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平成22年5月8日 校正すみ

高橋 猛典君への弔辞

飯野 伴七

 高橋猛典君、君は最愛の奥さんご家族の皆さんに暖かい言葉を交す間も無く、また、吾々同期生や知人に「さよなら」を言うことも無く無常の風に乗って倉皇として天空に飛び立って逝かれました。深夜に電話連絡を受けた時には我と我が身を疑いましたが夢では無く現実の事でした。

我々同期生他多数の健康管理を見、診療してくれていた君が先に逝って了って今患者になっている私始め幾多の人の健康を守り、命を永らへさせて、君は自分の身を犠牲にして尽してくれたのでした。

今霊前に弔辞を捧げるとは逆ではないかと涙流れる次第であります。 私は海軍兵学校時代に2学年の時、分隊を共にし、隣同志机を並べて1年間過し、戦後横浜に移り住んでから佐藤病院の君を中心とした健康管理と医療を密に受ける鶴友会という同期生の輪の中に入り、2年10ケ月前に胃の摘出手術を受け、99%大丈夫と太鼓判を押されて退院し、現在健康に過しております。

君は仙台二中より優秀なる成績をもって72期生として海軍兵学校に入校し、昭和18年9月卒業後、飛行機に進み、霞ケ浦て練習機の、九州宮崎で双発中型攻撃機の、操縦術を修め、翌19年7月実施部隊に配属され、全国各地を始め、東南アジア、支那方面に出撃し、昭和20年2月から2ケ月程、上海の北の航空基地に戦闘と訓練を兼ねて駐留し、また、 私は当時上海の南の基地に展開していた戦闘機隊に属し勤務後夜間外出時水交社で時々顔を合せ、戦局を憂う一方、悲憤慷慨して互に闘志を燃やしました。

兵学校2学年同分隊には柔道3段の猛者、体操特級の軽業師、水泳特級の飛魚のような者がおり、その中で君は中庸理論的にして落ちついた温厚な言語動作でよく分隊の中心となって取り纏め、「一番楽しい兵学校生活を過した」と他の分隊員とも話し合ったもので、院長となってからも健康診断の後、健康を祝って夕食会を開く等特段の世話になりました。

君は戦中の行動戦果等余り話さないが、九州南端の基地より不連続線発達の悪天候を指揮官機機長としてよく突破、慎重哨戒飛行を続行して敵潜水艦を発見、爆弾攻撃し撃沈確実の戦果をあげて任務を完遂して帰還しました。また、上海においてP51戦闘機の奇襲を受けた時、訓練飛行中の君は訓練生から操縦桿を引ったくり急旋回して敵機の死角に入り逆方向から滑走路に緊急着陸し、尾部に敵弾20発、君も顔から血を流す程の接近戦を切り抜けました。守るべき戦闘機隊が奇襲に問にあわず、戦闘機隊の私は怒りをぶつけられました。

20年8月終戦により仙台に復員、翌年東北大学医学部に入学し、卒業後26年佐藤病院に赴任、消化器外科の若手医師として活躍、患者の診療に当る一万、医学の薀蓄研鑽の為、東大第二外科に通われ、学位を取得、更に腕を磨き、適格な診断施術は名医の名声高く、佐藤病院の発展に寄与、大病院に発展した大きな力であり、君の貢献誠に大なりと賞賛されております。

同期生の会合にはよく出席し、大きな目を見据えて出席者の顔を見て健康の助言をし、また、慶弔にも多忙の中実によく顔を出しました。人生に対する温愛人徳が滲み出ておりました.

君はこよなく音楽を愛し、クラシックのCD全曲を集め、ウィーンの音楽ツァーに参加したり、近年はオペーラ鑑賞に熱が入り、これも日本では物足りず、本場欧州へ行く程でした。毎晩眠る前に音楽を聞き、結構大きな音量を出して楽しんでおった由、多忙で厳しい医療の合間に安らぎを求めたのであろう。湘南地区の同期生夫婦を誘って、欣州・カナダへ音楽鑑賞をも兼ねた観光旅行に君夫妻が企画引率し、同行組は大安心大名旅行と感謝、今年も10月イタリア旅行出発の矢先でした。

一方、同期生のゴルフ会では3回の優勝を遂げ、これは多数会員中只2名の快挙であり、超多忙勤務の中、練習もプレー回数もままならぬと言い乍ら正確なショット、絶妙のパットをなせるはメスを握り微細な手術をする精神集中と相通ずるものがあるのではないかと感じます。

この7月には古稀の祝をし、元気で気迫充実しておりました。

君は健康管理には人一倍気を使っており、同期生は俺が看取ると言ってくれておったのに、ここに突然の死を迎え、幽明を異にするとは天なるかな、命なるかな、残念の極みであります。

我々同期生は親愛を込あて高橋猛典と呼んております。

猛典君さよなら。

平成5年9月19口

海軍兵学校第72期 なにわ会代表    

(なにわ会ニュース70号9頁 平成6年3月掲載)

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