平成22年5月11日 校正すみ
辻岡君を悼む
左近允尚敏
昭和20年11月,初桜でポナペに迎えに行ったときの写真。 古くて不鮮明だが貴重な証拠写真。前列左が辻岡大尉。 |
辻岡君の訃報は突然だったのでびっくりした。お通夜の席で、1月ほど前から悪かったと聞いた。
私は戦後、初桜で1年間復員輸送に従事したが、1回目と2回目がポナペで、そこの警備隊に辻岡君がいた。ポナペ島はトラックの東約400マイルにある円錐形の大きな島で雨量は南洋で一番多く、川には海老やうなぎ、近くの海では鰹などがとれ、兵舎の周りでは鶏が走り回っていた。
進駐してきた米軍と警備隊の関係はすこぶる良好で、初桜の青木(厚一)艦長(66期)以下数名の士官は上陸して島内見学をしたりご馳走になったりしたが、復員輸送を通じて上陸できたのはここだけだった。
そのこともあって、以来60年間、辻岡君とは親しくお付き合いさせてもらった。湘南地区でのクラス、コレスの集まりではよく顔を合わせた。酒が強くご酩酊でちょっとハラハラしたこともあったが、最近はそんなこともなくなっていた。豪放磊落だからだろう、「提督」というあだ名がついていたように思う。
もうだいぶ前のことになったが、検査のつもりで入院された奥さんが急逝され、嘆くとともに入院先の病院に対する憤懣やるかたない時期があり、慰める言葉がなかったことも印象に残っている。
手元にポナペで撮った写真があって、初桜の艦長、軍医長、主計長、警備隊の主計長と辻岡君が写っている。彼だけ艦内帽をあみだにかぶっているところがいかにも「提督」らしい。
淋しくなった。もう少しポナペの話を聞けばよかったと思う。心から辻岡君のご冥福をお祈りします。
(なにわ会ニュース96号40頁 平成19年3月掲載)