平成22年5月11日 校正すみ
故戸泉 弘君を偲ぶ(一号時代の思い出)
森園 良巳
昭和59年5月31日、戸泉 弘君が逝った。一号同分隊の相澤善三郎よりの電話で知らされたが、クラス会が知ったのは逝去の日より可なりの日時が経過していたとの由。
戸泉は戦後、郷里山梨で名工建設株式会社に勤務していた。然し山梨に引込んだままで級友との交りの機会も少なかった模様。彼の戦後について知りたいと思い、名簿を開いて見たが、山梨県出身の級友は少なく、彼の中学、日川中学の同窓を捜してみたが、見つかった石原輝雄は昭和20年4月22日、901空偵察隊員として南西諸島で、又コレスの鴫野辰雄は昭和20年3月31日、イ8潜乗組で那覇南西海面において戦死ということで、彼のネービー生活以外のことは解らなかった。
ただ一度だけ靖国神社参拝級会で、江田島卒業以来、初めて会う機会を得た。30数年の歳月を経ての再会で、小生の貫禄のある頭を見て、呵々大笑した彼の顔が小生の脳裏に焼きついている。とてもこんなに早逝するとは思えないほど若々しかった。
想いを回らせば、昭和17年11月15日、我々72期が江田島の最終学年を迎え、私自身、張切って17分隊に赴いた時、一人の颯々として、又ニヤニヤして(ニコニコと表現した方が良いのか・・)、一見娑婆気に溢れた一号がいた。それが戸泉であった。どちらかと云えば、姿婆気の点では小生も人後に落ちない方だったので、親近感を覚えたのを記憶している。彼はたまに二、三号に「待て」をかけることもあり、「修正」することもあったが、おおよそ、下級生に対しては優しかった。分隊巡航等の時は、特に彼の面目躍如として現われ、その良い意味の婆婆気が、一、二、三号の垣根を取りこわし、全体のムードを和やかなものにした。まことにあの分隊生活の中のユニークな存在だったと思う。
我々は卒業時において、航空機と艦艇に分けられた最初のクラスとなったが、当時、彼は徹底して航空機嫌いの潜水艦志望だった。彼は飛行機のことを奴凧″といっていた。
ネービーは船乗りであり、船乗りはあくまで船乗りで、自分は潜水艦に乗るというのが彼の持論であった。
昭和18年9月15日、卒業の当日、生徒館食堂で酒を戴き、ちょっぴり一人前になった快感を秘めながら、お頭つきの鯛を食べた後、ほろ酔い機嫌で、いささかセンチメンタルな気分で、二、三号の待つ分隊自習室にお別れに行った時、赤い顔をしながら、小生に向って「奴凧さん、達者でいろ」と言った彼の笑顔が瞼に残っている。その後、國神社で再会する迄の別れとなった。
彼はその後、八雲、那智、潜校、そして大浦突撃隊を経ながらあの苛烈な太平洋戦争で生命を全うした。
17分隊一号は高橋義郎、内山敬三郎、田中敬二が戦死した。何れも立派な飛行機屋であった。又、先に、昭和58年6月、最後まで船乗りであった藤野竜弥が逝った。彼は潜水艦乗りであった。そして今、かつて潜水艦に憧れた戸泉が逝った。9名の分隊一号のうち5名が旅立ってしまった。淋しさを感じざるを得ないが、彼の岸では、今頃、飛行機と潜水艦論議が花咲いているかも知れない。
今、彼の命日、59年5月31日を小生のメモ手帳でみたら、当日、四国の方に仕事で出かけていた。本当に慙愧に堪えない。
戸泉よ 安らかに眠ってくれ。そして先に逝きし者へ宜しくと伝え願いたい。
戸泉 恵美子
この度は 故 夫 弘のため心暖まるお便りに加えてご芳志を頂戴し、深く感謝申し上げます。
お便りを拝見し.あわててなにわ会報51号の24頁をさがし、主人の便りを発見した・・というような申し訳なさです。今にして思いますと、あれやこれやと、まるで旅立ちの準備をしておったような点が多々あり、それとは知らず、私など迂閥なことばかりでございました。
3月頃だったでしょうか『俺が死んだら海兵の○○氏に連絡してくれ・・・』と言われたことがあったのですが、まさか・・・と身を入れて聞きとめておかず、それがどなたであったかわからずじまいになってしまいました。
過日お送り頂いた特潜会の写真集は、一枚、一枚丁寧に拝見し、主人の紅顔の少年時代の写真を99頁に見つけました。丁度40年前の写真でした。(中略)
なお大変古くなってしまいましたが、77忌の挨拶状を同封させていただきます。(59年10月8日)
夫 戸泉弘儀去る5月31日 60才をもって永眠いたしました折には御鄭重なるご弔慰をいただき尚格別の御厚志を賜わりまして有難く御礼申し上げます
お蔭をもちまして天真院仁成弘海居士七七忌法要を内々にて相済ませました
なお皆様の御芳志の一部を「山梨県重症心身障害児(者)を守る会」ほかの諸施設にご寄付させていただきました
なにとぞご了承下さいますようお願い申し上げます これからは亡夫の実母(富子84才)を中心に一子敦子(23才白根東小教諭)と3人で力を合せて生活を守り 私も今迄通りに身障者を守る会の仕事を続けていく所存でございます
(なにわ会ニュース52号15頁 昭和60年3月掲載)