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平成19年8月のブログ

日記8月31日

なにわ会ニュース97号は9月5日頃発送可能の見込み。今回も宅急便で送るので,10日頃には着くと思う。

名簿によると,椋田郁哉君の母上サツコさんが生存となっているが,電話不通,葉書を送ったが,あて先不明で返送されてきた。連絡がつかないので,母上様はお亡くなりになったものと思う。今年7月19日に逝去された小原道子様が一番長生きされたと思う。

74期会報『江鷹』を頂きました。74期も会の今後について討議されている。
終結時期については早い時期の2年後,平成21年がいいとされている。
そしてその後の事はHPと談話室(パソコンの掲示板)に頼る事になろうとの意見である。

74期が3号のときの35分隊会が6月5日から7日にかけて奈良で行われた。
この会には72期から池田武邦夫妻,小灘裕子さん(小灘の長女),中田冨久子さん(中田の妹),宮原幸子さん(宮原の妻)の5名が参加している。今回が39回目の分隊会だそうである。

74期の会報は毎月8頁のものを発行されている。


日記8月30日

左近允尚敏君のネルソンの遺髪に関連して溝井清君から次の情報を頂きました。

『私の漠然たる記憶ではネルソンの遺髪は参考館の正面階段を昇りきった処の右(左?)側の部屋にあつたと思います。実は私の伯父が寄贈した勝海舟の咸臨丸の船上で着用していたマントが戦後行方不明となり誰が持ち帰ったのか参考館に直接尋ね調査を依頼したが未だに不明の侭です。ネルソン遺髪のことも終戦当時(混 乱の最中)の事情を知っている人に会って話を聴くのがベストと思いますし、私の懸案の勝海舟のマントのことにも何かのヒントが得られればとも考えております。』

このように,HP,ブログ,メールが機能してくれると,担当者として張り合いがあり,やる気が出てきます。これからも大いに活用してください。

新名簿の作成について
前に提案した新名簿の作成について会員の意見を求めたところ,発行に賛成というものが3名,今更作る必要なしというものが5名,最小限の名簿を作って欲しいというものが1名という状況でした。そして意見のこない人も多く,恐らく,関心が薄いのではないかと思われました。これらを勘案して,今回の名簿作成の提案を撤回します。
ただ,私の手元には最新のものを整備しておきます。


日記8月29日

昨日の左近允尚敏君の質問に関連して,都竹卓郎君から次のメールを頂いた。
『ネルソンの遺髪は、教育参考館の正面入口から1階フロアに入り、2階の東郷元帥遺髪室正面に連なる大理石の階段を上がらず、斜め左にちょっといったところに在ったと思う。コンコース風のやや広いスペースで仕切り壁はなく、相当太い支柱をバックに、見様によってはいささか無造作に、カプセルに収めて展示されていた。
 真継不二夫氏の写真集「海軍兵学校」に、その写真が載っています。』

同じく田島明朗特4号生徒から次のメールを頂いた。
『ネルソンの遺髪展示場所について、74期の景山氏に電話で聞きましたら「ネルソン」の遺髪は東郷遺髪室の扉の横(少し窪んで居る)反対側に名前は忘れたが米提督の遺髪が左右に卒業まで有った』そうです。してみると2階です。


日記8月28日

昨日頂いた長波の件,原田種睦君に連絡して本人の了解を頂き,連絡方法をお知らせしました。HPは本当にいろんな方が御覧になっていて,会員同士の連絡以外に役立っているようです。

左近允尚敏君からネルソンの遺髪に関連したメールを頂いたので,メールで会員に転送しました。


日記8月27日

昨日頂いた泉五郎君の名簿発行に関するご意見をつけて,私の見解を纏めなおして,メールでご意見をお願いした。早速,高田俊彦君,山本省吾君,市瀬文人君からご意見を頂いた。余り発行に賛成でない意見が多く,発行するにしても簡単なもので良いという意見がありました。ほかの方も是非ご意見をお願いします。

昭和19年11月11日にレイテのオルモック湾で沈没した駆逐艦長波の乗員だった方で構成されている戦友会の方からメールを頂き,同艦に乗艦していた原田種睦君のことを尋ねてこられました。明日本人に連絡してから回答します。


日記8月26日

海軍兵学校76期会の会報『生徒館』121号をいただきました。これによると,76期会は平成26年まで会の運営を続ける事にしたようです。総員数は3578名,物故者1250名,生存者2425名,内会員1589名となっています。今年は総会・懇親会を11月16日名古屋で開催予定です。

名簿発行について,泉五郎君から,『名簿を今更発行するのは・・・・』と反対意見をいただきました。


日記8月24日

22日にブログで紹介した時松三助君の姪のご主人 内田様からメールを頂きました。その中に次の言葉があったので紹介します。
『義父のお話では、時松三助さんは旧制中学では、体操の選手で,文武両道、家の誉だったようです。帰省最後の日に残された行李の中に、弟達全員に宛てた手紙が入っており、三助さんは長男だったので、弟達に今後は兄がいなくても、家を支えてしっかり生きていくようにと、弟達のそれぞれの性格に応じた指示をして、軍に戻ったようです。』

現在名簿上 生存されている戦没者の母上様は椋田郁哉君の母上様サツコ様のみとなっています。サツコ様は弟の滋様と同居になっており,平成10年の名簿では妹さん岡崎ちぐささんの住所,電話も掲載されています。しかし,ともに電話が通じません。滋さんあて葉書で問い合わせをしていますが,もし消息ご存知の方がおられましたらお知らせ下さい。


日記8月22日

なにわ会ニュース97号の校正が印刷屋からきました。予定通り9月15日までには発送できると思います。

新名簿発行について,会員の意見を聞いていますが,ご意見が余りこないので,少し残念です。でも乗りかかった仕事,印刷配布は別として,私の手元に最新の名簿を備えて置く為,打ち込みは続けていきます。

左近允尚敏君,上野三郎君,東條重道君からご意見を頂きましたが,他の会員の方,ご意見宜しくお願いします。

時松三助君の姪のご主人(内田幸雄様)から『海軍予備学生 零戦空戦記(土方敏夫氏) 光人社発行』を送って頂きました。この中に時松三助君が戦死した状況が次のように書かれています。内田様は前になにわ会のHPを見てメールを頂いた方です。

『私と時松三助中尉は、元山空から一緒であったが、他の分隊の分隊士をやっていたので、元山空のときには、あまり親しくはなかった。例の七十二期のK中尉などと同期である。しかし、兵学校ではなく機関学校出身だということは聞いていた。K中尉などは、同期なのに「あいつは機関学校出身だ」と自分たちと一線を画していた。まじめ一方というタイプの人で、私たちは好感を持っていた。
4月20日、この日、私は時松中尉の三番機で発進した。時刻は午後だったと思う。高度五千メートルぐらいで哨戒していると、B29の編隊が鹿屋に向かって南下してくるのに出会った。
時松中尉の単縦陣作れで,時松中尉を先頭に私達は縦長の一列縦隊をつくった。
B29は17機ほどの集団である。うまい具合に反航姿勢をつくることができた。
B29が前下方に見えている。一番機の時松中尉がひらりと反転して、型どおりの直上方攻撃に入った。目を凝らして私は彼の機を見つめていた。なかなかうまいなと思った、その時である。いきなり彼の機が錐もみのような状態で、真下に落ちて行く。
つぎは私の順番である。反転し真っ逆さまにB29の一番機に向かって突っ込んでいく。銀色の機体があまりに緒麓で、撃つのに躊躇するほどである。
その時、私に向かってアイスキャンデーのような曳痕弾が集中して向かってきた。思わず機銃の発射レバーを握りしめて、一番機に向かって発射する。うまく当たったと思うのであるが、敵はエンジンから白い煙を曳きながら、そのまま編隊を崩さずに進行していく。実にしぶといものである。
20ミリと13ミリを発射しながら、B29の編隊をすり抜け、前方を見ると、時松中尉の機が、くるくる回りながら、地上めがけて突進していく姿が目に入った。
そのまま時松中尉の機を追うように、あとに続いた。緑の畑の中に彼の機は墜落して大きな火を噴いた。途中煙も吐いていなかったので、どうやら尾翼をやられたのではないかと思った。航空図に、墜落した地点を記入し、B29を追いかけようとしたが、間に合わず,高度をとってほかのB29編隊を求めたが、この日は会敵することができず、あとから続く部下たちを連れて、基地に帰った。
このときB29編隊の集中砲火のもの凄さを、目の当たりに見たような感じがした。なにしろ、アィスキャンデーのような曳痕弾の束が、私に向かって集中してくるように見える。思わず風防前面の防弾ガラスに、身を縮めて隠れたくなった。戦いというものは、紙一重のだと思った。
時松中尉は寡黙で、あまり目立たない存在であったが、惜しい人の戦死を目の前で見ることになった。』

なおこの本に同封されていた文は次のとおりである。
『今年のお盆は、福岡県の護国神社に時松三助さんの名前で献灯をし,親類一同に見てもらいました。その模様の写真も同封いたします。(↑の写真です)
我が妻は故人の姪に当たります。時松三助さんの遺影を、私の一族の英霊の遺影と共に、私の経営する会社の神棚に、護国神社のお札と共に合祀し、毎朝家内と共に社員の安全と幸福をお願いしております。』

質問
8月20日次のメールをオークランド大学大学院博士課程の長岡拓也様から頂きました。そして今日写真を多数頂きました。もし,この残骸からこの飛行機を特定できる方がおられたらお知らせ下さい。
『突然お便りを差し上げる無礼をお許しください。私はニュージーランドのオークランド大学人類学部博士課程で考古学を勉強する長岡拓也と申すものです。私は1991年より1994年まで青年海外協力隊の考古学隊員としてミクロネシア連邦ポーンペイ州(旧名ポナペ)の歴史保護文化課に配属され、州立の小さな博物館の開館と運営に携わりました。今年初めから同課の依頼でポーンペイのランガル島(旧名ランガールまたはランガー)で考古学調査を5ヶ月間行いました。考古学調査といっても大部分は日本軍の地上構造物の記録でした。ご存知かもしれませんが、ランガル島には日本海軍により昭和13年より17年まで水上飛行場が建設されたほか、15センチ水平砲2門(現存1門)、8センチ広角砲二門(現存せず)など多くの軍事施設が建築されました。
この度お便りを差し上げたのは、水上飛行場の格納庫の中に壊れた飛行機の残骸があるのですが、その機種の特定をできる方を探しているからです。ご連絡いただければ、その飛行機の写真をお送りします。
また戦時中、ポナペにおられた方でランガル島について覚えて折られる方がおられましたら、ご連絡いただけないでしょうか?いろいろお伺いしたいことがあります。
 ご多忙中大変恐縮に存じますが、よろしくお願いいたします。』
なお,頂いた本日のメール(写真入り)は一括メールで添付しておくります。                                      


日記8月21日
上野三郎君からブログ書きこんでいるのかと問い合わせがありました。いろいろ話しているうちに,彼は古いブログを見ていたようです。今は,このブログを使用していますので,これをお気に入りに入れて下さい。

日記8月20日
なにわ会の最終名簿発行について,今さら作成する意味があるのか,15年発行の名簿と先般発行した生存者名簿で充分ではないかという意見を泉五郎君から頂いた。
名簿作成については,もっと多数の会員のご意見を頂いて決定したい。

大谷友之君から,名簿発行については最終版であるので会員(戦没者,戦後物故者のご遺族で会報を送っていないものを含める)に確認したほうが良いとリコメンドを頂いた。

溝井清君から名簿発行賛成の意見と彼のメールアドレスについて連絡があった。

日記8月19日

このブログの説明が誤っていると経理高田俊彦君から指摘されました。
海軍機関学校33期と誤って書いていました。海軍経理学校33期に直しました。

平成15年12月泉五郎君が編集して発行された名簿も,早4年を経過しようとしています。なにわ会の最後の名簿として,来年末を目途に発行したいと思い,これからボツボツ打ち込みます。フォーマットはB5版縦とし,1頁10名にしたいと思います。
近く,最初の1頁をメールで送ってご意見を頂き取り掛かろうと思いますので宜しくお願いします。

先輩の逝去
我々が艦勤実習中,八雲でご指導頂いた海軍経理学校31期の水野真一さんが8月17日逝去され,本日(19日)告別式があると大谷友之君から連絡がありました。

日記8月18日
岩本修君の葬儀無事終りました。

昨日の御通夜にはクラスが9名参加したと左近允尚敏君からメールいただきました。
昨晩帰りに東海道船,横須賀線の電車故障で神奈川組は苦労されたようです。

今日の告別式には5名が参加してくれ,山田穰君が弔辞をおくったそうです。

日記8月17日
今日は病院に行って先日の手術した跡の抜糸をしてきました。痛みはありません,少し腫れているそうで,来週水曜にもう一度診察を受けることになりました。そして,2ヵ月ほどは過激な動きをしないよう言われましたので,ゴルフも9月一杯遠慮いたします。

昨日岩本修君が逝去され,連絡網で流しました。
その後,何名かの方から,自分の次の連絡先について問い合わせがありました。連絡網は,なにわ会ニュース96号72頁にありますので再確認して下さい。
なお,途中死亡或は病気の為,連絡網の中間の会員に連絡できない時は,ジャンプしてその次の方に流して下さい。

岩本 修君 逝去
岩本修君 平成19年8月16日(木)1000逝去されました。

喪主は(妻)正枝様です。御通夜は平成19年8月17日(金)1800〜  
告別式は平成19年8月18日(土)0900〜1000です。
斎場は『さがみ典礼 所沢葬祭センター』で
電話 042−993−4411  
住所 所沢市北原町1348―1
交通は
西部新宿線 航空公園駅より車で5分
航空公園駅東口から西部バス
新所沢行き・並木通り団地行き
北原中央バス停下車 徒歩1分
又は西部新宿線・池袋線所沢駅より車で10分

謹んでお悔やみ申しあげます。

井上春海君(経) 逝去
主計科 高田俊彦君から次の連絡を頂きました。
『井上春海君(名簿 P 46)の死去について、ご長男の隆一郎氏より、下記の通知を受けたので、ご連絡します。
「父、井上春海はかねてより入院加療中のところ、8月8日死去致しました。
なお、家族にて密葬を相済ませましたのでご了承下さい。長年のご交誼有難うございました。」

この訃報については,後日の連絡ですので,72期の連絡網では流しません。
HPには掲載します。

追記
体調不良により,今年度の機関科年度幹事は藏元正浩君から村山 隆君に,主計科年度幹事は亀谷敏明君から高田俊彦君に変更になっています。

日記8月15日
今日は62年目の終戦記念日である。
HPの終戦時の思い出を読み直し,戦没者のご冥福を祈った。
ところで,最近鼠径ヘルナアの手術をされた期友の話をよく聞く。
私も2ヵ月ほど前から右下腹部の腫れを認めて,気になっていたが,思い切って8月8日に入院,9日に手術して,12日に退院してきた。17日抜糸の予定であるが,お蔭さまで,術後の痛みも殆んど無く,順調に回復している。
最近高齢者で,この病で悩んでいる方が多いと聞いたので,参考になればと思い,手術の体験談を纏めてみた。ご関心のある方,ご連絡いただけば,経過概要をお送りする。

日記8月12日
8日から留守していましたが,12日午前帰宅しました。僅か5日間の不在でしたがメールが沢山きていて整理が大変です。でも大部分が関係ないメールです。
元気ですのでご心配なく。


日記8月7日
さきにブログで流した「マニラ市街戦」5日のNHKハイビジョンの放送を左近允尚敏君が見たと次のメールをいただきました。(要旨のみ。(  )内の説明は伊藤)
『16日夜BS1で再放送するようです。熊野の乗員3人(高橋、山口、村田)が出ています。番組の中で高橋氏が「将校は帰国、下士官兵だけ残された」と語っているが間違い、熊川君(熊野から陸戦隊に行き20年6月10日戦死),や71期の吉田邦雄さん(20年7月30日戦死)が、ルソンで戦って戦死しています。 』
御覧にならなかった方,16日の再放送を見てください。

明日から12日まで不在します。急用の方は年度幹事上野三郎君に連絡してください。


日記8月6日

今度新しく作ったexcite.ブログについていろいろ研究しています。
最初に上野君が昨日書き込んでくれた投稿,いろいろ研究中に誤って削除してしまいました。御免なさい。済みませんが再度書き込みお願いします。
次に精島さん 携帯でメール見て頂き,携帯からの返事有り難うございました。
深井さん 早速の書き込み,本当に嬉しかったです。
このブログをモット充実させたいので,会員の方は無論のこと,会員以外の他のクラスの方もドンドン書き込んで頂きたいと思います。宜しくお願いします。
先にHPに掲載した故佐藤英一郎君の漫画数点を掲載して見ます。


Ever

伊藤さん、いつも探求心を持って新しい事にチャレンジする姿勢に頭が下がります。雀百までと言いますが海兵教育の賜物ではないでしょうか。深井良の弟である私の父は、徹底したアナログ人間で未だにダイアル式の黒電話を使用していますよ。NTTから表彰されるのではないでしょうか。新しいブログは以前よりすっきりした感じですね。私のサイトはプロバイダーの無料のもので、画像数、サイズや文字数に限りがあり更新して情報を入れ替えていくようになります。猛暑が続きますが、良く水分補給されてのんびり活動されて下さい。


深井紳一

)8月4日の日記転載
71期以降のHPを久し振りで見ました。そして,最近なくなった71期の方,今年度なくなった72期の方について,昭和15年12月の分隊別生存者一覧に没年月日を記入,分隊別員数も訂正しました。


新しいブログ

従来のブログでは写真がうまく掲載できませんのでエキサイトブログで作成してみました。これだと写真が大きく掲載できるようです。
http://naniwana.exblog.jp/をお気に入りに入れてください。
IDは naniwa-navy で パスワードは今までと同じです。
ためしに写真を何枚か入れてみます。

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