TOPへ      物故目次

平成22年5月15日 校正すみ

山下 直己君を偲ぶ

高崎 慎哉

あれは、昨年の夏頃の73期クラス会報であったろうか。山下君からの記事で体調不良とあった。早速、手紙でどんな調子かと聞いたが、返事は来なかった。お互いに若い頃、当時、死病といわれていた肺結核を克服した仲だったので、そのうち元気な顔が見られるだろうと思っていたが、年賀状も来ないまま、今日を迎えてしまった。死因は肺ガンと聞いたが、さぞ苦しんだことであろう。

山下君との付合いは、兵学校の病室での肺結核グループに始まる。仲間には、山下、飯田、千葉、徳富、星野、松本、山本などが居たろうか、池のガマを病室に持ち込んだりして看護婦を脅したり、結構ヤンチャをして軍医官に叱られたものである。当時山下君は、若干痩せ気味だったが、色は黒く元気は良かった。一昔前は、肺結核になると、生徒を免じられたようだが、戦争中の有難さ、何とか一人でも健康を取り戻して、任務につかせようとの配慮からか、療養回復の途が図られた。

その一つとして、山下君と二人揃って、別府の海軍病院に入院し、療養することになった。

昭和18年3月のことである。当時肺侵潤ということで、私より程度の軽かった山下君は、下士官病棟の特別室へ、私は、伝染病棟と並んだ士官の結核病棟に入った。お互いに絶対安静という程の病状でもなく、温泉は、結核に良くないということで、入浴は、週一回という制限を受けた程度だった。昼間は、お互いに往き来して、何を駄弁った確かでないが、美人の看護婦にもてたとか他愛のない事が多かったようだ。そのうちに73期の達崎君も入院して来て、私と同室になり、3人で近くの龍巻地獄、海地獄、血の池地獄等散策しながらよく駄弁ったものである。

当時、別府の海軍病院では、玄米食の大家杉本病院長の指導の下、玄米食化が進められていた。「こと戦時に後方で療養している皆は、何も国の役に立っていないので、玄米食を百回噛んで食べることに協力しろ。」ということで、ガツガツ、グチャグチャ良く噛んで食べたものである。そうすることによって、栄養的にも充分ということで、皆結構健康を取り戻したようである。特に私の場合、伝染病棟と隣合せだったので、そちらの残った飯を、毎日のように看護婦が握り飯にして持って来て呉れた。毎夜それを電気ヒーターで焼いて食べたが、山下君も達崎君も殆んど食べなかった。お陰で一年の療養生活で10瓩も太って、退院する時制服が合わなくなって、全く困ってしまった。閑話休題。

山下君は、経過も順調で、72期の卒業に間に合うように退院したと記憶しているが、結局は、1月に退院した私と一緒に、1年落第して73期として卒業した。お互いに生き残れたのも、病気のお陰だったろうかと。

72期約半数戦死、73期約三分の一戦死という数字からも。戦後は、殆んど会うことはなかったが、和歌山県出身の山下君が、何で熊本あたりに落ち着いたか良く分らぬ。事業欲は、なかなか旺盛だったようで、澱粉工場をやったり、何やかをやったりしながら、結局電機器具商に落ち着いたようだ。

私が、海上自衛隊を退職する前に九州旅行をした際、たまたま山下君も時間がとれて、心ゆくまで家内ともども御馳走になった。前から良くしゃべる方ではあったが、商売人らしくデップリ太って、殆んど一方的によくしゃべった。一杯の間も、ホテルに帰ってからも、遅くなって奥方が迎えに来るまで、結局山下君との出会いは、それが最後になった。

その時の姿が焼きついていて、未だに何か信じられない。そのうち又あの世で語り合おう。

御冥福を祈るや切。

(編注、山下直己、72会友、62,1.30逝去、杉本病院長は72期杉本広安の父君、杉本豊松軍医少将)

(なにわ会ニュース57号6頁 昭和62年9月掲載)

 TOPへ       物故目次