平成22年5月8日 校正すみ
鈴木 脩さんを悼む
山田 穣
72期の生徒には、冬季休暇を取り上げた代償として、一夜の夜間レクリエーション(今様カラオケ大会)が催された。そのイベントの詳細は忘れたが、上級生徒の不在であることが何よりも嬉しかった。
わが13分隊は、戦死した戦闘機の渡邊C實の司会により、私が得意の「箱根の山」を高歌放吟、喝采を博した。
私としては、マアーマアーの出来であったと思っていたが、鬼の住む生徒館では思い出すことも許されず、私もこのようなイベントがあったことすら忘れていた。
それから1年位たって、何かの用で偶然に鈴木に逢う機会があった。何を話したか、要らぬ詮索はさておき、鈴木が言った。
「大那沙美で箱根の山を歌ったのは山田だな」
凄いなア、歌の威力だ!と私は思った。そうは言いながらも内心忸怩たるものを感じていた。正にその時の偽らざる感想であつた。
昭和18年9月海兵卒業予定。当時の海軍では、卒業後の希望進路を聞いてくれた。その時代の寵児は飛行機であった。飛行機にあらずんば、人にあらず、という極端な考え方もあった。
然し、私は高所恐怖症で高いところに立つと、足が震えて立っておられない。そこで深く考えることなく潜水艦を選んだ。
もしも、潜水艦が定員一杯のときは、水雷戦隊か駆逐隊を希望した。そして私は、八雲、龍鳳乗組を経て、鈴木と共に潜水学校第11期普通科学生に任命された。
昭和19年8月15日、同校卒業。卒業生の主たる戦闘配置は、第1潜水隊(イ13潜、イ14潜、イ400潜、イ401潜)、第15潜水隊、それに回天特別攻撃隊であり、私はイ53潜、鈴木はイ13潜であった。
鈴木はイ12潜を見送りにいった時に降雨にあって風邪をひいた。私も鈴木ほどではなかったが風邪を引いて基地隊の病床にお世話になった。鈴木はこの風邪が因縁で、呉病に入院し横団付となった。
あの勇将大橋教官を艦長と仰ぎ、彼は新鋭艦で為すところ大なるものを期待されていたが、病には勝てなかった。
大橋艦長指導のもと彼の優秀な頭脳をもって、潜水艦乗りとしての大成を見たかったものである。
鈴木は何のために働くか、と言う事に大義をもっていた。彼は死ぬまで「身体さえ動けば何であるかは問わないが、世のため人のために働くべきである」と喝破していた。
彼は「人生美しく老いると言う人生観」を強調していた。この事については、彼は一切の妥協を許さなかった。
私はこれが何よりも、鈴木の真骨頂であったと断じて間違いはないであろう、と今でも思っている。
鈴木の覚悟をもった美しき老後のあり方、「酔生夢死」は断固として拒否した鈴木大僧正。 私の尊敬する鈴木には多少の遊びの余裕が欲しかった。しかし、これまた天命なる哉、ご冥福を祈るのみである。
彼は現役を退いても、働くことの意義にその持てる命の限りを使い果たした。彼の人に勝る点はこの一点にある。
私は彼の「生きる=仕事をすること」との信念を承知したとき、この勝負は余輩の負けた事を知った。
子曰く「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり」と。
鈴木のペインクリニックは、本人が整形外科医の同意書さえ貰ってくれば、その患者には保険で東洋医学の治療を施してくれた。 嘗ての私の如く、貧乏で動けない患者には、高額な鍼灸治療など受ける方法がなかつた。
ところが鈴木は患者宅へ出張しても、交通費以外は総べて保険で治療できるという。いかにクラスといえども話が上手過ぎてご遠慮申し上げた。 然し、一方的に鈴木にまくし立てられて落城したのは私であった。
事の顛末、こんな患者に都合のよい話は、天下の鈴木が奉仕の精神でやっているから出来たことで、言うならば私の運が最高に大吉であったことにつきる。
若干付言するとこの勝負はその後鈴木も体調を損ね、両者共にノックダウンで、強いて言えば、「はこねのやま」脩着か?
その後、鈴木が入居した杉並のシーダ―ウォークという施設は極めて立派で、まるで一流ホテルのようであった。
私は社会の進歩の速さに驚くと同時に、このような立派な施設を先駆けて使用する事が出来る鈴木を、正直、羨ましく思った。
私は鈴木に対して「羨ましいぞ、鈴木.立派なお子様達に囲まれて!」と言うと鈴木は顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。
その後彼は自宅近くの千葉の病院に移った。これもまことに立派な施設であつた。私は昨年の秋、最後の見舞いに訪れた。然し、その時果たして鈴木はこの俺が誰であるか分かって呉れただろうか。
鈴木との出合いは「はこねのやま」で逢い、前段の両者ノックダウンで脩着(終着)して終った。
考えてみると鈴木が老衰的な病名で、しかも医学の心得も我々より深いにもかかわらず、己の死期にまったく気がつくことなく死んでしまったということは簡単には理解できない。
鈴木の次男に優秀な医者がいる。彼の有名な河北の副院長で、前記シーダ―ウォークはこの病院の経営する施設である。尊敬すべき父親をたとえ3ヵ月でも、自分の関係する施設で面倒をみることができたのは最高の贈り物であったと思う。
鈴木君!君に与えられた天与の80数歳は、イ13潜から呉病院に入院した時期を最悪として、馨り高く、悩み多き、短い海軍の5年間から、残る終戦後の60年間はフリーパスの千葉の鈴木であった。
当然君なりに目標を定めてあったと思うが、何か書いた物はなかったのであろうか。然し、そんな在り来りのものよりも、不言実行を貫きとおした鈴木魂こそ、至高至純の人生に最高の輝きを放っている。
心から脩君のご冥福を祈る。 合掌!!
(なにわ会ニュース96号11頁 平成19年3月掲載)