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平成22年5月2日 校正すみ

柳田 益雄君への弔辞

本村 哲郎

柳田益雄君は普段極めて健康で入院など聞いたことはなく、クラスの中でも、元気一杯の健康人でした。それが3か月ぐらい前から体調を崩し、入退院を繰り返しておられるうち、12月24日早朝、横浜の昭和大学病院ですい臓がんのため急逝されました。私達一同その知らせを聞いたとき、我を忘れるほどの驚きでした。ご遺族の皆様の御悲嘆は如何ばかりかとご推察しますとともに衷心より御冥福をお祈り申し上げます。

柳田君は栃木県の真岡中学校から海軍兵学校に入学され、最上級生の時は伍長を勤める等極めて優秀な成績で、スポーツにも秀で、温厚で周りの人達を温かく纏める君子の風貌があり、クラスの中心的人物でした。 

江田島を卒業して遠洋航海を終え、巡洋艦鬼怒に乗組み、ついで駆逐艦(おぼろ)に移り、千代田・香取を()て昭和15年末、中尉で海軍兵学校の分隊監事を命ぜられました。思うに、人事当局は温厚で溌剌な模範的青年士官の教官を期待したのでしょう。期待に(たが)わず生徒の先頭に立って見事な教育指導に成果をあげたことはクラスの誇りでした。

第二次大戦に入って、17年4月巡洋艦熊野の発令所長を命ぜられ、艦隊の中枢にあって活躍されました。米軍が8月ガダルカナルに侵攻してきた時は直ちにソロモンに急行し、ソロモンの諸作戦・ガ島救援・南太平洋海戦に参加し、艦隊の中枢にあって奮戦されました。

 しかし、戦勢は次第に不利となり、遂に18年12月ガ島を撤退のやむなきに到りました。

 柳田君は同年8月土浦海軍航空隊の教官として後輩の教育に専念されました。

 20年7月大本営海軍参謀を命ぜられ、海軍の中央にあって多忙な戦務に当り、遂に終戦を迎えられました。

 戦後は郷里で商業にあたり、27年7月海上警備隊の発足と同時に入隊。まずは防衛大学の創立準備に携わり、教育の基本に参画して基礎を確立されたのは見事でした。

 ついで、第1掃海隊司令・うめ艦長・幹部学校・海上幕僚監部調査2課長・第2掃海隊群司令・防衛大学校訓練部長の重要配置を歴任して、46年1月海将に昇任され、海上自衛隊を退任されました。

 退職後は10数年にわたり光電製作所顧問として、防衛産業の発展に寄与されました。

 柳田君は我々65期期会の親善発展に進んで当たり、大きく貢献されました。私達のクラス会が和気藹々として過ごして来られたのは、柳田君の人柄と心遣いが大きかったからと信じます。

 どうか、柳田君、

安らかにお眠り下さい。

平成17年12月26日

   海軍兵学校第65期会代表幹事 本村哲郎


 (編集部)

柳田教官は平成16年6月の参拝クラス会までは毎回ご参加いただいた。特に、参拝クラス会当日は65期の慰霊祭と重なることが多く、なにわ会には慰霊祭に参加されただけで、その後、直ぐ65期の慰霊祭に参加しておられた。

平成15年年末クラス会では次のようなお話をされた。

「今までの旧宅を売却、新しい住まいに引っ越したが、老人になっての引越しはとても大変だ。」

 その前年14年年末クラス会では、「毎年なにわ会の会合に招かれ、教え子にあえるのはトテモ嬉しい。健康に留意して残る人生を有意義に過ごすよう」と話された。

さらにその前年の13年年末クラス会では、「昨年は膝の故障で参加できなかったが、この貴重な出会いを大切にし、一期一会のこの機会を大事にしたい。海軍仲間として同じ立場で、対等に付き合ってもらいたい。」と話された。

 ニュースから最近の教官のお話を抜粋したが、このように何時も親しく話しかけられ、無理してもなにわ会の行事にご参加頂いた教官を思い出して哀悼の意を表したい。     合掌

(なにわ会ニュース94号8頁 平成18年3月掲載)

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