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平成22年5月8日 校正すみ

☆高橋院長の死

 隆一

9月13日(月)晴

夕食後、老人のために、鎌倉まで車を出してくれて、午後11時ごろ帰宅してみると、家人は電話中。

玄関のドアをあけるなり、「あ、いま帰ってきました、タムラに変ります」

電話は高見夫人。「S病院の高橋院長先生が、昨日、心筋梗塞で急逝なさったのよ、わたし、すっかりビックリしてしまって。明日、午後2時から3時まで、ご自宅で告別式があります。そこでお目にかかりましょうね」

先生のお宅は、二階堂の山一つ越えた浄明寺。その夜は、ウイスキーを飲むと、フトンをかぶって眠ってしまった。

 

15日(火)  敬老の日

ぼくが高見夫人の紹介で、御成町のS病院に入院したのは、1970年(昭和45年)の秋が深まったころである。その年の9月初旬、東京を追い出されて、材木座の借家に住んでいたころのことである。高見順賞の選考委員の一人に加わったり、武田文章(麟太郎長男)が高見家に居候していたときのことで、その縁でS病院の高橋先生を紹介してくださったのだ。当時は、創業者の初代院長が亡くなったばかりのことで、高橋先生は院長代行だった。

どうして、先生に最初の診察を受けたのが、1970年だと分ったのか。過日、歴史年表を見ていたら、その年の11月25日、三島由紀夫が陸上自衛隊東部方面総監部 (市が谷)でクーデター」を呼びかけ割腹自殺をしているからである。

ぼくは1カ月ほど、急性アルコール肝炎という病名で、入院していた。回診に来た先生は、「ずいぶん、命を粗末にする人がいるものですな」と三島事件にふれた。「まったくです」ぼくも思わず同意する。その会話も、つい昨日のように思われるから、不思議である。

先生もぼくも大正12年生れ。あれから23年がまたたくうちに過ぎ去った。先生もぼくも、あの時、47歳だったのである。

午後2時すこし前、ミサコ運転の車で、ぼくと家内は告別式に参列する。先生のお宅にうかがうのは、はじめてである。病院関係者、鎌倉医師会、先生のおかげで健康をとりもどした患者さんたち、そして海兵72期の生き残りの戦友たち。飛行科のクラスメートの三分の二が戦死。高見夫人、本多秋五氏(「近代文学」創刊同人の生き残りのお一人。夫人が入院されていた由) そして、緊張した面持ちの初代院長のご子息で、外科医で理事長。

ぼくと家内は、先生に合掌してご安眠を祈るのみ。品のいいご夫人に黙礼する。

出棺のときは、軍艦旗につつまれた柩を、「同期の桜」 のパイロットたちがかつぎ霊柩車におさめる。親族を代表して、弟さんのご挨拶。立派な紳士である。その紳士が、一瞬、言葉をつまらせたときは、身を切られるようにつらかった。

医師会の長老らしい紳士が、お焼香の列に並んでいたとき、「高橋先生は、消化器の手術では、天下一品でしたからね。私に万が一のことがあったとき、先生をアテにしていたのですが、残念でなりません」と、ぼくにささやかれた。

高橋猛典院長先生「ゆっくりと、おやすみになってください」

(新潮45、平成5年11月号、退屈無想庵(34)から抜粋

(なにわ会ニュース70号41頁 平成6年3月掲載) 


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