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平成22年5月15日 校正すみ

吉田 義彦君逝く

大坪 久幸

平成2年11月14日、吉田義彦君が亡くなった。

吉田君はアポロ電子工業に在職中同年2月20日脳こうそくでたおれ、久留米市内聖マリア病院に入院、僅かに感覚はあるらしいものの識別力は無く、御家族の手厚い看護も空しく終に回復しなかった。

行年68才。戒名「徹心義諦居士」。

葬儀は市内「千栄寺」でとり行われ,クラスから小野、花田、伊集院と私が参列した。

前日の通夜には三好も参加。

 

  

謹んで故吉田義彦君の御霊前にお別れを申し上げます。

顧みれば今尚髣髴(ほうふつ)として浮ぶのは半世紀前君と共に学んだ海軍兵学校時代の姿であります。風雲急を告る昭和15年12月1日君は長崎市壇浦中学から、海軍兵科士官を志して全国から集まった650有余名と共に江田島海軍兵学校72期生として入校し、第一生徒館正面の第13分隊で、君と私は机もベッドも隣り合わせでした。

朝「総員起こし」のラッパと共に跳ね起き、夜の就寝ラッパまで一号生徒の怒号と鉄拳が待つ。一般学科や術科のはかに粉雪舞う厳冬の江田内にカッターを漕ぎ、柔剣道、弥山登山、水泳、相撲、棒倒し等の峻烈な訓練。その中にも土曜日夕刻カッターに帆を揚げて「宮島ヨーソロ」と繰り出す巡航や、冬の兎狩り等楽しい想い出も尽きません。

君は寡黙沈着にして聡明。我々が分刻みの日課に追われている時に、屡々君は四階の閲覧室で新聞に目を通してニュースを伝えました。太平洋戦争突入の朝、ハワイ真珠湾攻撃の戦果と共に特殊潜航艇で散った先輩達の発表があった時、思わず見上げた古鷹山頂に陽光が薄っすらとさしていました。

昭和18年9月卒業と共に我々は海と空に分れ巣立って行き、君は先づ戦艦山城に乗り、次は日向に、更に満潮に、最後は特攻第16震洋隊幹部として八丈島で終戦。その間多くの同期生が散華しました。戦の悲惨さ、人命の尊さを想えば痛恨の極みです。

戦後私の住む町に君が銀行支店長として赴任し、奇しくも再会できたあの日の喜び、その後君はアポロ電子工業に迎えられ会社役員として活躍し、私は仕事の上でも大層御世話になりました。然るに君は齢68才にして突如として病に倒れ、開病の甲斐なく終に幽明界を異にする、御遺族の御悲しみは如何ばかりか。今にして思えば昨年9月同期の土岐宗男君が立寄った際に3人で雑談したのが最後となりました。死生命ありとは申し乍ら有能な君を失うことは余りにも口惜しい。

青春の一時期、身命を国に捧げんと互いに戦場を駆けた友として、茲に満腔の思いを込めて哀悼の辞を捧げます。

願わくは在天の霊よ、安らかに瞑せられよ。

平成2年11月16日

海軍兵学校第72期 なにわ会 代表  

(なにわ会ニュース64号18頁 平成3年3月掲載)

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