平成22年5月15日 校正すみ
山内 一郎の想いで
都竹 卓郎
山内一郎の訃報を初めて知ったのはつい5日前の8月23日朝、毎年この時期に恒例のドック入りで鎌倉の高橋のところにゆき、彼の口から聞いた時である。
ぜん息の持病があることは一応知っていたが、まさか生命にかかわるものとは思えず何か信じ難い気拝であった。人間の寿命に限りがある以上、また社会の統計法則に対し、我々のクラスも例外たり得ぬ以上、ある時隔で誰彼が欠けてゆくことは致し方ないのかも知れぬと思い直しながらも、その夜は流石に沈痛たる想いで、病室で独り寝についた。
卒業時の41分隊の一号9人のうち増田 弘が比島海戦で戦死、田中洋一が秋水の訓練中、新井田が復員輸送中それぞれ殉職の他は6人が生き残り、クラスの平均に比べても損耗の少ない方である。去年の11月、74期の三号連中の世話で一泊二目の分隊会を東京で開いた時、大岡は所用、高木(松本)は遠隔で不参であったが、関西から上京の山内に石津壽、谷内、私の計4人が出席し二号、三号と久々に語り合った。彼は泊ってゆきたいが、ぜん息で同室の者に迷惑をかけるからとことあり、夜おそく辞去したがそれが私にとっては最後の別れとなった。
山内はたしか父君のニューヨーク在勤時に彼の地で生れたはずである。そういえばほっそりした小駆ながら、彼の面差しや挙措にはどこかあか抜けした風情があった。もう一つ、この男は貴公子然とした見掛けに似ず烈しく燃え上がる魂というか、よい意味でのファナティシズムを内包していた。強い指揮官の要件は戦況が苛烈になる程冷静に徹することだという話を何かの書物で読んだことがあるが、例の山岡部隊がもし実戦に投入される機会があったら、彼のそういう資質が遺憾なく光彩を放ったのではないかという気がいまも尚よくすることがある。
戦時中は19年の1月、彼の乗艦能代がカビエンで大空襲をうけて大破し横須賀に帰投して来た時、逸見の桟橋で一度会っただけであるが、戦後は23年の秋、彼が阪大の電気、私が北大の物理に在学中に東大で開催された物理学会の席上でばったり顔を合わせ、互に驚いたことがあった。彼の先生は後に原子力委員長もつとめた吹田徳雄教授で、電気工学の中でも半導体物理学に類する分野の研究をしていたわけである。後年藍綬褒章を受けたという彼の松下電器における業績も、そのような流れに沿った研究であったと思われる。
もっとも、入社早々はまず倉庫での縄掛けからやらされたという話を山内自身から聞いたことがあるが、これはまたいかにも松下幸之助らしい人使いの仕方である。同時にまたそういった鍛錬をものともせぬ旺盛な気力を持った山内のような人物こそは、正に松下が求めてやまぬ理想の技術者像そのものではなかったかという気がする。
かなり以前のことになるが、阪大で文部省科研費による「半金属および縮退半導体の電子構造と物性」に関する総合研究班の打合せ会が開かれたついでに、当時豊中の松下電機研究所の次長をしていた山内に招かれ訪ねたことがある。私の専門領域と100パーセント符合していたわけではなかったが、所内見学の後、彼のところで手掛けていた感圧半導体の話などを興味深く聞き、やや立入った質問を交わしたりした。その後は打ちつれて梅田界隈に出かけ、例によって、ミニクラス会となったのだが、実はこの時が私にとって山内の公的活動の姿をみた最後の機会であった。
毛並みといい容姿といい実力といい一点の非の打ちどころなく、正にまっしぐらに松下電器の技術陣の中央階段を頂上めざしてかけ上がってゆくのではないかと私には思えたのだが、その後不幸にして健康にめぐまれず、志半ばにしてついに今日の夭折を迎えたのは、かえすがえすも残念でならない。
話は急に変るが、やはり相当以前の参拝クラス会に出てきた山内と石津、谷内、大岡、私の5人で散会後ミニクラス会をやったことがある。彼の山岡部隊の演錬の話は実に面白く愉快な一時を過ごした後、東京駅の新幹線ホームまで送っていった。すっかり上機嫌になってしまった彼は
「俺は艶福だから隣にはきっと手荒い美人が坐る。大阪までは3時間あるからその間にゆっくりわたりをつけて・」
などと、しきりに豪語して乗り込んだのだが、ややあって隣席にやって来たのは余り見映えのしない中老の男であった。
その時の窓越しに見える彼の何ともいえぬ苦笑は極上のパントマイムの喜劇を見ている感があり、見送り側は腹を抱えて哄笑した。彼の豪語も何分の一かは本気であったのかも知れぬが、いまとなってはそこはかとなく可笑しく、またいささか悲しくもある思い出といえようか。合掌。(8月28日 記)
× × ×
付記
今日になってから、即日書き上げて送稿せよという押本編集子の電命で急きょ筆をとったので、文意がやや乱れているが、乞御容赦。最後の最後まで人さわがせな男ではあった。
(編注 本稿到着は8月30日。大阪の河口浩から「山内一郎君の葬儀」についての原稿が届いたのは9月1日。割付、印刷の時間的余裕がないので要約させてもらうと、
1 8月17日午後10時頃、持病の喘息が悪化して病院で亡くなった。
2 8月18日午後7時から自宅でお通夜。河野、久米川、澤本良夫、田中が参列。
3 8月19日午後、自宅で葬儀。
澤本良夫、田中、伊吹、笹川、河口が参列。
式は松下電器関係者により盛大に行われ、72期を代表して河口が焼香、クラス会からシキビ、香典その他無事済ませた、とのこと)
(なにわ会ニュース47号21頁 昭和57年9月掲載)