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平成22年5月2日 校正すみ

安元 至誠教官を追悼して

若松 禄郎

平成10年7月5日逝去

安元至誠教官は、第72期の指導官でありました。10年程前に、胃を全摘されていましたが、その後は落ち着いた御様子でした。平成8年10月に再発されて以来、翌9年の年賀に「今度だけは、大分苦しめられた」と書いて来られた。それからの闘病生活は、あの精神力で苦闘されて来たと思います。

去る平成10年7月5日に逝去されたとの知らせに、遂に来たるべき時が来たとの思いが強く、1年10ケ月の病魔との闘いが、偲ばれます。その間、お会いする機会もなく、茫然自失、入校以来60年近くの諸々の想いが、一挙に(よみがえ)、私には兵学校時代の教官であり、又、卒業後、「駆逐艦汐風」乗組になってからの艦長でもあり、浅からぬ御縁で、大変身近に、お世話になった大先輩としての思慕の情が、駆け巡った次第です。享年81歳でした。

常に、師弟の関係にあった思い入れが強く走馬灯のように巡る想いを綴り、私の(かて)にもしたいと思います。   

兵学校入校以来の思い出

昭和15年11月、合格通知を受け、江田島の倶楽部に到着したのは、入校2日前だったと思う。既に、参集した同僚には、裏山に登って来たとか、江田内で泳いで来たとか、夫々に心構えが出来上っていたようである。

このような予備知識もなく、私は、入校してから困らないように、歯の治療等身辺の調整をする程度で臨んだので、(いささ)気後するところがあった。その倶楽部に突然、安元教官が訪れ、「君は若松だなー・」と言われたのに吃驚した次第です。早速、車座になって話しているうちに、大変勇気づけられたことが、最初の出遭いでした。

教官は、第2部44分隊監事であり、同時に、第72期第2部の指導官でした。約100人の新入生の身上を全く熟知して、迎え入れていたことは、後々の直接の指導の中で、大事な基本であることを教えられた。

又クラス毎の訓練行事は勿論のこと、第2部の陸戦・乗艦実習等には、安元教官が当られた。雨中、校外での陸戦訓練には、泥まみれになって、大原まで走り抜けたこともあった。安元教官は、現在でも、砲術科教官と思い込んでいる者もある程に、強烈に印象づけられ、大変厳しいところもあった。「スマートで目先が利いて凡帳面、負けじ魂これぞ船乗り」と、先ずは、我々の躾教育に専念された。

実戦部隊配属

昭和18年11月練習艦勤務終了後、伊藤孝一以下9名は、台湾高雄にある第1海上護衛隊司令部付 (略称イ36司)を命ぜられ、護衛駆逐艦刈萱にて、11月未着任した。益満艦長は、僅かな移動期間にも、間もなく護衛の任に着く少尉候補生への配慮として、基礎教育が始められ、我々への期待が寄せられた。

11月28日、高雄に入港した。早速、司令部にて、司令官・先任参謀の訓話等々があり、初めての熱帯の日々を経験した。正に初夏の明るい数日を、生産工場・農事試験場の見学、又海軍施設・名勝地を訪れ、英気を養い、諸事万端の体験をした。

海上護衛隊の任務

安元教官は、昭和19年3月末、「汐風艦長」に着任されるのだが、艦隊勤務と違って、安全な航行を担った船団護衛で、燃料・食料を搭載すれば、次なる護衛へとフル回転した。

誠に地味な任務である。先ずは、我々が高雄で、護衛の意義を深めるために体験した諸見学の一部に触れてみよう。

高雄港湾の奥に、アルミニウムインゴットの製造工場があった。赤い屋根と緑色の屋根の建屋が並列し、広い敷地を占有していた。

これこそ、電力の(かたまり)みたいなものである。アルミ含有度50%のボーキサイト(赤道直下ビンタン島)からアルミナ、続いてアルミインゴットにして内地へ輸送する。次に加工工場の一つが山口県長府にあった。合金に加工・圧延して、航空機用部材を生産していた。その他内地向け船団には、石油(ポルネ方面)・鉄鉱石 (海南島倫林65%含有)・カイラン炭(仏印)・砂糖(通称ブタノール燃料用)等々が積載され、貴重な軍需資源の確保は、重要な任務であった。

なお、海上護衛には東南アジヤ一帯を担当する第1海上護衛隊と、その東方面を担当する第2海上護衛隊に分れていた。兵力・兵器・弾薬等の輸送は共通な主要任務である。

我々第1海護の海軍武官府は門司港にあり、門司から乗船した部隊、或は武器・弾薬諸機材を積んだ輸送船を、六連・蓋井島で船団編成して南方へくだる。最も安全なコース・危険時刻を避ける等、また迅速に攻撃し易い配置を計画していた。

当時は、一航海7乃至10日に、,3回敵潜に遭遇したものである。特に昭和19年半ば以降は敵潜攻撃が激しく、我が戦力は低下した。輸送船の速力も10節以下という拙劣な状況に変り、なお消耗が甚だしく、19年末には全く効率の悪い輸送に終始した。

 

汐風艦長交替

昭和19年3月、南方から北上の船団護衛の任に就き、高雄に入港した。安元教官は、高雄で待機され、岸壁に出迎えて居られた。

今まで大変お世話になった佐古艦長(61期、同年末レイテ島西海域で駆逐艦浦波沈没戦死された)との艦長交替である。

安元教官が艦長として乗組まれるについては、あまりにも突然な驚きと、我々の教官という懐かしさを感じた。同時に、海軍は、誠に大きくて、狭いところだと実感した。私も、同艦乗組員として、航海士から正規の通信士の任に就いたのもこの頃である。

戦局は、愈々激しくなった時期であった。この頃より、順次、対潜装備の更新・対空戦を含めて、電探・逆探等の新装備、更に連装発射管に換えて、25ミリ機銃27門を装備する等、様相を一変してゆくのである。勿論乗員も200名以上に増加した。

 

安元教官の人生感と実践

安元艦長は、昭和14・5年頃、軍艦陸奥の甲板士官の任にあった。若さ溢れる甲板士官は、艦内の規律・士気昂揚のため大変厳しい方であったと思う。併し、「甲板士官が、右舷を歩けば艦は右に、左を歩けば左舷に傾く」ことをモットーに、肝に銘じて、艦内の元気の発信源として努められたとの話を伺ったことがある。

その安元艦長は、度々の敵潜との遭遇では常に先制攻撃を加え、生き残る度に、艦内の一致団結と士気の昂揚は益々その杵を固め堅くしたものであった。時には、水中聴音器をフルに活用するため、機関停止・即時戦速待機の上、敵潜のエンジン音・魚雷発射音を聴取する大胆な戦術を採り、一瞬息を飲むこともあった。

かくの如く、生きた教育を(さず)かったのである。確かに、乗組員は増えたが、艦が一有機体として、緊張に張れることは、行動と実績の積み重ねが、乗組員共通に不滅の自信へと連なる体験を得たのである。

航海中の艦長は、艦橋から離れることはない。艦橋脇の四尺の艦長休憩室が凡ての生活の場であった。7乃至10日の航行で、日を追う毎に痩せ、こめかみに青筋が目立ち、些か痛々しく感ぜられた。無事入港したら、充分に休養を摂って欲しいと思ったものである。

艦内では皆同様に、感じていたと思う。ボルネオ沖を北上中、当直に立っていた時の出来事である。一瞬の強風と波に煽られ、舵が効かず、岩礁を気に掛けながら、面舵をとり、機械室へ 「左強速、右…」と、指示を出し、艦橋もやや騒がしくなった。艦長は「何だ」と起きて来られ、更に赤・黒の運転で落ち着いた。左舷前方には、黒く一筋の竜巻がうねっていた。艦長は 跛行(はこう)運動といって操艦法に出ている」と。機関科当直の四分隊士も初体験だったらしいが、我々まだまだ未熟者で、一寸したことと思われるが、新体験することがあり、常に勉強させられたことが思い出される。

 

レイテ戦の時期

愈々レイテ戦の徴候は、十月十日夜半、マニラ入港の時であった。その翌日、退避命令が出て、食料・水も積まずに、輸送船16隻・護衛艦7隻は、パラワン北部(バキット湾)に避泊した。こんなに素晴しい湾があるのかと、今でも鮮明に記憶している。併し「粥と缶詰」の生活になり、腹は減る毎日である。特に水が無くなることは致命的である。併し窮すれば救いの神ありで、海岸線近くに湧き水を発見した。全船に連絡し、事なきを得たのは機関長の大手柄であった。レイテ戦直前の十月半ばのことであった。

一見、静かな避泊地で、電信員は長以下7名で5波待受けフル稼動して、戦局状況を入手、新たに船団を編成し南下した。ボルネオ北部アピ (現コタキナパル)避泊地に到着したのは10月24日である。この間に「若松中尉は水雷学校へ赴任せよ」 のウナ電を3回受信した。回を追う毎に、震洋隊の編成という内容が明瞭になったりして、翌日退艦することとした。陸軍兵端部と折衝して、この地を通過する古式重爆撃機でマニラに向った。退艦するに当って、私を気遣って、安元艦長は「機を見ること敏・眼光隼の如し」と、これからの指針を示して下さった。艦をあげて見送られた。

空路、様相の一変したマニラ市街を経由して、針尾海兵団に待機する本隊に間に合うことが出来た。

私の出陣予定は遅れて、第3南遣配属(マニラ)に決定し、昭和20年早々の出港となった。この船団編成は輸送船10隻、護衛艦7隻で、我々のクラス震洋隊の4隊が行動を共にした。即ち和田恭三,・浦本 生,・山本正元と若松である。そもそも隊員一同、納得出来る成果のもとに殉ずる覚悟であるが、先ず目的地に到る海上輸送は、脚の遅い護られる側の輸送船である。唯、航行の安全を祈るのみであった。我が24震洋隊は、2千噸級の鉄洋丸に便乗した。又本船には10数機の「桜花」が横み込まれていたのである。

輸送船団は、大陸沿いに針路をとり、陣形第1列の最左翼に位置し、その外側を「駆逐艦汐風」に護衛されるとは、何と偶然なことであろうかー 艦挙げて激励が飛ぶ。退艦して2ケ月後のことである。老練な鉄洋丸船長も「今までこんな心強い航海は初めてだ」と意気が揚がっていた。まずまずマニラまで心配ないと確信したものである。

斯様に、幾多命運を分ける運はつきものであるが、1月9日米軍は呂宋中部リンガエン湾に集結・上陸開始したため、行先変更の命を受け、台湾に揚陸することになった。佐世保出港の折、川棚魚雷艇訓練所長松原少将(兵学校当時の生徒隊監事) 以下、震洋艇多数が針尾水道から現れ、湾口まで、後に先になり、激励の見送りを受け、大いなる期待を寄せられたことを思うと、唯、無念の思いであった。又、図らずも終戦を膨湖島で迎えようとは、天のみぞ知ることであった。

 

駆逐艦汐風バシー海峡の戦闘

基隆に入港、徹夜作業で荷揚作業を終え、陸路貨車輸送により左営に到着したのは、昭和二十年一月末であった。駆逐艦汐風は、基隆から既に左宮に入港していた。次なる「バトリナオ輸送作戦」が、急がれていた。呂宋北部に集結しているパイロットの救出作戦である。かつて、前年7月と9月に従事しているが、状況は全く違う。駆逐艦3隻(梅・楓・汐風)は午前9時揃って出港した。12時敵機に接触、13時過ぎ、B24、P38 10数機来襲交戦し、B25 2機撃墜するも、楓はロケット弾3発を受け、前部火災・戦死者、重軽傷者を出した。自力で夜半に高雄へ帰投した。梅は後部に被弾・航行不能のため、乗組員を汐風に収容の上、汐風の砲撃により沈めた。汐風は重軽傷名、航行に支障なしという結末に終っている。

その後、汐風は基隆を経て内地に帰投し、呉でドック入り、回天搭載用に後部を大改修している。その頃、安元艦長は退艦された。

戦後の駆逐艦汐風の行方と汐風親交会

 

 乗組員には、昭和16年1月海兵団に入団、4月汐風乗組を命ぜられ、昭和20年9月復員となるまで、一途に勤務した者がいる。その履歴には、北はアルーシャン、また南はジャワ・インド洋とその行動は極めて広範に及び哨戒・警戒・護衛或いは輸送に東奔西走し、あらゆる任務をこなして来たことが伺える。

皆一様に、乗組員であったことを誇りにしている。戦後、幾分落ち着いた頃からか、既に、「汐風」を懐かしむ同僚の集まりが出来、「汐風親交会」へと発展して行った。尚、安元艦長に是非列席をお願いし、次第に乗組員の所在も明らかになり、戦没者慰霊の会へと広がり、その第1回が昭和42年(戦没者23回忌) である。昨平成10年が第30回を迎え、節目、節目には行事を凝らして祝ってきた。同時に、昭和23年頃まで浦賀沖に繋留されていた筈の汐風が消息不明のまま、第1回以来10数年が経過した。防衛庁資料室の軍艦銘銘伝には、「宮城県女川港の防波堤として利用された」とだけ記録されている。

誰も納得されることなく、20年を経過した。

図らずも、「福島いわき日報」に 「明日は42回の終戦記念日だが、廃艦して40数年、汐風は今も港に生きている」との報道が流れ、急遽、幹事が小名浜港湾建設事務所を訪ね、1号埠頭に案内され「これが間違いなく汐風です。昭和23年8月25日沈められ護岸として、コンクリートで固められた」と説明された。

艦の右舷が細長く2―3米巾で露出して、長年の風雪に曝らされ、赤く錆び付いた肌を露にしていた。訪ねた幹事はとめどもなく涙が流れ、長年捜し求めていた勇姿の変わり果てた姿に感慨無量であった。暫く黙祷した。戦後の日本復興に今なお役目を果たしていると思うと救われる気がする。

  

昭和64年6月5日、小名浜諏訪神社に90名が集い、「駆逐艦汐風」の鎮魂祭が、宮司小名川隼雄氏により厳粛に始められた。

天気晴朗の良き日に、修抜(しゅうばつ)献饌(けんせん)・祝詞奏上・玉串奉奠(ほうてん)車乗・ラッパ吹奏と祭文は安元艦長が力強く奏上した。

「祭文要旨」

長寿の汐風との待望の再会はこの上ない喜びであり、今も誇りである。幾度か厳しい戦闘にも遭遇し、僚艦が傷つき、或いは海中に姿を消していったこともあり、このような時にも、汐風は誠に武運の強い不死身の艦であった。幾多の艦の業績と長い歴史を顕彰し、小名浜の安全と益々の繁栄にご加護を賜りたい。

続いて、汐風が現存する小名浜港一号埠頭に向い、待望の対面を果たした。安元艦長が國神社から頂いた御神酒を、感謝を込めて艦首から清めて回られ、胸をうたれた。また、かつての乗組員一同は、赤錆びた甲板に手を触れ、45年の歳月を懐かしみ、強烈な想いに浸った。

振り返ると、小名浜の一号埠頭の礎として、なお永遠に守り抜く汐風を見詰めるとき、人の一生には限りがあるが、汐風と共に生き抜いた乗組員の心に残ったものは生きる力を与えてくれたことだと思う。指揮官はもとより、全員が心を一になしえた賜物と信ずる。

(なにわ会ニュース80号5頁 平成11年3月掲載)

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