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平成22年5月8日 校正すみ

高橋 猛典君へ

山田 良彦

 紅葉には一寸早い10月の下旬、北鎌倉の浄智寺、納骨の為粛々と集った多数の喪服の中から「同期の桜」「海行かば」 の合唱が静かに荘重に流れた。木立の中に吸込まれて行く様に……。とうとう彼も土に帰ったのか…:・。

 小柄な院長夫人始め遺族の方々の深い悲しみの姿が痛ましい。全く夢の様な気がする。

 9月13日夜半、電話で計報の知らせ、まさか高橋がと思いつ樋口、加藤を拾って駈けつけた。浄明寺のお宅で眠っている様な安らかな彼の顔、今にも声をかけて呉れ相な彼、然し幾ら呼んでも答えて呉れない。云う言葉もない。然し現実なのだと思い乍ら気丈に振舞れている夫人の姿が気丈な丈に痛々しい。通夜、密葬とショックを隠し切れず、悲しみを押え切れない各界の弔問客が続々とつづく。改めて彼の交友の広さ人望の厚さに、今更の様に感銘を受ける。来週入院を言渡された老夫人が「どうしたらよいでしょう…」と、泣き崩れる姿が哀れであった。クラスの我々も口には出さぬが同じ想、戸迷い途方に暮れる想いであった。軍艦旗に包まれクラスの面々に担れての静かな出棺。本当に彼はもういないという実感が込み上げて来た。中3日を経て浄智寺での病院葬、住職の読経が流れ、長い長い焼香の列、立ち込める香の煙の中で、彼との長い附き合いを振返っていた。

「本当に世話になったなあ」と改めて感謝の思ひ。脳梗塞、胃癌と助けて貰った。家族も入院手術と色々面倒をかけたが、その都度見事な医の技と、そして何ものにも優る安心感、信頼感に包まれての看護を受けられたお蔭で今日迄元気で居られたというのに、彼自身がこんな事にならうとは〃‥

 ゴルフも良く付き合った。川奈、箱根、袖ヶ浦等々での想い出は尽きない。あの頃は石津も富士も皆元気だった。段々彼岸の方が賑やかになって行くのだらう。

 彼が湘南のメンバーになってからは、彼のゴルフには殆ど行を共にしたのではないだらうか。我武者羅に突走る小生と対照的に、練習も禄に出来ない忙しい体でよく優勝した。

 「無欲の勝利だよ〃‥」と軽く笑った笑顔を思い出す。この8月7名のクラスと一泊しての蓼科が最後のゴルフになった。後でのお話ではその折は非常に疲れて居り、前夜は足が冷えて毛布にくるみヒーターで暖めていたとか。我々にはその様なことはつい垣間見る事も出来なかった。常に健康な姿で人に接することを身上とする医師の使命を守っていたのだらうか。

 旅行にもよく同行した。彼は旅行中でも医師であった。或時、旅先の宿で同行者に点滴の手当をしていたが、今でも脳裏から放れられない。我々の為に、非常用の薬や血圧計等を持参、「医者附旅行」の有難味と安心感を十分に味わせて貰ったものだ。

 旅先ではワイン片手に色々の昔話、苦労話、現在のこと、将来のこと等時を忘れて語り合ったことも多い。彼は将来、病院の何室かをクラス用とし、自分が最後迄面倒を見たいと、よく話をしていた。まさか自分が、いち早く逝くとは思ってもいなかったのではなからうか。

 多勢のクラスが高橋に命預けますという鶴友会。毎週土曜に診察を受け、彼の顔を見、話を聞き、クラスと駄弁り、そば屋での一杯のミニクラス会が何よりの楽しみであり、又妙薬だったのだなあとしみじみ思う。他地区のクラスが羨む湘南勢の纏りの良さの裏に、彼の偉大な存在があったことが今にして身に泌みる。浄智寺の住職は海軍が大好き。軍歌を供養の為にと盛に所望した。密葬の後での「江田島健児の歌」、オペラ好きの彼の為に高崎が歌ったクラシック、そして前述の「同期の桜」と「海行かば」天空院龍猛宗典居士は果して如何に聞いて呉れたであらうか。多勢の人々の命を助けて、自分は逆に燃え尽きて了った彼。老醜を晒すことなく逝った

 彼、本当にあっけ無い幕切れであった。人生での最良の友を失った今、改めて彼に「有り難う」と頭を垂れ、その冥福を祈ると共に、「待って、呉れ」と頼むのみである。御夫人始め御遺族の方々が一日も早く力強く立直って頂くごとを望んで巳みません。

(なにわ会ニュース70号10頁 平成6年3月掲載)

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