TOPへ  物故目次

平成22年5月8日 校正すみ

鈴木 哲郎を悼む

 理平

 鈴木哲郎逝く

54年10月21日(日)夜、大阪なにわ会の富尾から電話で鈴木が今日午後、亡くなったと知らされた。一時、茫然となる。その予感はあったが、矢張り駄目だったかと自分に納得させるのに時間がかった。実は鈴木は大阪成人病センターに入院していた。昨年11月末、身体の不調から突然に入院し12月中旬に大手術を行い本年3月無事退院できた。春には出勤できるまでに回復したが、7月再び悪化し入院を余儀なくされ、闘病生活をしていたのだ。やせて食慾がなく下痢が続くのだといっていた。治療と精神力で回復してくれることを願っていたのだが遂に逝ってしまった。病名は膵臓がん。

10月22日(月)、夜、大阪府枚方市三栗の自宅で通夜が行われた。クラスと連絡を取り出席した。家庭は奥さんと二人の息子さんで静かな落着いた生活が、主人の急逝で大変な混雑であった。勤務先のクラレの方々の手によって葬儀の段振りが行われて、私共も協力させてもらった次第。クラレの入社が同期である常務の坂本実君が指揮を取っていた。彼は奇しくも海兵75期生で海軍では後輩である。読経が終り、夜更けた霊前にクラスの富尾、東條、河野、河口、菅井、伊吹、桂が輪になり集まった。奥さんの話では昨年ご主人の病名を知らされていたとのこと。私共が見舞に行った時には、その気配も見せられなかった。この1年苦しい思いをされたことであろうと思う。慰める言葉もなく沈黙し冥福を祈る。

本人は癌とは知らずに回復することに望みを托し、病気と戦ったのですとおっしゃった。鈴木よ、貴様はクラス会への出席率がよく、円満温和で世話好きで、何事にも頑張る性格の持主だった。こんなよい奴に限って何故に早くも世を去るのか、天命とはいえ惜しい。ちょっと横向きに構えて微笑んでいる遺影を仰いでいると、まだ貴様の死が本当とは思えない。

10月23日(火)、午後2時から3時の間、自宅で告別式が仏式(禅宗)にて荘重に行われた。導師の葬送の辞と読経の後、前記の坂本君の真情溢れる弔辞があった。続いてクラスを代表して東條が哀悼の辞(別掲)を献げた。焼香に移り多数の会葬者が別れを告げた。親戚を始めクラレ関係の人々、知人友人、町内会の人、海軍関係の人、そして最後に次男の同級生と思われる中学生の一団が続々と詰めかけた。海軍関係はクラス、コレスの京阪神在住者を始め東京方面や四国からもかけつけた。富尾は坂本君と共に家族に附添って「立礼」を行い、私も受付を手伝った。各自仕事があるにも拘らず30名に及ぶ諸兄が会葬して下さったことを、誌上を借りて厚くお礼申し上げます。長い焼香者の列が故人の徳を偲ばせた。霊柩車の出発を見送る時、彼の死は本当なのだと思い知らされた。

以上のような状況で鈴木を見送ったことを報告します。今は在天の霊よ、安らかに眠り給えと申し上げる次第であります。

 鈴木哲郎の思い出

@ 昭和17年度第4分隊二号として私は彼と共に学業と訓練に励んだ。大東亜戦争勃発の直前から1年間寝食を共にした。若き修業の時代の生活は記憶が生々しい。

眞崎、本間、清水武、亀井、難波、桂、太田正一、木村G、鈴木哲郎、伊吹、田村誠治、藤田春男のl2名がいた。二号とは一号生徒と三号の間にいて気軽でしめられることも少なく、自分のことをしておればよい身分だったと思う。クラス同志の交際に力が入った。その上、鈴木は天王寺中学出身で私は隣の住吉中学を出ているので、同じ大阪ということでもよく話が合った。互に体力強健とはいい難く小柄でもあるので、同じような苦労をした面があり、同病相憐れむところがあった。例えば短艇でオールを漕ぐ時に、懸命に漕ぐ割には非力で艇が進まぬ思いをした。

その短艇競技では4分隊の名が全校にとどろく事件があった。練習中は負けてばかりしていた我がクルーが競技となるや二階堂伍長(71期)の激励の下、一転実力を発揮した。

.(実は4分隊短艇は重たかったのだと推察する)予選第1戦に第1着となり「擢立て」をした直後に、2番の田村誠治のオールがゆっくりと孤を描いて倒れた。彼は心臓麻痺で絶命していた。田村の壮烈な死を見て全員は奮い立った。彼の写真を掲げて頑張る4分隊クルーは勝ち進み、遂に準優勝の栄冠を獲得した。田村の死を以って発揮した精神力を目の前に見て、青春の血を躍らせ番狂わせの離れ技をやってのけた。卒業後、太平洋戦線に出撃して行ったが、この不幸な出来事が予見していたかのように、敗戦の日に生残った二号は僅かに3名のみであった。鈴木はその中の1人だった。

A 彼は練習航海の後、重巡利根に乗組み印度洋通商破壊作戦を手初めにサイパン沖、レイテ沖海戦に参加し武勲をあげた。内地に帰還して新造の駆逐艦柿航海長に赴任した。私は既に柿と同型艦の桜航海長として瀬戸内海で訓練を受けていた時、柿が訓練仲間に入ってきた。新米の航海長は艦長や戦隊参謀から叱言を貰うことが最も多かった。出港は問題がないが、航海長の役目として入港する時、指定の錨地に間違いなく投錨するのが中々むずかしいのである。旗艦から「よろしい」という信号が出ない時がある。これは全く航海長の腕前の問題なので大汗をかきながらやり直しをしたこともあった。訓練に出動する度に、最終の作業として投錨する航海長たる者は最後の瞬間まで緊張をしていたものだ。

 次ぎに艦隊運動訓練でもキツクしぼられた。旗艦を中心にしてジグザグ運動を行いながら針路を変換する時や一斉回頭の信号により転舵する場合に、旗艦に対する関係位置を崩さないように調節が必要だった。相対運動の原則を理解しない馬鹿者とののしられた。いろいろと失敗したが上達することも早かった。今から考えると徹底して教育されたことがなつかしい。この練習水雷戦隊では、駆逐艦の航海長はすべて我がクラスだった。うまくできた時「その艦の行動は良好なり」との信号をもらった時は艦長と握手して喜んだものだ。私共の艦は鈴木より一足先に戦場に出た。彼も同じ苦労をしたことだと思う。

B 年月は流れて戦後も10年を経て、大阪で再会した。その頃は日本の復興が緒についた程度で互いに生活に追われていた。大阪なにわ会に出席すると彼の顔があった。爾来、20年余、交際が続いた。最も記憶に残ることは4分隊会を京都でやることを推進し、鈴木と一緒に幹事として慰霊祭を行ったことである。

昭和51年秋、4分隊会が東京で初めて開かれた。彼は上京して出席し戦死者の慰霊を是非実現したいと提案した。前述のように2号の戦死者が多く慰霊祭をやらねばならないと決心した模様である。縁あって二階堂伍長の知己が京都南禅寺にあり、翌52年11月実現した。今にして思えば異状な執念と好運により実現したものだ。心からの慰霊祭を終了した後、彼が作った「経過報告」は都合悪く出席できなかった遺族、戦友に送られたが、遂に彼の絶筆となってしまった。義理堅く几帳面で海軍をこよなく愛していたことを知ることができる。その全文を発表して彼の志すところを公にしたい。

第四分隊戦死者法要並びに分隊会報告 (鈴木哲郎の遺書)

   

 昭和52年11月19日、名利京都南禅寺、法堂そそり立ち、境内の紅葉秋の陽に輝く。青年の一僧、五尺の板を山門前に掲げ傍に侍す。

「海軍兵学校第四分隊法要 於僧堂」

山門を訪う観光客等しく目を留む。三々五々会する者 定刻専門道場に集う。抹茶を喫し暫時挨拶など。

 本堂より開式の鐘鳴り始む。仏前に向って左側に一同着席。やがて僧侶の入場あり、向って右側15名の修行僧五列に坐して壮観なり。正面に向って4名の侍僧、全て墨染の衣、清楚なり。管長勝平宗徹師金欄の衣をまとい入場正面に坐す。

「只今より追悼式を行います。まず追悼の辞」

二階堂伍長、仏前に進み追悼文の包みをとく。往年の将校生徒既に頭に白きを加え、額に皺を刻むとも、音吐朗々、時に声沈めて呼びかける如く、悠久の大義に生ける士を悼む。万感胸に迫って涙滂沱、田村生徒の壮烈な殉職の状景今に見る如く、当時の結束固き第四分隊の面目躍如。戦死者の氏名階級、戦死の日、戦死の場所、一語を切って噛みしめる如く延々と続く。斯くも多くの友逝きしか。都度一人一人の若き勇姿を想起す、長文の追悼の辞朗読終る。

管長の回向、声穏やかなれど力強し。続いて起る読経、侍僧唱和して20名の音吐本堂にこだます。やがて焼香、見上ぐる位牌に又涙す。全員の焼香済めば又全戦死者の名を呼びて浄土に赴かす読経なるか。式を終って管長を先頭として一堂の僧一列となって退場。

一刻の静寂と虚脱感。控の間に退き茶菓を供せられる。勝平管長を中心に暫しの懇談。彼は東大哲学科出身の予備学生、かつて二階堂伍長の部下として特攻を志願、その要員たり。今や大本山南禅寺の七堂伽藍を統べる管長なり。修行僧の厳しき鍛練の模様を謙虚に語らる。局限の苦行の中に仏道の本然をさぐる。これ兵学校の訓練に等しきにあらずやと。4時に到り辞去す。

古き町並を辿り会場を京料理美濃吉に移す。伍長挨拶、各自の自己紹介、欠席者よりの来信披露、故人の遺墨写真を回覧、特に藤田の詳細なる日記は昭和17年5月19日、田村殉職の記述あり、感深し。木村の寄せ書き、思いもかけず吾が筆を見る。

これは誰の字、真崎の字か、田吾作と自称せるは本間なるか、長門の国の住人は清水なり。当時の厳しくも楽しき思い出彷彿とす。

ご遺族の大事に蔵せられし遺品、墨跡しるとも紙片ほころび写真変色す。幾度この上に父母の涙注がれしか。9時に及び解散す。

京洛 土曜の夜、ネオン輝き雑踏激し。吾等又、感傷の世界を去って裟婆に戻るか。

(編注 左は伊吹明夫あてに送られた転職挨拶状の一部、「身体の方も大分元気になりました」と添書きしてあるのがいたましい)

(なにわ会ニュース42号6頁 昭和55年3月掲載)

TOPへ   物故目次