平成22年5月15日 校正すみ
吉田 修君を偲ぶ
市瀬 文人
去る5月20日、吉田 修君が急逝した。その3日前に恒川愛二郎君の訃報に接したばかりだったのでショックは殊更大きかった。
吉田君と小生は兵学校一号時代を同分隊で寝食を共にしたが、卒業後も共通の希望を持って飛行学生として鹿島空で一緒に三座水偵の操縦訓練をやった仲だった。前後席に同乗して互いに命を預け預かり合ったこともあり、何となく気も合って一層親しみを増した。
飛行学生卒業と同時に彼は四国の詫間空へ、小生は大津空へと赴任した。戦局の行方は2人の再会等望むべくもなく、互いに消息不明であった。その後、彼は304空の配属となり、主に博多空を基地として対潜哨戒や索敵の戦務を遂行していたものと思われる。
終戦までに同期生の過半数が若くして国に殉じていた。彼の生存を確認してほっとしたのが何時頃だったか今記鰭にないが、とにかく二人は生き残った。
戦後の混乱期、彼は復員船勤務、クラス大熊君との共同事業、九大学生々活を経て結婚し造船会社に就職した。初め長崎、後に関東勤務となってから漸く彼との付き合いが蘇った。
酒の入手困難な頃、髪の毛からアルコールを造ったことがある、と聞いた時は驚いた。彼は九大農芸化学専攻だった。
造船会社を停年退職してからは新しい事を勉強して資格をとり、二社に就職したが、何れも安定した職場ではなかったようである。
ある時期、ご家族に深刻な健康問題が発生して彼の心労が相当永く続いた。何の手伝いも出来ず心配だったが、幸いにして困難は乗り越えられ、やがて長男・長女ご夫妻に夫々2人の男子が誕生し、彼の好々爺ぶりが推察出来るようになった。「男の子4人揃うと本当に凄いよ、賑やかなんてもんじゃないよ。」と語る笑顔を見ながらの酒は楽しかった。
しばらくぶりに小生の勤務先を尋ねてくれた一昨年9月、酌をしながら思いもよらぬことを語った。病気を内緒にしていたら家族にばれて叱られたこと。最近1ケ月入院したこと。勧められた手術を断ったこと等。病名は肺がんだった。淡々として語る彼は、叱られた状況を説明しながらいたずらっぽい表情さえ見せた。励ましの適当な言葉も見出せずもどかしく酒を呷る小生だった。
彼が入・通院した大病院は小生の銀座の事務所にそれほど遠くないので、千葉名産のピーナツを手土産にその後何回か訪れてくれた。何時も昼休時で、酒の用意のあるそば屋かすし星へ直行した。こちらからだったら何時でも病床を見舞うことが可能だったのに、これを潔よしとしない彼だった。
昨年12月下旬に尋ねてくれた時、故郷の唐津へご長男付添いで行って来た由を話題にした。この時のささやかな酒席が、2人の会った最後になった。今までと同じように盃を空にしたのも小生に対する心遣いからだったようだ。
その後酒を飲む気がしなくなったと聞いて電話するのが一層辛くなった。5月の半ばに電話した時は2・3日後の容態急変など未だ夢想もしなかった。
葬儀は故人の希望に従い身内の方々により無宗教で25日に行われた。同期生は今井・市瀬の2人だけの参列をお願いした。(今井君は住いが近く、その特許情報の仕事を、故人が4年程手伝っていた)。
式はご長男のご挨拶から始まり故人の略歴、想出等にわたった。最後の数ヶ月は大好きな酒が一滴も軟めなくなり、このことが家族にとって痛々しくも幸い思い出となったと述べられた時は、特に胸を打たれた。こじんまりながら、祭壇の棺は花一杯におおわれ、軍歌が流れる中で献花が行われた。・・・血肉分けたる仲ではないが・・・の曲、詩の処で思わず熱いものが込み上げて来た。
読経が無いので、故人のアルバムを拝見しながらご遺族と共に故人の在りし日を偲ぶことが出来た。ご遺族のお言葉の端々に故人が家族思いで、凡帳面であったこと等が推量され、闘病中も年一回の靖国神社慰霊祭には必ず姿を見せていたことが思い出された。初耳のこともあった。
5才の時尊父を失い、男兄弟6人の末弟で、内1人は夭折され残りの5人の内4人が故人を含めて粒選りの職業軍人だった。即ち長兄より兵55期、機38期(我々在校中、機関科の教官をされていた)陸士53期、兵72期である。
奥様から、彼との出会いの初めに海軍の写真を見せられたこと、寡黙の人柄を気に入られたこと等を伺った。「私の場合も同じでした。」と小生。思わず顔を合わせて笑う一幕もあった。何か温もりを感じる式だった。
棺をおおう時、厳しかった闘病の後とは思われない程安らかな顔を見た。シャイで温かく誠実な友、吉田修君は何時までも我が記憶の中に生き続けるであろう。
(ご遺族から)
父、修は、去る5月20日、肺癌のため、74年の生涯を終えました。最後は苦しむこともなく、安らかな死に顔でした。一家の柱であった父の重みを今、改めて実感しております。
生前の父への皆様のご交誼に対し、感謝申し上げます。
長男 吉田 郁夫
妻 吉田久美子
(なにわ会ニュース77号6頁 平成9年9月掲載)