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平成22年5月15日 校正すみ

八淵 龍二の最期

八淵呉龍(龍二の父)熊本県

龍二はレイテ沖海戦で後頭部に負傷、手術し除去すれば頭脳に障る由で爆弾破片は残留、趾骨で多少びっこながら、敵艦を一小艇で爆沈する特殊潜航艇の指導訓練のため、柳井潜水学校の教官に赴任、500名ばかりを訓練、一人乗の小特潜艇で、自身諸共体当りして撃突爆破させるもので、後日の話に「この戦法は誠に生きながら葬式する如き悲惨なもので忍びないが、国家存亡の秋で、最後自身もこの体当り戦法で木葉に散華の覚悟故、堪えて送り出していた処、幸か不幸か大命御降下で終戦となり生き残り、戦死諸士には本当にすまないと思っています」としみじみ話しましたが、その後、宅から「終戦後軍隊も解散の由ゆえ、早く帰って来い」と申し送りし処「戦地の軍人達も早く帰り度いでしょうから復員輸送を終えてから帰ります」といって復員輸送を志願せり。軍人輸送より朝鮮人の帰国輸送、最後に内地に避難疎開中の沖縄県人の帰郷輸送中、遂に輸送船上で倒れ霧島海軍病院に収容され、療養中に軍も解散、病院も国立病院と改称になり、熊本陸軍病院も国立熊本病院となったので、熊本病院に転入を希望し許可された。

熊本病院入院準備のため、4、5日間自宅より通院療養中のある夜、小生の側に臥床しいたる息子(龍二)がいないので便所等そこここ探したところ、拙堂仏前の亡父(本人の祖父)の写真の前に座伏(匍匐)いたしおる故、声をかけたが返事なく、引き起して見たところ、咽喉をナイフで突き血に染っているので驚き、家族を呼び起して看護を託し、裸足で御船町の穀本医院に駈けつけ来診を乞いしところ、医師直ちに来診「幸に傷は浅く呼吸器にも心臓にも故障なければご安心なさい」といって応急手当を施し翌日国立病院に入院しました。

自殺も未遂に終りしも、病弱致しおる上に、この騒ぎで尚一入衰弱し、母親が付添い看病致しおりしも次第に悪化するのみなれば、母親も遂に落胆卒倒したので、母親は自宅に連れ帰り養生恢復したけれど、龍二は大学病院に転入、当時まだわが国にはなかったストレプトマイシン等も米国より取り寄せ療養に努めたけれど薬石効を奏せず逐に不帰の客となる。

(24年1月15日)

母親は只一人の愛子を喪った愁傷の傷痕心裏に消えず、4、5年前より脳軟化症として現われ、恍惚の人として過していたが、本年1月12日何等の苦しみもなく眠るが如くして他界致しました。

(なにわ会ニュース33号34頁 昭和50年9月掲載)

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