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平成22年5月8日 校正すみ

高橋 猛典君

山田 良彦

「きのうまで、この岸にあり花(いかだ)

(円覚慈雲管長の追悼句)

春未だ浅く流石の鎌倉も静か、浄明寺のお宅を訪ねた。遺影は何時もの様に微笑んで迎えて呉れる。

「ヨオッー居るなー・久し振り」と声をかけた。

高橋君は教育者猛三郎氏の長男として大正12年7月東京赤坂に生まれ、父君が乃木希典の一字を貰って猛典を命名された由。名門府立一中に入学後、仙台二中に転じ、昭和15年12月江田島の海軍兵学校に同じクラスとして入校した。

挙措(きょそ)折目の正しい温厚な美青年であり、皆から『モーテン』『モーテン』と親しまれていた。

卒業を前に担当教官から「外柔内剛の長所を生かせ」と言われ、航空分野を志望するや、

「貴様は地味な潜水艦希望と思っていた」と言われた旨『想い出』として自筆している。

航空部隊でも、冷静温和でネバリ気のある彼に、ピッダリの中型陸上攻撃機のパイロットの道に進んだ。

宮崎での実用機教程中、学生の身であり乍ら、対潜哨戒の実戦に出撃、折柄の不連続線を彼が機長の一機丈これを突破、見事任務を果し、司令から賞賛を受けたという。

昭和19年7月、飛行学生を卒業、第901航空隊に配属されてから、館山‐高雄‐フィリッピン‐上海‐大村‐元山と転戦、小松で終戦を迎えている。

その間対潜哨戒、船団護衛に当り、フィリピンでは敵潜を確実に爆撃、上海では顔面負傷する等、その闘志と責任感は彼の真骨頂であった。

戦後、仙台で失意中、父君から「もう一度勉強を」と励まされ、又入学に際し「軍人として戦った者が何故医学を志すのか」との質問に些か反発を覚え乍ら昭和21年4月、東北帝国大学医学部に入った。600余名の同期の友を僅かの間に半分を失った命の尊さが身に恥みていたのだろう。

昭和25年5月、インターン時代に父君の親友の二宮氏の次女で幼馴みの節子夫人と結婚、昭和26年、父君が開業の為にと土地を用意されていたにも拘わらず、同氏の縁で鎌倉の佐藤外科病院に勤務した。

鎌倉という土地と、故佐藤院長の強い懇望と、彼特有の男気が鎌倉に骨を埋める決心をさせたのだろうか。

当時、医師は院長と彼の二人、他に6名の陣容で、ベッド数20、外来も4〜50名位であったという。

ここから若き『モーテン先生』の大奮闘が始まった。病院敷地内の一軒に新婚早々の夫人を迎え、間もなく長女が誕生。家の事は総て夫人に任せ、昼は診療、夜は毎日当直と、文字通り院長の片腕として働き続けたという。

然も、その間に東京大学医学部林田外科で学位をとっている。過労の為外出先で2〜3回倒れたこともあったと夫人は当時を偲んでおられた。

昭和31年、東大、ガン研、慶大、東京国立以外にはなかったガン治療用コバルト照射器を民間で初めて導入、新聞に大きく報道され、地元は勿論遠来の患者も急増、鎌倉に佐藤病院ありと云われる迄になった。

クラスの一人が病院近くの床屋のオヤジに「アンタもネービーだってね。ネービーも偉くなると威張りくさって鼻持ちならぬ。そこへ行くと佐藤病院の代診さんはネービーでも器が違うね。今じゃ佐藤病院も代診さんで持って居る様なもんさ。円覚寺の管長さん (朝比奈宗源師)や建長寺の管長さんから有名人の誰、彼まで、先生を頼って来ている。入院すりゃするはで、ワッシの様な者まで夜中だろうが休日だろうがチャーンと見舞って呉れる。頭は低いし親切だし、アンタも見習った方が良いがネー」と言われた旨述懐している。

昭和43年、前院長の死去に伴い院長となる。前院長が生前「うちの副院長は腕がいい。県では彼の右に出る医者はいないだろう。彼ならきっとやって呉れると思う」とその夫人に話されて居たと聞く。

我々戦争に生き残った者も寄る年波には勝てず、病に倒れる者が誰、彼、と数える様になった頃、『モーテン先生』に一番苦労をかけた者の発案で、これからは健康管理を『モーテン』に預け人間ドックを励行、何時迄も元気で長生きしようと『鶴友会』なるものを結成した。当初14〜5人から直ぐ、遠くは関西の者迄含めて60余名に達した。中には入会した丈で免罪符を貰ったと安心する不心得者も居た。毎週土曜日定期的に10人余が集まり待合室の片隅で持前の大声で話し合う為他の患者さんの顰蹙(ひんしゅく)を買ったことも多かったと思う。だが『モーテン先生』の「診療以外に皆が一つ所に集まり、スモールクラス会を開くことが精神的治療に多大の効果がある」との寛容さに甘えて彼の最期迄続けて来た。

他の先生や看護婦さん達から『院長先生の御学友』等と親しまれ、まるで自分連の病院に来た様な感すら覚えた。お蔭で、早期発見し一命を取り留めた者も多く、斯く云う私もその一人である。彼が最期まで看取って呉れるという安堵感がどれ丈心の支えとして大きかったか。

又待合室に居ると『モーテン先生』 の噂が耳に入って来る。「先生のお顔を見る丈で安心して治ってしまった様な気がします」という患者さん達の話の裡に、医を超えた信頼の深さをその心に見た思いがした。

 彼は生涯第一線で40余年に亘り、天下一品と言われた技で2000人を遥かに超える手術を手掛け、遂には『腹切りモーテン』の威名を頂戴している。

心身にややゆとりを持てる様になってから、彼は好きな旅行も楽しみ、私もよく誘われたが、同行するのは気の置けない患者許り、何時も血圧計や聴診器を携えヨーロッパへ。偶には大好きなクラシック音楽を楽しむ為丈に真冬のウィーンに出掛け本場物を満喫していたが、毎日病院に電話をかけ気になる患者の様子を聞いたりもしていた。

彼が浄明寺に居を構えたのは昭和40年。お嬢様も2人夫々結婚され、お孫さんも4人、忙しい内から家族揃っての束の間の夏休みを楽しんで居られた。

「そろそろゆっくりさせて貰うよ」と周囲の人々に漏らしていた様であるが、年月を経るにつけ、病院関係のみならず地域の様々な付合いが益々増え、名実共に鎌倉の名士となって多忙の日々を送って居た。

我々には酒、煙草を慎む様注意し乍ら、家では煙草も止めず、ワインの杯を傾けていた様で、ストレスの解消に務めていたのではなかろうか。

 ある時、夫人が笑い乍ら見せて下さった写真があった。思わず目を疑ったが、そこには厚化粧の猛奴姐さんのあで姿があった。隣には着付けの川口秀子さん(武智鉄二氏夫人)が並んで居られた。彼が中心で結成した鎌倉中央ロータリーの集りの時のものであったとか。

 主なき書斎には、何れゆっくり楽しみたいと思っていたのであろう。おびただしい蔵書とCDが残されていた。

大好きな鎌倉に融け込み、彼を信頼し、頼り、命を預けて居た繋りの深い多くの人々を、一人でも多く、少しでも永く面倒を見てあげたいという彼の心情。残された人々には深い悲しみと、暗夜に灯を失った想いを残した侭、平成5年9月13日、余りにも忽然と逝った。

思えば羨しい高橋猛典君の生き様であった。今や北鎌倉の浄智寺の深い森に囲まれて、安らかに眠りについている。

最期に、94年11月号の新潮45″に寄せられている田村隆一氏の筆をお借り(抜粋)して拙稿を閉じたい

 

彼岸花 (退屈無想庵) 田村隆一

9月14日

 午後11時頃帰宅して見ると、家人は電話中、玄関のドアを開けるなり「ああ 今帰って釆ました。タムラに代ります」
 電話は高見(順)夫人。「S病院の高橋院長先生が昨日心筋梗塞で急逝なさったのよ、わたしすっかりビックリして了って・。」先生のお宅は山一つ越えた浄明寺。

 

9月15日

僕が高見夫人の紹介で御成町のS病院に入院したのは1970年の秋深き頃である。入院中三島由紀夫事件があり、回診の際先生が「随分命を粗末にする人がいるんですね」と三島事件に触れた。「全くです」と僕も同感する。その会話もつい昨日の様に思える。僕も先生も大正12年生。あれから23年。午後2時告別式に参列する。病院関係、鎌倉医師会、先生のお蔭で健康をとり戻した患者さん達、そして海兵72期の生き残り戦友達、飛行科のクラスメートの三分の二が戦死、僕と家内は先生に合掌して安眠を祈るのみ

品のいい御夫人に黙礼した。出棺の時は軍艦旗に包まれた枢を『同期の桜』のパイロット達がかつぎ霊柩車におさめる。医師会の長老らしい紳士が御焼香の列に並んでいた時、

「高橋先生は消化器の手術では天下一品でしたからね。私に万一のことがあった時はアテにしていたのですが残念でなりません」と僕にささやかれた。

「高橋猛典先生『ゆっくり』おやすみになって下さい」

 

高橋 猛典 略歴

大正12年7月12日生

昭和15年12月 宮城県立仙台第二中学校5年 

 年 12月1 海軍兵学校 入校

昭和18年月15日 同   校 卒業 

昭和20年6   海軍大尉
同 年 8月    終戦

昭和21年4月  東北帝国大学医学部入学

昭和25年3月  東北大学医学部卒業 桂外科入局

昭和26年10月より 鎌倉・佐藤病院勤務

昭和43年11月  医療法人佐藤病院院長

平成5年9月13日  出先にて急死

 本稿は東北大学医学部昭和25年卒業生の同窓会誌「蒲黄」より転載。「蒲黄」とは大国主命が白兎に「蒲の穂綿にくるまれば……」との言い伝えから採った昭和25東北大医学部同窓会誌の題名の由。

(なにわ会ニュース76号13頁 平成6年3月掲載

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