平成22年5月8日 校正すみ
高橋 猛典君を悼む
向井寿三郎
あの日、9月13日の夜、水野から電話があったのは11時近くだった。電話口に出た家人の「水野さんからですよ」という声に、水野からの電話でいい知らせがあったためしはないが、はて今度は誰だろうと思いつつ受話器をとった。
「今夜、佐藤病院の高橋が亡くなった。心筋梗塞らしい。何時頃、何処でのことかはっきりしたことは分からないが、とりあえず知らせる」
えっ? なに? 高橋猛典が? シンキンコウソク?・
私は何度か水野の話の中に割って入った。傍らで電話のやりとりを聞いていた家人が、「あっ、猛典さんがー・」と叫び声をあげた。
ふだんから水野はこんなとき、口数の多い方ではない。低音のくぐもった彼の声の余韻のなかで、わたしは茫然としていた。
「相沢さんに電話してみたら」という家人の声でようやく我にかえった。相沢は起きていた。彼のところにはまだ何処からも知らせは入っていなかった。わたしの話が終わったあと、何秒かおいて相沢はぽつりと「ほんとうかよ」とひと言洩らした。沈黙の時間の長さと呟くような声の力のなさが彼のショックの大きさを示していた。
高橋の心臓に異常があるなんてことは聞いたことがなかった。日頃心電図をとったり、薬を飲んだりしていたのだろうか。周りの先生方や看護婦たちはそれを知っていたのだろうか。何時? 何処で? どんな風に? ドック仲間だった松原も心筋梗塞で亡くなったが、彼は倒れてから何カ月か経ってからのことだった。なのに、いきなりこんな報せを聞こうとは。
青天の霹靂というか、霹靂なら物蔭に隠れることもできよう。が、こんなときどうすればよいのか。水野の電話が何かの間違いであることを祈るしかなかった。
翌朝わたしは鎌倉へ向かった。駅を出て病院が近づくにつれ、次第に足が重くなった。病院に着いて事実を突きつけられ、一縷の望みを絶たれるのが怖かった。
高橋とは一号時代、同じ赤煉瓦の第3部所属だったが、教班がちがったのでそれほど深いつき合いはなかった。霞ケ浦でも飛行隊が別だったのか近くにいたことはなく、わずかに彼の、丸みをおびた女性的ともいえる飛行服姿が記憶に残っている程度であった。つき合いらしいつき合いがはじまったのは戦後、それもわたしが佐藤病院のドックに入るようになってからである。
はじめてのドック入りは昭和48年、江田島で1回目のクラス会があった年である。あちこち構内見学の途中並んで歩きながら、高橋からドックの話を聞き、その年の秋のドック入りをきめたのだった。このときはわたし1人だったが、翌年から相沢と中西が加わり、そのまた翌年からははるばる大阪から石井が、それに中攻の松原も仲間入りするようになった。爾来今秋まで21年間、一人二人の出入りはあったものの、グループでのドック入りは休むことなく続けてきた。
入院とはいっても、別にこれという体の故障があるわけではないし、ときには看護婦から、「皆さん、少しお静かに」とたしなめられながら、二泊三日の小クラス会を楽しんできた。むろんこれには、暇をみては猛典先生も加わった。
なかでも皆が最も楽しみにしていたのは、検査最終日の夕方、猛典先生の講評並びに訓示が終わったあとの打ち上げだった。われわれ患者のみならず猛典先生にとっても同様だったらしく、彼は、われわれが入院したその日のうちに会場を予約し、鎌倉近辺在住の期友にせっせと電話をかけてくれた。常連は市瀬、樋口、左近允、山田良彦、飯野といったところで、いつも総勢十人前後の打ち上げとなった。はじめの頃は富士もよく参加した。
彼は入院中のこともあったが、「今夜は侍医つきだ」とか何とか言いながら、ふだんは禁じられている酒を飲み、入院中でない時もぴたりと日時を合わせて病院にやってきた。今年の十一月には、はじめの頃のメンバー4人に飯野が加わり計5人でドック入りした。
退院当日の午後、空いた時間を利用して、揃って高橋家に参上し、猛典先生の御霊前に線香を上げてドック入りの報告をした。
例年どおり今年も、前記4人の常連の参加を得て、病院近くの鳥屋での打ち上げとなったが、主役不在の酒席はもう一つ意気が上がらず、いつもの石井の美声も開けなかった。
高橋はわれわれに、酒、タバコ、食生活その他健康の自己管理について、病院の内外を問わず事あるごとに戒めていた。小学一年生にとって先生がオールマイティーであるように、われわれにとって彼は、少なくとも病気に関しては全知全能に近い存在だった。まして慎重居士の彼に、自らの健康管理に手抜かりがあろうとはゆめ思わなかった。
今にして思う。多くの患者をあずかる医師として、また病院経営の責任をも負う院長として、彼がどれほど多くのストレスを抱え込んでいたかを。
小学生同然のわれわれは、彼に甘えすぎていたのだ。彼の背負っていたストレスを軽減させるどのような手だてがわれわれにあったかということは措くとして、「高橋倒る」の報に接し、「自分だけさっさと逝ってしまって、このあと俺たちはどうすればいいのだ」と、ふと頭をかすめた恨みごとのなかにある己の甘えの構図、もっと言えばエゴイズムを恥ずかしく思う。
私事を言えばわが家では、根が神経質な忰は高校の頃から、ほんのちょっとした体の不調でもすっかり猛典先生を頼りにして鎌倉通いをくり返してきた。女房も胃の検査やドックで何度かお世話になった。それにこんなこともあった。一人ではじめてドックに入ったとき、退院に際し猛典先生は、上等のスコッチを一本わたしにくれた。入院患者がお世話になった医師に贈りものをするということは聞き知っていたが、その逆の例は聞いたことがない。帰宅してわたしは、「俺の人徳の然らしめるところだ」と家人に誇ったものだが、ついに彼の誠実さとやさしい心根に、いささかも報いることなく9月13日の夜を迎えたのだった。
江田島卒業間際、教官から聞いた話のなかに次のようなことばがあった。戦場でクラスメートに看取られながら死ぬなんてことは、およそ望むべくもない僥倖であると。たぶんクラスの絆ということについての訓話の一環だったろう。もの覚えのわるいわたしだが、今にして妙に記憶に残っていることばである。
そのせいだけでもあるまいが、いつの頃からかわたしは、猛典に診てもらい、その上看取られて死ぬのなら、もって瞑すべし、いやもっと肯定的な心境、安らぎにも似た心境のうちにくたばることができるのではないかと思うようになっていた。
それが・・・。逆縁″ とでもいうべきか、
人の運命ほど計りがたいものはない。 (合掌)
(なにわ会ニュース70号11頁 平成6年3月掲載)