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平成22年5月3日 校正すみ

上原 一郎君弔辞

野崎 貞雄

上原 一郎

オィ、上原よ、一郎よ、何で貴様はそんなに早く逝ってしまったのか、俺は全く信じられない。一昨日、3月28日は、森山の3回忌法要で、森山夫人を囲み、村山幹事以下数名の級友で故人を偲び、懐旧談に花を咲かせていた所に、思いも掛けず貴様の訃報が舞い込んで来た。

何たることだ。全く言葉もない。

月12日、村山と共に病院で面会した時は、顔色も良くベッドから出て独りで休憩室迄歩いて来たではないか。前日、奥さんと電話で話した時は、余り調子は良くないとのことだったので心配し乍ら行ったのだが、その心配は無用で、流石に貴様の精神力はたいしたものだと感心し、かつ、すごく嬉しかった。其の内にクラス会で再び貴様の雄姿に接し得るものと期待していたが・・・。

残念無念、このやるせなさはどこへ持って行けば良いのだ。

昭和15年12月、我々は青雲の志を抱き全国から舞鶴の地に集まり、海軍機関学校第53期生徒としてのスタートを切った。猛鍛錬の3年を経て、激戦真っ只中の太平洋へ出陣したのは18年9月だった。軍艦山城で2ケ月間の実習を積み、貴様は最新鋭巡洋艦利根に配乗を命ぜられ、19年マリアナ海戦、レイテ沖海戦に出撃、存分の活躍をしたが、戦運我に利あらず、我が海軍は敗れた。然し利根は武運強く生還出来たのだ。

19年11月、駆逐艦花月に転勤、20年3月横須賀鎮守府付、海軍機関学校教官を経て、5月奈良海軍航空隊分隊長兼教官となり、若ひなを育成中に終戦を迎えた。

終戦後、22年5月迄復員輸送に従事、以後、太光相互銀行、栗田工業、都立駒込病院等に勤務、今日に到っている。

貴様の一生は波瀾万丈、波静かな日はあまり無かった。それだけに奥さんには非常に苦労をかけた。難局に際会しても全く平然として苦しそうな素振りなど微塵も見せない。貴様は何時も明るく、坂本九の歌の如く常に上を向いて歩こうだった。

昨年10月の舞鶴有馬クラス会旅行は本当に楽しかった。貴様は奥さん同伴で参加、50年振りに母校の校庭を踏み感慨一入だったろう。

五年前に膀胱ガン、一昨年には左肺切除の大手術等闘病生活が続いたが、持ち前の精神力で驚異的な恢復を示し、其の間数度に亘り長男清君の勤め先のカナダへも旅行、また、我々と何回もゴルフで競い、且、痛飲した。ゴルフでは良く息子自慢をしたな。之は息子からのプレゼントのドライバーだ、良く飛ぶぞ、見て居れ。此のウエアを見ろよ、息子が送って呉れたんだ、一寸恰好良いだろう等々。

そんなセリフを何回も聞かされ、皆を羨ましがらせた。本当に貴様は親孝行息子を持って幸せだよ。

昨年春、一緒に伊豆高原から箱根越えで御殿場富士霊園に墓参りしたのも楽しい思い出だ。貴様の恢復を祝ってか富士山もきれいに顔を出して呉れた。桜も丁度満開、又とない花見が出来た。今年も貴様を誘って是非行きたいと念願していたがそれは叶わなかった。

人間何時かは死ぬ。死から免れることは出来ない。昭和18年海軍機関学校卒業時111名のクラスは、今や38名となった。全く淋しい限りだが、来世のクラス会は73名で人数的には約倍だ。何れ我々も遠からず行く。貴様は一寸早すぎたが、皆によろしく言ってくれ。

上原よ 貴様は今一生を終えた。未だやりたいことは多々あっただろう。欲を言えばきりがない。終り良ければすべてよし。

貴様は人生の最後をハートナイスで、献身的な奥さん、そして親孝行で、頼り甲斐のある2人の息子に見守られて逝った。

以て瞑すべし。

天上から奥さん始め上原家に幸多かれと加護してくれ。

上原よ 安らかに眠れ さようなら。

平成8年3月30日

海軍機関学校第53期クラス会代表 野崎 貞雄

(なにわ会ニュース75号4頁 平成8年9月掲載)

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