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平成22年5月10日 校正すみ

田中 歳春君への弔辞

矢田 次夫

田中君、夢にも思わなかった君の訃報に接し驚いてかけつけた。かねてから、療養中とは承っていたけれど、聞く度ごとに快方にあり経過は良いとのことで、これ程の重体とは思わなかった。遠からずお会い出来ると信じていたのに。

田中君、懐かしい故郷を、最近では、いつ訪れることが出来たのかね。恐らく闘病のために久しく帰郷出来なかったことと思う。

俺は昨日、故郷のお盆を終えて東京に帰ったばかりでした。君の故郷、東郷町は、今や、たわわななしの実りに活気あふれ、東郷池の湖畔、暖かい出湯の煙が相変わらずたなびいていました。この美しい故郷に、どうして元気になって帰れなかったかと、世の無情を心の底から恨んでいる。

君は当時、花見小学校で、稀に見る秀才と言われたが、お互いに、僻地にも似た山陰の片田舎から、昔の海軍にあこがれて、江田島にある海軍兵学校に進んだね。覚えているかい田中君。君は剣道部のキャプテン、俺はバスケット部のキャプテン。どちらも運動ばかりしていて勉強しないと、先生に叱られたね。ところが、そのすぐあとのこと、ここ数年来、我が中学校では海軍兵学校に合格者がなかったのに、このとき2人揃って合格したね。

校長先生は全校生徒の前でこう言われた。

「生徒諸君、今回両名が海軍兵学校に見事合格した。諸君のご両親のなかに、勉強が出来ないので運動部を止めさせて欲しいと言われる方が多いけれど、勉強出来ないのは運動のせいではないということを、この両名が証明してくれた。県の代表で明治神宮大会に行くほどの運動選手で、見事にこの合格を勝ち得たことで、今後、運動と勉強は両立しないとは一切言わせないぞ」ということだった。

当時、鬼の首でも取ったような誇りで、お互いに 「よし、やろう」と誓いあったね。

君は剣道錬士の達人、儀礼に始まり儀礼に終るという精神の指導者、文字通り誠実そのものを実生活の上でも見事に実践しました。

多くのクラスの友達が、等しく感服する謹厳実直の人でした。

昭和18年9月、海軍兵学校卒業後、君は重巡洋艦「鳥海」を経て、太平洋上の要地メレヨン島に展開していた第44警備隊司令官の副官に選ばれ、終戦までこの大任に当たりました。恐らく剣道の達人である君は、多くの上官から望まれたことでしょう。それ以来、君は陸戦隊、俺は潜水艦と職域を異にしたので、相まみえることはなかったが、再び終戦後、同じ苦労を重ねる運命に立たされたね。それは追放ということで、公職を禁ぜられ、わずかばかりの農地に鍬をもって天を仰いだね。俺は忘れないよ、そのとき交わした言葉。「この故郷の田舎には、所詮、我々が行く道はないぞ」ということだったね。時は流れて君は帝国人絹という大手の素晴らしい会社に身を進め、俺は、明日はどうなるか分からないという海上自衛隊の前身、海上警備隊へ職を求めた。

進んだ道は違ったが、結ばれた故郷の強い絆は、疎遠の中にも脈々と生き続けてきた。君の家に一夜の宿を借り、翌日ゴルフの白球を追った思い出は、ついこの間のように思う。

そして「この思い出よ、再び」と念じていたのに、慙愧に絶えない。

それにつけても、今日までの奥様、お嬢様の不眠不休の献身的なご看病、大阪在住のクラスの友達の言葉を借りても、涙なくしては語れない。

田中君、旅立ちは少し早過ぎたが、しかし君が残した足跡はきわめて大きく、幸せな生涯ではなかったかね。

今朝、東京を出発するまでに、72期の多くの友達から「あの真面目な田中君が」「あの誠実な歳春が」と、君の人となりを惜しむ声が色々とよせられたことを報告する。

限りなく悔やまれて尽きないが、願わくは、かつての快刀乱魔の切れ味で、天高く舞って欲しい。

田中君、さようなら。安らかに眠りたまえ。

平成4年8月19日

72期代表故郷の友  矢田 次夫

(なにわ会ニュース68号13頁 平成5年3月掲載)

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