平成22年5月8日 校正すみ
鈴木 哲郎への弔辞
東條 重道
謹んで鈴木哲郎君の御霊に申し上げます。
生者必滅の理はわきまえつつも、未だ五十路の半ば、男盛りの君とお別れせねばならないとは、まことに痛恨の極みであります。
いつもニコニコして大きな目玉から柔和な視線が一杯だった君、如何なる運命か、こんなに早く先立って行かれようとは。
思えば我等海軍兵学校72期生徒は、昭和15年12月海国日本の海の防人たらんと志し、江田島の地に勢揃いして以来3年、或いは学習に、或いは戦闘訓練に明け暮れたのであります。同期生の中でも若かった君は気力一杯でその訓練に耐え、人一倍の頑張りと真摯な服務で同期生からも敬愛された模範生でありました。端正なその挙措は人の注目を集めその所以を問えば、姉上様の躾の結晶だと答え、その麗しい姉弟愛に感服したことでありました。
戦雲急を告げる昭和18年9月繰上げ卒業して直ちに戦艦山城に乗り組み、太平洋戦争の戦列に加わったのでありました。間もなく巡洋艦利根に転属して、インド洋通商破壊戦、マリアナ海戦、レイテ湾突入等歴史に残る諸海戦に参加されました。かの苛烈な戦闘には機銃群指導官として敵艦載機と渡り合い、赫々たる武勲を打ちたてられました。弱冠20歳の君のどこからあの気塊が出るのか、冷静な指揮ができるのかとひとしく感嘆したことでありました。君の部下思いの優しい高潔な人格からほどはしり出た勇猛心の発露であり、武人の鑑といえましょう。
更に君は戦後荒廃の中から勇を振って再出発を決意し、同志社大学をおえ、株式会社クラレに入社し、数々の足跡を残して祖国の復興に献身されたのであります。
家にあっては良き夫であり、良き父であり立派な家庭を築かれ、我々同期生の羨望するところでありました。
鈴木君 哲郎君
君の打ち樹てられた勲功は末代に伝えられましょう。君の残された業績は、子々孫々に語り伝えられましょう。君の口癖だった言葉を借りて言えば、「男子の本懐」ではなかったでしょう。
以て瞑せよ。
鈴木君、今や幽明境を異にして声も届きません。願わくは心安らかにお休み下さい。さようなら。
昭和54年10月23日
海軍兵学校第72期代表 東條重道
(なにわ会ニュース42号20頁 昭和55年3月掲載)