高井 實君の逝去を悼む
東條 重道
高井君とは四、三号を22分隊で一緒に過ごした。姓名申告、共同修正と想い出一杯。ある日曜日湾内巡航で食いきれない羊羹を紙の小船に載せて「明日流れてこいよ」と波に流し恨めしく見送った楽しい想い出。隊務当番で走り回る彼の姿が今も瞼に浮かぶ。
高井君は徳島の町外れに育った。決して要領よくはなく、時には共同修正の当事者にもなったが、真面目さ、一本気、茶目っ気が皆に愛された。徳島中学出身。私は大阪だが私の祖父が徳島藩の下級武士であったことから、俺も徳島出身だと名乗り、亡くなった河野俊通君と3名が徳島出身と協力しあった。いまもその当時の気心に変りはない。
卒業後、3名ともに霞ヶ浦へ、高井君は偵察、河野君は戦闘機、私は艦爆へそれぞれに進んだ。高井君は一式陸攻の偵察員で機長として魚雷を抱いて艦船攻撃にも出撃し、会敵出来ず生還した貴重な体験もしている。
復員後郷里徳島で製粉の賃仕事をしたり、建具の生産工場を共同経営したりして羽振りがよかつた。徳島に彼を訪ねて工場見学し、阿波踊りの案内をして楽しませてもらった。彼も私を訪ねてくれた。共に零細企業の経験者であった。
昭和33年8月私は海上自衛隊の徳島航空隊に配属され、借家探しや徳島生活でお世話になった。当時高井君は自衛官となる最後の機会で航空自衛隊への入隊準備中であった。彼を加えて航空隊の72期クラス会もやった。間もなく高井君は空自に入隊し、以後定年退職まで疎遠になった。航空自衛隊での消息は知る由もない。
高井君が自衛隊を退職して奈良に住み着き、大阪の建設会社に就職していることを知り、旧交を温めた。建設会社では社員の教育を担当しているとのこと。そして昭和58年脳梗塞で倒れ言葉が不明瞭になり、右手右脚が不自由な生活になった。家族の暖かい看病に支えられ、少しずつ回復、室内を伝い歩き出来るようになり、車椅子で屋外の散歩ができるようになった。御子息の車で遠くへ出かけ、時に宿泊を伴う旅まで楽しむようになった。そのうち、望んで台湾、韓国、アメリカ、ハワイと外国旅行まで楽しんだようだ。
真面目で一本気、なんの野心もない天真爛漫の生涯を生き抜いたと満足しているだろう。左手で書くのだろうぎこちない手書きの年賀状を欠かすことはなかつた。朗らかで闊達、御主人を支えることが生き甲斐の良妻賢母の見本のような奥様と金婚の生涯を生き抜かれた。後半不自由な体にはなったが自分の人生に大満足しているように思う。
更に私が感銘を受けるのは、不自由な日々を戦う父を、或いは家に訪ね、或いは散歩に連れ出し、更には郷里徳島に共し、外国旅行にまで付き添われて孝養を尽くすお子様方を育てたことである。なかなか出来ることではない。父だからとて要求できることではない。幸せだったと感謝して大往生したであろうと思う。
私は葬儀には参列できないので次の弔電を打電した。
『長年の手厚い御介護にかかわらず御逝去の由お悔やみ申し上げます。ご家族の皆様に感謝しつつご昇天されたことと拝察します。合掌』
(なにわ会ニュース92号18頁 平成17年3月掲載)