海に生きた男の物語・兵学校教官時代
柳田 益雄(遺稿)
私も分隊監事として、10年以上も先輩から分隊監事の申し継ぎを受けた。幸いに私の分隊にはいなかったが、私たちが一号のときの四号(68期)だった生徒が隣の分隊にいて、柳田生徒と呼びかけられるのではないかとヒヤヒヤした覚えがある。生徒と教官との年齢差があまりなくなったので、「おやじ」と呼ぶよりも「あにき」と呼ぶほうが適当になったが、生徒達は昔と同じく「おやじ」と呼ぶので、私たち若い教官はなんとなく面はゆい思いで受け入れていた。当時チョンガーだった私は、早朝の体操から夜の自習まで、努めて生徒達と一緒にいるように心掛けた。
教官が付き纏うので、一号生徒にとっては多少うるさいと思ったものもいたようだが、兄貴のような教官なので一緒にやるような気持ちで喜んでいた者のほうが多かったようだ。上層部のものにも受けが良かった。これ以後兵学校の教官が急速に若返った。最初に若い分隊監事になった私たち63、64,65期の者の評価がもたらしたものと思う。
私たち教官にとっても、生徒達と一緒にいることは楽しいことではあったが、たまには息抜きの時間が欲しいので、月に1度か2月に1度くらい土曜の夕方から呉へ飲みに出るのが常だった.夜遅く宿舎である「平戸」へ戻るのに生徒館の前を通ることになるのだが、なるべく静かに歩くように気をつけても時には飲んだ勢いで歌が出る こともあったようで、生徒に気付かれて自選作業簿に『教官にして深夜大声で放吟するものあるは遺憾なり』と 書かれるようなこともあったようだ。
将校集会所の給仕以外全く女気のない生活から逃避するのは、楽しみなのだが、当直に当たったり、生徒の来訪などがあったりして、フリーな日曜日は月に1回か2回しかないし、それにもまして乗船手当てのない中尉の俸給ではそれ以上呉に出かける余裕はなかった。全くフリーな日曜日には、古鷹山に登ったり、将校集会所で玉突きをしたり、テニスをしたりして過すのが普通であった。
その他では、当時兵学校に奉職していた郷里の先輩であり、私の父の下で先生をしていた人を奥さんにしている高田軍医大佐や、私の中学の教頭石川先生の高等師範時代の知人飯山教授のお宅を訪ねたりした。
私は着任当初、教官としては砲術科に属し、監事として二十四分隊監事、更に72期が入ってきてからはその6部指導官も命ぜられた。入校前のいろいろな作業、入校後の面倒見などで忙しい日々が続いたが、それは張り合いのある仕事でもあった。自分たちが入校した時、指導官が初めから自分の名前を呼んだことに倣って、先ず自分の分隊に入ってくる者の名を覚えることとし、次に6部の者全部の名前を覚えることに取り掛かったが、写真で100名以上の者の顔と名前を一致させるのは、容易なことではなかった。完全にそれが出来るようになったのは入校教育が終わる頃になっていた。それでは監事落第である。
こんな苦労をしたお陰で、72期の者とはその後も固い絆で結ばれ、現在でも教官として72期のクラス会には必ず呼んでくれる。あり難い事だ。
(なにわ会ニュース97号548頁 平成19年9月掲載)