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平成22年5月15日 校正すみ

 吉江幹之助君への弔辞

  五郎 

 多難多災の年も明けた去る正月2日、突如として訃報のファックスが届いた。東條君からである。

 一瞬目を疑ったが紛れもなく君の訃報である。これは一体何たることか! 俄かに信じ難かつたが事実は事実であつた。

 そういえばここ数日いつも来ている通信碁の返事が来ていない。然し年末年始のことでもあるし、多分忙しいのではなかろうかと多寡を括っていたが、思いもかけぬ知らせであつた。

 電話連絡網の責任者として早速全国のクラスメート宛のファックスを発信したが誠にやり切れない気分である。

 (せん)方もないが何故死んじゃつたのだと、甚だ残念である。元気な時には何とも思わなかったが、死なれてみると永年の友を失った悲しみがこみあげてくる。

 思えば、二号で同分隊になって以来の永い、永い付き合いだったが、振り返ってみると兵学校では二号時代が一番楽しかつた。

 因みに分隊監事は君の母校諏訪中学の先輩、里見少佐であつた。同期に諏訪中出身者はいない。偶然ながら君には大変心強い絆であったろう。

 そしてその時の仲間11名も到頭残るは志満 巌と私の二人になってしまった。志満は殆どクラス会にも顔を出さないので、実質は一人になってしまったようなものである。それだけに君を(うしな)った無念さは一入である。

  卒業後の奇遇は昭和20年5月始め、戦局は既に暗澹、敗色は覆うべくもなかったが、私が伊369潜でメレヨン輸送作戦の途中、トラックに寄港した時のことである。 小さな潜水艦といえども、久しぶりの友軍の寄港に4艦隊司令部からは大歓迎を受けた。

 そして在島4名のクラスメート、君の他には、浅村、太田、松元の諸君も来艦、狭い潜水艦の士官室で、暫しミニクラス会を開いた思い出も懐かしい。

 君のその時の配置はトラック諸島春島の砲台長、数少ない陸上対空砲火の主役として活躍、連日ウルシーからの日課手入れに耐えなければならない日々を過していた。

 当時はお互い、生きて今日を迎えられるとは到底思えなかっただけにその時の再会は今も記憶に生々しい。

 そして戦後、君は新潟医大に進み医者への道を選んだ。医師として朝日生命に永年勤務、その間の消息については私には詳らかではない。戦後お互い環境の変化は激しく、文通以外はクラス会で時々会う程度であつたが、再び親密な交わりを結ぶようになったのは囲碁の取り持つ縁である。お互い、ヘボ碁では人後に落ちないが、下手の横好きとはこのことであろう。  

 特に私が始めた通信碁のクラブ、今年で25年目になるが、当初からの熱心なメンバーであつた。お互い勝つたり、負けたり、或は一寸だけ私の方が、歩が良かったかも知れないが、我が通信碁は勝敗が目的ではない。碁は手談とも(たと)えられるくらいで、一手一手に個性が現れる。

 友情とは不思議なもので、お互い切磋琢磨してこそ親密の度が深まるものである。

 然し、仮に君がトラックで戦死していたとしても、私の君への友情にかわりはない。何となれば二号時代の君は私にとつてロマンチックなオアシスのような存在だった。

 なんとか歌えるのは軍歌だけ。自慢じゃないが音痴では人様にひけをとらぬ私に、諸々の抒情歌を教えてくれたのが君である。

 手取り足取りといえば妙であるが、生来の音痴は度し難い私に根気良く歌を教えてくれた。中でも島崎藤村の椰子の実と、後藤紫雲作詩ベニスの舟歌の二曲は特に印象深い。

 椰子の実についていえば 時は昭和17年夏の頃、この歌を教わったところは伊予の国三津ケ浜、二号時代最も楽しかった幕営訓練の思い出と、そしてベニスの舟歌については先年訪れた現地イタリア水の都の思い出がオーバーラップする。

 君は本当に心優しい人であつた。私にとつて君への葬送の曲に軍歌は相応しくない。不謹慎を顧みず、敢えてベニスの舟歌を挽歌替歌として捧げたい。

 勿論生来の音痴、人前で歌など滅多に歌ったことのない私である。

 況や老耄の今日到底メロディーにはならない。

 しかもこの曲は歌詞が七五調ではなく乱調なので歌うのは非常に難しい。

 君からは「何だ、その歌は!」と叱られそうだが如何としても惜別の情もだしがたく、本当に恥を忍んで歌ってみよう。

 

 春は舞い散る 桜花 

 夏瀬戸内の 潮の香に

 肩組み合いてぞ 歌いし彼の曲を

 君との別れに 捧げばや

 

 秋は肌寒 娑婆の風

 冬老残の 病苦とも

 励まし合いてぞ 八十路の坂を行く

 誓も悲しや 君逝ける

 

吉江君、暫しの別れぞ!何れまた冥土とやらで相見えん。

  平成17年1月7日

   海軍兵学校72期  五郎

(なにわ会ニュース92号19頁 平成17年3月掲載)

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