつしゃいました。
そして、敬礼し「春日、さようなら」と大きな声で軍人のようにお別れの言葉を述べられました。
最後まで、お見送りいただけ本当に有難いことでした。
<春日仁の次女(磯部小舟)の父の思い出>
出棺の時に流したスッぺの「軽騎兵序曲」は、父の好きな曲でした。「軽騎兵」は軍人の華やかな生活を描いたオペレッタだそうです。父の好きだった曲を、私はおぼろげに考えていました。
父は機嫌の良い時には、ヨハンシュトラウスのワルツや行進曲を口ずさんでいたものです。
楽器こそ演奏しなかったが、「ブンチャッチャ」とエアギターならぬエアコンダクターというのがあるなら、やるんじゃないかと思うくらいのノリでした。中でもスッペの「軽騎兵序曲」はノリノリでした。
この曲とタイトルが一致したのは、長女の雅子が小学校で習って来たからで、父の鼻唄で聞いてから何年も経ってからのこと。気付いたことは、ヨハンシュトラウスもスッペもオーストリアだということ。2年程前、父がテレビのヨハンシュトラウスのオーケストラを熱心に見ていたことがあり、その音楽との接点は何か、訊いたことがある。やはり海軍時代に覚えたらしい。いくら故人が愛した曲でも、葬儀にふさわしくない曲なら駄目なので、みんなで事前に聴いてみた。
始めにファンファーレが勇ましく入るところや、行進曲っぽいノリが、軍人だった父を見送るにふさわしく、時々マイナーな曲想になるので葬儀でもおかしくないということで、出棺の時に流すことにした。この曲の勇ましさは、出兵兵士を励まし見送るイメージで、天国へ旅立つ父にふさわしかったと思います。
父の戒名は、海軍が好きだったので本人が菩提寺の住職に希望し「海」の一字を入れてもらい
「海光院仁誉浄道居士」です。
春日仁の次女の長男(小学6年生)が書いた、祖父・春日仁のこと
「おじいちゃんと大きな古時計」
2007年11月27日真夜中、電話が鳴った。翌朝、社会見学に行くため早起きしたら、おじいちゃんが今朝2時半に亡くなったとお母さんに聞かされた。出掛ける前に、昨日、機種変更したばかり携帯の着メロをいじっていたらCLOCKが突然鳴り出した。偶然とは思えなかった。おじいちゃんが「着メロはその曲にして」と言っているようだった。社会見学から帰ってすぐ、新幹線でおじいちゃんの所へ向かった。次の日は斎場で通夜。おじいちゃんは、この家に二度と戻れないから、今日がこの家にいる最後の日。おじいちゃんが長年住んだこの家で、どんなお別れをしたらいいのか考えた。お母さんは着メロのことを気にしていた。おじいちゃんが眠っている部屋にはピアノがある。お母さんのピアノでみんなで「大きな古時計」を歌ってお別れすることになった。
真夜中にベルがなった
おじいさんの時計
お別れの時が来たのを
皆に知らせたのさ
天国へ昇るおじいさん時計ともお別れ
今はもう動かないその時計
百年休まずにチクタクチクタクおじいさんと一緒にチクタクチクタク
今はもう動かないその時計
この2番の歌詞のところでなぜか涙が出た。お姉ちゃんも妹も伯母ちゃんもみんなで大泣きになった。おばあちゃんは泣きながら「みんなありがとうね。おじいちゃんは真夜中に亡くなったから、本当にこの歌みたいだね。」と言った。「85年も生きたんだもの。百年生きたも同じね。」と伯母ちゃんが言った。おじいちゃんはみんなに見送られて、喜んで天国へ行けるかも知れないと思った。おじいさんが生まれた日から動き続けてきたのは時計ではなく、おじいさんの心臓の鼓動。もう動かないのも時計じゃなくておじいさんの体だ。真夜中にベルが鳴ったのも時計じゃなくて電話。時計はおじいさんの人生そのものを表しているんだと、この歌の意味がやっとわかった。この歌を歌うと涙が出る。なぜだかわからないけど涙が出る。
おじいちゃんの亡骸を前に、「♪天国へ昇るおじいさん」と歌ったが、本当に不思議なことが起きた!
歌っている時に撮った写真の、寝ているおじいちゃんの上に丸い光が写っていた。伯母ちゃんは「これはおじいちゃんの魂だ」と言う。おじいちゃんの魂はまだ近くに居て、やがて天国へと旅立つのだろうか。
告別式で、おじいちゃんの海軍時代の友達がお別れの言葉を下さった。お母さんにとっても初めて会う人達が、おじいちゃんの若い頃の話を聞かせてくれた。戦争のことで僕がおじいちゃんと話したことは、軍艦のプラモデルのことぐらいだ。おじいちゃんから戦争の話は、あまり聞いていなかった。この前見た映画「続三丁目の夕日」では、戦友に会いに行くが、友達は戦死していたという話だった。おじいちゃんが戦死しなかったから僕が居る。僕は伯母ちゃんに言った「おじいちゃんはきっと天国へ行けるよね。だってお国のために戦ったんだもんね。家族のために頑張ったんだもんね。」と。
Comments(2)
Commented by 春日次女 at
2008-01-17 14:54 x
初めまして磯部小舟です
皆さんに葬儀に参列していただいたお陰で父と孫の世代との繋がりが出来て良かったです.
お淋しいことと存じます。貴方の文と息子さんの文を3月発行のなにわ会ニュース(クラス会の機関誌)に掲載させていただきます。完成したら貴方様にもお送りいたしますので住所お知らせ下さい。
なにわ会のHPで私の所にメール送れると思います
日記1月16日
なにわ会ニュース98号おおむね纏まり,印刷して校正担当の大谷君,都竹君,佐丸君,窪添君に送りました。100頁に纏まりました。
昨日の訃報順調に流れたでしょうか。気になります。その中,泉五郎君から村上義長君とは木曽で一緒だったとメールを頂きました。
豊廣稔君からHP掲載中の戦記のことで電話があった。新庄浩君から特攻で戦死した級友のことを纏めている。次回に是非掲載して欲しいと電話があった。
前から提案し,一部クラスメートから戦記だけでも纏めて出版したらどうかとの意見もあり,なにわ会ニュース100号を特別記念号としたいと考えている。内容はなにわ会の歩み,我等かく戦えり,その他の寄稿を考えている。この件についてご意見を頂ければ幸いである。
なにわ会ニュース98号おおむね纏まり,印刷して校正担当の大谷君,都竹君,佐丸君,窪添 龍輝君におくりました。100頁に纏まりました。
昨日の訃報順調に流れたでしょうか。気になります。その中,泉五郎君から村上義長君とは木曽で一緒だったとメールを頂きました。
豊廣稔君からHP掲載中の戦記のことで電話があった。新庄浩君から特攻で戦死した級友のことを纏めている。次回に是非掲載して欲しいと電話があった。
前から提案し,一部クラスメートから戦記だけでも纏めて出版したらどうかとの意見もあり,なにわ会ニュース100号を特別記念号としたいと考えている。内容はなにわ会の歩み,我等かく戦えり,その他の寄稿を考えている。この件についてご意見を頂ければ幸いである。
| Comments(2)
Commented by 春日の娘
なにわ会ニュースの編集お疲れ様です。父の写真を送らせていただきました。
間に合いますでしょうか? 告別式の渡邊望様からの「お別れの言葉」もなにわ会ニュースに載せていただけますのでしょうか?母が記念にいただきたいと申しておりますので。よろしくお願い申し上げます。
Commented by naniwa-navy at
2008-01-18 08:10 x
先ほど打ち込んだ記事をFAXでお送りしました。
機関科村山隆君から電話で村上義長君逝去の知らせがありました。HP,ブログに掲載,72期連絡網で流しました。
泉五郎君から艦務実習注の八雲候補生の班別写真をいただきました。
先日お願いしたHP掲載文の校正について,宮田實君から返事をいただきました。
訃報敬弔
氏名 村上 義長 君(名簿42頁)
平成20年1月13日(日) 逝去
御通夜 平成20年1月18日(金)
1800〜1900
告別式 1月19日(土)1100〜1200
斎場 洗足池シティホール
〒145-0065
電話 03−3729−4444
Fax 03−3720−4891
交通 東急池上線洗足池下車 徒歩1分
今日は成人の日で祭日でした。その為手紙は1通も来ず,静かな1日でした。
最近各クラスとも会報は宅急便で送られてきます。それも殆どクロネコが多いです。今日は76期の会報122号を頂きました。このクラスは年3回発行していますが,今回のは16頁の薄いものです。
平成19年11月16日名古屋において全国総会が行なわれ,その会合で,70期の高井太郎先輩(復員輸送時の海150号艦長,私が航海長,終戦時海軍兵学校教官)が来賓として祝辞を,70期の森田禎介先輩(なにわ会の有志会員)が乾杯の音頭を,そして,わがクラスの杉田政一君が漢詩を朗詠していて何れも写真入りで掲載されていま。
将来問題として,このクラスもアンケートで意見の集約を図り,結果を掲載しています。アンケートは会員1580人に送り,回答率は37%で,回答者の70%に当る400人が会の継続を期待していると報じられています。そして平成25年までの会の継続を決定したと報じています。
若松祿郎君から先日お願いしたHP掲載文の校正結果をFAXで頂きました。
前に田島明朗氏から頂いた「呉水交」の記事のうち,波201潜関連の文の一部を98号の潜望鏡に取り込みました。終戦直後の8月17日江田内に5隻の潜水艦が入って海軍兵学校生徒を励ました話です。この5隻の航海長が全部72期で不思議な事にうち2名が昨年逝去し岩本修君と春日仁君,あとは既に故人の卷石藏君と山田良君,後藤俊夫君であったと報ぜられています。
上野三郎君から1月4日の湘南なにわ会の記事を頂きました。これで,98号の原稿は入金報告と会計報告を除いて全部出揃ったtことになります。これから,始めから見直して印刷し,校正担当の方に送って見て貰います。今日のブログに矢田次夫君の近況がありますが,矢田君このところ,いろんな会合に顔を見せてくれなかったので心配していました。ブログを見て湘南なにわ会のこと,幸田正仁君指導の歩こう会のことなど分ってくれて,ブログが役立っているようで嬉しくなりました。
昨日頂いた湘南なにわ会の写真,HPにも取り込みましたが,何故かうまく入りません。後ほど勉強して入れなおします。当分今ので我慢してください。
昨年の暮からクラスの会合など例えば十二月のなにわ会、旧兵学校の四十二分隊会、近くは新年一月の鎌倉における湘南なにわ会などすべての会にはじめてそろって欠席した。それは、各位ご存知だと思うが、小生神経系統の難病の後遺症もあり、脚力の弱さと平衡感覚のズレが禍を及ぼすような感じがして行動を慎んだ次第である。特に電車の駅等での乗り換えに細心の注意が必要で兎に角転ばぬように気をつけよとお医者さんから言われている。
伊藤さんの努力の賜物であるがホームページのプログを見ると鎌倉の会合で二十五名が集まったとあった。良く集まったなと嬉しくもあり羨やましくも感じた。それにもまして不幸にして主人に先立たれた未亡人の立場の奥様方が福井方面から琵琶湖方面まで旅情を楽しまれたとあり、本当に心なごむ催しで嬉しく感じました。
病気を気にしなかった若いころを思い浮かべて一にも健康、二にも健康といわれるゆえんを身をもってしみじみ味わったことであった。
既に八十代も半ば、各位ご自愛の上にもご自愛を。 心より念ずる。
京都の山本省吾君から次のメールをいただきました。本人の了解を頂いたので此処に掲載します。
「京都在住の桂・小西・山本三人の新年会の状況を簡単にお知らせします。
10日の正午より京都駅前センチュリーホテル内の嵐亭で昼食会を開きました。3人ともまずまずの元気で新年を祝いましたが、これは悪運が強かったのと(我々の生死は全くその時の運命によって決められた)最後の瞬間まで諦めなかったことだったと、異口同音に認めあいました。
1合余りの酒で海軍時代に戻って話題は尽きず、最後には残る余生も前向きに心を持ち続けようと言っている間に3時間近くが過ぎてしまいました。なおその時の勢いで、最後の想い出に3月には江田島に行こうということになり、準備を始めることにしています。」
更に,ブログの印刷配布について貴重な次の意見を頂きました。
会誌100号以降はブログを印刷して配るとのことですが大賛成です。但しお手数ですがその都度、内容を編集した上で配布されては如何ですか?
(理由)
1、日時が経てば、ニュース性や関連性が少ないものも出てくる。
2、個人的な内容のものも含まれている。(プライバシイの保護も含め)
3、一部の人には興味があっても全地区の会員にはあまり関係のないものもある。
これらを除いて印刷し(例え枚数は少なくても)送ればきっと喜ばれることと思います。
なにわ会幕引き後の情報伝達の手段について,上野三郎君から次の意見を頂きました。
「情報伝達の手段としてブログを収録し印刷2ヶ月又は3ヶ月に一度(内容の量を見て判断)配布するのはいい考えと思います。パソコンを持たぬ人のために、従来のニュース同様投稿者の記事も含める様に門戸を開いて置いたらと思います。又周知したい事項は適宜掲載するようにし連絡報的要素も持たしたらよいと思います。」
ご両人,貴重なご意見有り難うございました。
田島明朗氏(自称特4号)から次のメールを頂きました。
篠田智武(茂)氏令嬢、香里君より『母篠田伊都昨年6月17日77歳で永眠、年賀欠礼』の葉書着。男子無く、電話で問い合わせました処、許されれば父の遺族会員を継承させて頂ければ幸いと申します。宜敷お願い致します。(住所,電話記載略)
桐本香里(40歳)さんは6歳の娘あり。 なお、伊都夫人は白内障手術で入院中病院内で転び骨折、体力急に落ち逝去との事。元々心臓に持病が有りましたが残念です。呉鎮アト一人の未亡人長山雅子女史は陽気なギックリ腰です。
篠田さんは江田島の豪邸を処分され、町田に2世帯住宅を建てて移られたのですが、はかないものです。御遺体はご主人同様献体なさったとのこと、中学生以来会った事の無い娘さんが、もう40歳の由。
(注) この件,なにわ会ニュース98号で名簿訂正します。(編集部)
なにわ会ニュース98号の最終整理を始めました。1頁から順番に再チェック,頁数の入れ直し,号数のチェックをしました。その段階で小西愛明君に確かめたい事があり電話しました。その時,昨日京都の山本省吾君と桂理平君と3人で新年会をしたと言っていました。3人とも元気だったそうです。宮田實君から先日お願いしたHPの校正を返して貰いました。
号後先日の湘南なにわ会の記事を上野三郎君から頂いて,残りは窪添龍輝君が作成してくれる会計報告と入金報告で終わりにしたいと思います。もし,ご投稿頂ける方がおられましたら一言予約を申し込んで下さい。ご希望頁数だけ開けておきます。
今日は今年のゴルフ初打ちで葉山CCに行ってきました。グロス100,HD28,NET72で24人中3位でした。まだ,当分楽しめそうです。
帰ったら,相澤善三郎君と浦本生君から手紙を頂いていました。相澤君からは先日会った故高橋義郎君と会った時の記事の投稿でした。そしてメールを開いたら,同文がメール添付で送られてきていて,嬉しくなり早速とりこみました。
浦本君からは,先に送った海軍兵学校受験時の思い出の訂正文でした。これも98号に取り込みます。
小西愛明君から「なにわ会幕締めの所感」を頂いたので転載します。
年末クラス会でなにわ会幕締めの方向が決まった事を伊藤兄の年賀状で知ったので,元日と3日の午後,「海ゆかば」 「海軍兵学校江田島青春譜」 「軍歌カラオケ」 「日本かく戦えり」のビデオを見て海軍生活を偲ぶことにした。
「海ゆかば」は,昭和16年 70期・71期・72期江田島生活,70期の卒業式,軍艦旗掲揚のラッパ,翻る軍艦旗,海ゆかばの曲,昭和8年と15年の大観艦式,荒波を蹴って編隊航行する戦艦等艦隊の勇姿,砲戦訓練等何回見ても飽きる事はない。
我々が卒業した昭和18年秋から19年中頃までは呉や柱島で大和他多数の艦艇を見たのに,20年夏には戦災の跡著しい呉軍港周辺で,日向他戦艦,巡洋艦,空母等が沈座しているのを見た大尉の時までの5年間の青春時代を感無量の思いで偲んだ。(候補生から少尉任官し,イ33潜に乗組んでいた。)
また,このビデオは明治維新の頃から,日清,日露の海戦を経て強大な連合艦隊を編成し,昭和16年12月の開戦に至る経緯を簡単明瞭に纏めて編集されている。
「江田島青春譜 72・73・74期編」では我々が在校中の記録・写真等卒業前の分隊ごとの写真,戦後の母校のカラー写真等当時を懐かしく偲んだ。
「日本かく戦へり」はハワイ攻撃機の母艦発見場面等一部を除いて大半が米軍側の記録映画で編集されているので途中で見るのを止めた。
最後に,戦死した友の分まで生きるようにと心掛けてきて,何時の間にか83歳直前となって,残り少ない人生を気楽に過ごしたいと思う。
(注)小西愛明君は4修からの海軍兵学校入学で,しかも早生まれで一番若い。我々なにわ会会員の平均は大正12年7月生まれであり,今年満85歳を迎えることになります。最年長は大正10年生まれですから87歳を迎えることになります。
都竹卓郎君から大和から見たレイテ作戦(その2)の校正を頂きました。
東條重道君からクラス会についての私見を頂きました。これに関して,現在の私の考え方を書いてみたいと思います。
東條君の捉え方は私の考えと若干異なるようですね。
私は,慰霊祭や「なにわ会」全体としての会合,年末クラス会は20年で終る。なにわ会ニュースは21年3月発行の100号で終る。しかし,「なにわ会」そのものは無くなるわけではないと考えています。
そして21年以降のクラス会基金は恐らく永代神楽祭に入会する費用50万円,なにわ会ニュース100号発行の費用50万を差し引いて100万円ぐらい残るでしょう。それに,幕締め後の活動費として生存者170人として1人5000円,ご遺族の希望者150人として1人1000円納めてもらっての収入100万円を加えて200万円になろうかと予測しています。
そして21年度以降も慰霊祭は永代神楽祭によることにして,その他の情報配布の手段としてHPとブログを考えています,。これについては私が出来る間は引き続きやらせてもらいます。この経費として月1万,年12万,さらにパソコンのない8割程度の方に年1回の会員便りの発行,或いは2カ月に1回のブログの印刷配布を考えています。ブログの配布が出来ればタイムログが少なくて情報が伝わります。ただ,郵送費が1回約300人に送るとして2万4千円,年6回で14万6千円,印刷費が1回(2月分)20頁として6000頁で6万円で1年36万で計約50万円,HPの維持費12万円加えて62万になります。ブログの印刷配布でなく,会員便りの発行による事とすれば50頁のもので印刷費20万送料2万4千円で計22万4千円,HPの維持費加えて35万円ぐらいになります。いずれにしてもどちらかで情報を配布したいと思っています。
諸資料、名簿の保管、会計残務、その他残務処理ついては次のように考えています。
会計は引き続き窪添君,情報配布,HP,ブログ,名簿管理は伊藤,その他全般については上野君が元気な間は引き受ける予定です。
地方の会合,湘南なにわ会,パインなにわ会,関西なにわ会等についてはおおむね今までどおり続けられるようです。
Commented by 上野三郎 at 2008-01-08
20:43 x
全く伊藤君の意見に賛同します。
総ての活動を停止するとの誤解を生じたのは遺憾ですね。
何かとお世話かけます。特に解散に付いてご配慮感謝に耐えません。 解散後の諸情報の収集配布に付いてお困りのようで申し訳なく存じますので,1会員として所見を述べます。参考になればと 軽い気持で私見までです。
中綴じ,本閉じ、組織として、会としてと色々の表現はありましょうが、72期、53期、33期の全ての組織活動を取りやめ連絡を終結するということでしょう。ご苦労様でした。 諸資料、名簿の保管、会計残務、その他残務処理は焼き捨てるわけにはいくまいと思います。どなたかに分担していただくほかありませんが宜しくお願します。
私は10年前クラス会の最後の姿を予想して埼玉なにわ会を提唱し実行してきました。数回会合をやって埼玉クラス会を意識してもらいましたが、既に会合を開く余力もなくなりました。しかし,いまだに埼玉クラス会を皆さん意識して相互の連絡はついています。なにわ会が解散しても埼玉なにわ会は存続します。小さい組織でどなたも組織意識はもっていないと思いますが。 それも親組織”なにわ会”あってのことかもしれませんが。
組織を閉じることは大胆でなくては出来ません。 HPもプログも伊藤さんの趣味としてやっていただければ、利用者はあります。そして仲間に必要なことは流します。時に多少の賛助金も寄せられましょう。 情報の欲しい人は尋ね尋ねて戸を叩きましょう。開かれた門戸はもう無いのですから。クラス会はまだまだ10年は続きましょう。特にご夫人の集まりは20年は続きましょう。心配無用。
Commented by naniwa-navy 東條重道さん ご意見有り難うございました。参考にさせていただきます。ご意見に対して,私の考えを今日の日記にかきました。
Commented by 上野三郎
東條さんご意見有難う。
なにわ会の幕引きに関して少々誤解を招いて様で申訳ありません。伊藤君あブログで記載くれていますが、総ての繋がりを
断ってしまうものではなく、その時時の出来る範囲に活動を縮小しょうというものですから、ご理解下さい。
1月4日このブログにコメント頂いた若本千秋様(太田威夫君の娘)からメールを頂き,現在送付している太田学様(長男)のほか彼女にもニュースを送って欲しいとメールがありました。
98号から送るよう手配しました。
昨日FAXを送った矢田次夫君から次のメールを頂きました。
「お年賀ありがとう。昨日は、す晴らしFAX情報を入れて戴き有難う。切角多くの情報を十分に利用する腕前が無い所,丁度倅が来合わせたので、目が悪い俺が読み取るのは、「親父難しいだろう」と言って、たち所に印刷してくれました。だから、あなたの新年の挨拶・プログ・HPも良く理解出来ました。あなたの素晴しい努力に、真から感謝と敬意を表します。
伊藤さんは、文字通り72期を支える大黒柱と言えます。願わくは今年もお元気で頑張ってほしいと思います。」
私と矢田次夫君は1号のときの55分隊で一緒,9名中の生き残り2名の間柄です。
昨年,「なにわ会の今後について」メールでご意見を求めた事がありましたね。パソコンの受信トレーを整理していて,頂いた意見を纏めてみました。後日の参考として↓に掲載します。
「なにわ会の今後」についての意見
質問
1 平成21年末に中締め,23年末本締めとする。
2 慰霊祭は,平成20年度は従来どおり行い,20年中に永代神楽祭に加入, 21年(22年)からは永代神楽祭によることにする。 なお,永代神楽祭の日を決める必要がある。
その日にちとして
第1案 6月1日(従来6月初めに慰霊祭が行われていた。大尉昇任の日)
第2案 12月1日 (海軍兵学校《海軍機関学校》《海軍経理学校》入校の日
第3案 10月25日 (一番多数の級友が戦死した日》
第4案 靖国神社で永代神楽祭参加者の少ない日を調べてその日
3 弔慰金,供花については,21年末で廃止する。
4 年会費は本締めまで,現行どおり納入してもらい,本締め後「平成24年」からは徴収しない。 これ等の案についてお尋ねした。
回答
旭 輝雄
1 原案通りで宜しく御願いします。
2 第1案に賛成、理由丁度季節的に言っても良い。
3 原案に賛成。
4 「なにわ会ニュ−ス」その他本締め後の経費に付いては、応分の会費の徴収が良い。
奥山 壽一
1 永代神楽際:第2案(12月1日)
2 21年の慰霊祭:従来どうり
3 その他は伊藤さんに一任いたします
桂 理平
1 永代神楽祭の日は10月25日が宜しいと思う。
2 21年の慰霊祭の形式は永代神楽祭の様式によるのが妥当と思う。
3 年会費については必要経費の支出に支障のないように、決定されては如何ですか。
窪添 龍輝
1 神楽祭は10月25日
2 21年は神楽祭をまずやってみては?
3 会費は、払い切りで1万円程度としては?
小林 勝
1は 賛成
2は 第1案に賛成(12月等は高齢者には気候的に不向き)
3は 賛成
4は 賛成
左近允尚敏
永代神楽は有志が参加するものとすれば、気候からして6月が適当かと思う。あとは担当の諸君にお任せします。
杉田 政一
永代神楽祭の日にちは第3案の10月25日に賛成します。 21年度の慰霊祭の形式、中締め後の年会費については、幹事会の方々に一任したいと思います。
鈴木 彊
すべて お任せいたします
都竹 卓郎
1 平成21年中締め、23年本締め賛成。
2 21年末中締めなら、21年6月の慰霊祭までは行うべきではないか。永代神楽際の立て込まない日を、一応調べてみては如何
? 遺族の心情では、12月1日の声が多いのではないか。また、6月1日は長年慣習と なって定着している時節という点で、適当かも知れない。
3 弔慰金、供花の21年末廃止は賛成。
4 中締め後本締めまでの会費については、会計見通しを検討の上決定。会誌に替わる
連絡報を全員に配るのなら、払ってもらってよい。現在の会費は、あれ程の会誌をわたしているにしては、低廉であると思う。
東條 重道
1 神楽祭は卒業日9月15日がよくないか。12月1日はと思いますが寒さが如何かと
2 供花だけは出来る限り努めて欲しい。香典は22年で終る。供花は72期の誇りとして年度に拘らず続ける。
3 会費は22年度で終わり、以後は状況を見て有志に適宜御願いしては如何?賛同される方もキットあると思いますが如何。誰が面倒をみるかが問題でしょうが100歳万歳の方がきっとあらわれますことを信じていきましょう。
平野 律朗
皆さんのご意見に賛成、ということでは余りにも素っ気ないと言われそうなので永代楽期日について一言.幾つかの案が例示されていますが、もう一つ次のような案を考えたのですが。
花の都の靖国神社、花のこずえに咲いて会おう、と唄って散華していった英霊の事を偲んで且つ春先で気候も良くなるしという時期はいかがかと。春の例大祭との関係で難しいかもしれませんが。、
山本 省吾
原案通り、幹事にお任せします。
和田 恭三
1 永代神楽祭の日にちは第1案6月1日が良い。
2 会費の件 23年まで徴収し予備費とする。
昨日の湘南なにわ会の写真をHPにとりこみました。見て下さい。
HPに沢山なにわ会ニュースの投稿記事を取り込んでいますが,打ち込みミスや判読ミスが相当あるようです。昨日湘南なにわ会に参加した方でパソコンを嗜んでいない方の投稿文を印刷して校正をお願いしました。当日急遽欠席された方には郵送しました。そのうち,新庄浩君,豊廣稔君から校正結果を頂きました。
今夕,矢田次夫君から電話がありました。元気にしているが,このところ色んな会合には転ぶと怖いので,欠席が続いていると言っていました。声はとても元気でしたが,耳が悪くて殆どこちらの話すことを理解できません。そこで返事を纏めてFAXとメールで送りました。
泉五郎君から私と上野三郎君あて次のメールを頂きました。参考になると思うので転載します。
「明けましておめでとうがざいます。昨日鎌倉での新年会も盛況のようでよかったですね。当方昨年一杯は、28年続けた通信碁の会、爛柯同人社の解散にむけ最後の作業に追われました。正月早々からは宿痾の腰痛か或は別の症状か?いずれにせよ挙措動作思うにまかせず閉口たれています。今後沈香などは到底焚けないにしても,屁はひらずにいきたいものです。ことしもお二人のご活躍に期待しています。
」
本日25名の参加を得て二楽荘にて恒例の新年クラス会が行われた。
年をとると皆集まりが早く一番乗りの蔵元君は開始予定時間より1時間早い11時には椅子に座っており、幹事の私より早かった状況だ、受付開始の11時30分には半数が集合し
た。
12時から14時45分までよく歌い、よく食べ、よく飲み楽しい時間を過ごした。
二楽荘を辞し、鎌倉駅までの途中8名が喫茶店に投合、コーヒー一杯で声高に(お互いに耳が遠いので)歓談、周りの人たちがひっそり聞いていたのか、その人たちが席を立つときに「皆様の話の内容はとても参考になったー私は82歳のひとの在宅看護に当たっているからー」(初老の女性)とか「皆様のグループの団結の強いのには感銘を受けた、羨ましい」(50台の男性)等と、最後に我々が席を立つときに若い女性のグループから「体に気を付けて頑張って!」と黄色い声で励まされた。気持ちのいい1時間だった。
世間では「老兵の姿」をそれとなしに関心を持って見ているようだ「背筋をまっすぐにして上を仰いで歩き続けようー100歳を目指してー」
Commented by 伊藤 正敬 at 2008-01-04 22:32 x
上野三郎さん。早速の書き込み有り難うございました。出来れば簡単にブログに書き込めるでしょう。他の方も是非どんどん書き込んで下さい。皆でこのブログを育てて下さい。
若し書き込み方が分らなければ,パソコンを立ち上げてお電話下さい。一緒に勉強しましょう。
今日は恒例の湘南なにわ会が鎌倉二楽荘で行なわれました。参加者25名(写真の24名のほか松下太郎),皆さん元気に集りました。1200からの開催でしたが,皆待ちかねたのか早めに来ている会員が多くて,私が到着した15分前には20名が来ていました。
↓は開会を待つ会員です。
(写真 略)
開会に先立って,記念写真を2組に分かれて撮影しました。この写真は伊藤が写したものです。ニュースには新庄浩君が写したのを頂いて掲載します。
(写真 略)
後列 浦本 生,深尾秀文,岩松重裕,安藤昌彦,窪添 龍輝
前列 平野律朗,若松祿郎,渋谷信也,原田種睦,伊藤正敬,足立喜次,樋口 直,宮田 實
(写真 略)
後列 幸田正仁,椎原國康,左近允尚敏,山田良彦
前列 藏元正浩,市瀬文人,上野三郎,相澤善三郎,野崎貞雄,新庄 浩,中井 末一
まず幹事上野三郎君の開会の挨拶で始まり間した。
ついで,20年度なにわ会年度代表幹事になった左近允尚敏君の挨拶があり,彼の音頭で乾杯がありました。
何時もお世話になる二楽荘の女将の挨拶がありました。
終って懇談,演説あり,歌ありで楽しい会合でいた。
詳細はニュースで報告します。
Commented by 上野三郎
早速のブログ有難う、スナップは特に興味あり。
今年も体調維持に留意し又1月4日二楽荘で会いましょう
明日の湘南なにわ会次の4名が欠席,29名から25名になりました。
豊廣 稔・後藤 俊夫・後藤 寛・溝井 清
幹事さん大変ですね。ご苦労様です。
上野三郎君からのメールです
湘南なにわ会 安藤昌彦君欠席から出席に変更となりました。都合出席者29名となります。」
新年の挨拶 上野三郎
明けましておめでとう、昨年は色々お世話になりました、厚く御礼申し上げます。
平成19年度なにわ会代表幹事の役目もお陰様なんとかで左近允君に申し送る事できてホットしています。
平成20年でなにわ会も幕引きとなるかと思えば、何か淋しい感じもしますね。
個人的には昨年は好酸化球菌増加症という得体のわからぬ病原菌に冒され2〜3ヶ月ゴルフをストップしておりましたが、11月には20名位のコンペで112の好スコア(私にとっては)で優勝し今年の年賀状にはお祝いの一言書きが加えられたハップニングも起こりました。(今年はそのコンペの幹事役です)
ゴルフのスコアは健康状態を示すバロメーターと思っています。今年のターゲットは120を越えぬ事です、初打ちは1月10日です、万全を期す積もりです。今年の総ての行動を健康維持に向け頑張ろうと思っています。今年も宜しく。
Commented by MI at 2008-01-02
05:39 x
上野三郎さん 書き込み有り難うございました。昨年1年間代表年度幹事ご苦労様でした。そして,ゴルフ優勝おめでとうございます。なにわ会の幕締め,残念な気もしますが,超高齢の年代となったので止むを得ないでしょう。これからは,ブログとHPで情報の交換につとめましょう。これからもよろしくお願いします。
Commented by 上野三郎 伊藤さん有難う、頑張ります
明けましておめでとうございます。
良き新年をお迎えのことと存じます
年金生活も早や19年が経過,なにわ会も昨年の年末クラス会で幕締めの方向が決まりました。しかし,約束どおりニュースは100号(21年3月発行)まではなんとか頑張って続けたいと思っています。その後も,HPとブログで情報の発信源としてお役に立てればと思っています。
パソコンは無いけれども携帯電話でメールできる方,是非私のパソコンにメールを1通下さい。それでいろんな情報を配布いたします。
昨年は鼠径ヘルニアの手術をしましたが,その後もゴルフは続けています。そして毎日ジムにも行き,健康保持に努めています。
本年も宜しくお願いします。