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平成22年5月10日 校正すみ

追想・故田中 宏謨君

名村 英俊

平成7年11月8日午前、自治医大の大宮医療センターに入院中の田中君の病状が必ずしも楽観を許さないこと、今ならば面会可能であり、本人もそれを希望している旨の通知を貰ったので、取急ぎ病院に駆けつけた。彼が入退院を繰返すようになってからすでに相当の時間が経つが、その間、見舞に押掛けることは遠慮し、時折の電話が消息を知る唯一の手段であった。最後の電話は9月初めだったと思うが、一言話すことがいかにも大儀そうであることが分ったので、「涼しくなって調子が良くなったら一度会おう」とだけ一方的に言って受話器を置いたことだった。

ある程度覚悟はしていたこととはいえ、病床の彼の憔悴した姿を見るのは辛かった。元気な頃に一緒に行ったうなぎ屋の話をすると、かすかにうなずいて、にっこり笑った。手を取ると案外ごつごつした大きな手で力強く握り返してきたので、これこそ船乗りの手だと妙なことを考えていた。主治医によると現在では、心臓の状態も比較的安定し容態の急変は遠のいているとの説明であったので、一応安心して帰宅した。

田中君急逝の通知を受けたのは11月11日正午だった。当日10時20分ころ病状悪化し、応急処置の甲斐なく11時20分の臨終であった。取敢えず、後藤英一郎君と共に病院へ急行し今は物言わぬ彼に合掌しご遺族にお悔みを申し上げた。葬儀は連絡網に乗せたとおり、13日通夜、14日告別式がしめやかに執行された。クラス会の弔辞は、同じく爆雷の雨の中を苦闘した山田穣君が、生前の約束に従って述べ、会葬の方々に多大の感銘を与えた。

昭和19年4月下旬、72期35名は潜水学校第11期普通科学生として、ほぼ同数の71期中尉学生と共に大竹の地に梁山泊の生活を始めた。田中宏謨との潜水艦を媒介としての結縁もこの時に遡るからもう半世紀以上昔のことになる。元気だけが取柄の潜水艦屋の卵は、あ号作戦においても喪失20隻、戦果零という6艦隊完敗の手荒い洗礼を受けて、容易ならざる前途を再確認しつつ巣立つこととなる。

昭和19年8月15日、潜水学校卒業。彼は選ばれて当時最精鋭大型艦のすべてを網羅した第15潜水隊の一艦伊号58潜乗組として赴任する。この限りにおいて、彼は大満足であった筈である。初陣は回天金剛隊としてグァム島アプラ泊地の攻撃であった。以降終戦に至るまで15隊は挙げて回天作戦に組込まれていくが、その功罪を論ずることは本稿の目的ではない。

58潜の特筆すべき戦果はインディアナポリスの撃沈であり、襲撃運動における航海長としての彼の才能が発揮される。しかし、彼はこの戦闘についても多くを語ることはなかった。ただ珍しく数年前「なにわ会ニュース」に警戒厳重を極める沖縄西方海面に進攻した折の経験について投稿した彼の一文を思い出す。それはさりげない表現ながら、戦に強い潜水艦の戦ぶりを具体的に述べている。もし、その要件を、しぶとい忍耐力、こだわりのない思考法、妥当な判断力などに抽象して考えれば、彼、田中宏謨の性格に符号する点が驚く程多いことに思い至る。ともかく彼は潜水艦乗りとして、悔いなく闘ってこの戦争を生きのびた。ちなみに第15潜水隊に終始して終戦を迎えることができた期友は、彼のほかに山田穣と杉田政一の2名を数えるのみである。

戦後の混乱期には、たまたま関東と関西に離れて住んだので会う機会もまれであったが、昭和45年、伊呂波会(70期以降の潜水艦関係者を主体に発足した親睦会)設立後は、第3金曜日の銀座三笠会館での月例会には、常連として頻繁に顔を会わせることが出来るようになった。

彼が仕事を止めてからは江戸期の文学、歴史の研究に異常な情熱をもって取組んだ。お蔭で伊呂波会の後では、神社仏閣や下町探訪に随分お供を仰せつかったものだ。彼の研究分野はさらに古代史にまで広がり、通常は寡黙な彼も、不肖の弟子に講義する時は極めて(じょう)であり、楽しそうであった。その埋合わせと言っては穏当でないが、大宮、浦和近在の川魚料理や蕎麦(そば)老舗(しにせ)にはよく案内してくれた。南浦和の小島屋のうなぎの場合は故猛典先生の特別の許可を得てやってくるコレステロール要注意の湘南勢もいた。

彼はもともと高血圧症の持病があったが、打たれ強いというのか、よほどの症状を自覚しない限り医者に駆けつけることはないと言っていた。それが3年程前から体調を崩し、月例会の欠席が目立つようになった。一昨年の春、揃って大宮市天沼の故田辺弥八主任指導官宅にお邪魔したのが一緒に街を歩いた最後になった。そしてその夏、泉五郎、後藤英一郎両君と自宅に訪ねたのが、よもやま話の仕納めであった。

戦後50年目に当たる今年は、皮肉にも天災、人災にさいなまれ、あらゆる分野に閉塞感が漂ううちに足早に過ぎようとしている。そして、晩秋、彼も幾度か襲う発作に耐えた長く苦しい闘病生活の決着を急ぐかの如く去って行った。弧艦遠く水平線に没し落莫の思いを禁じ得ない。

彼の永眠の地は府中市の多摩霊園と決り、12月23日に納骨式が行われる。思い出は語り尽くせない。ただ頭を垂れて、勇敢に戦い抜き、誠実に生きた彼、田中宏謨君の冥福を祈りつつ永眠の別れを告げる。

(納骨式の前夜記す)

(なにわ会ニュース74号7頁 平成8年3月掲載)

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