平成22年5月15日 校正すみ
真にネイビーらしい男との永別
都竹 卓郎
少々キザっぽく聞こえそうな言い方で気が引けるが、「真にネイビーらしい男が、一人去った」というのが、彼の訃を耳にしたときの咄嗟の実感であった。長い臥床と芳しからぬ病状は兼ねて聞き及んでいたのだが、なお吹っ切れぬ無念の思いが胸を噛んだ。
ネイビーらしさとは何かと問い返されると、ちょっと一口には答えにくいが、個人的には crisp という英語が一番ぴったり来るような気がしている。辞書には、「きびきびした」、「歯切れの良い」、「明快な」といった訳語が並んでいるが、もともとは乾物のあっさりした味覚を表す言葉らしいから、後味の悪さを全く残さない、一種さわやかな立ち振る舞いといった含意もあるのだろう。英語の native speaker ではない私の、勝手な独り合点かも知れぬが----------。
ずいぶん昔の話だが、長い在日経験を持つヒューズ・バイアスという米人ジャーナリストが、開戦直後に著した敵国日本(Our Enemy, Japan) という本の中に、「日本海軍の士官たちは、概して好感の持てる人種である、在京外交官の夫人連にはとりわけ評判がいい -------」と書いていたのを、戦後まもなく「岩波」から発刊された雑誌「世界」(中野五郎訳)で読んだ記憶がある。勿論、この本の主眼はそんな他愛ない話ではなく、日本の対米開戦決意が海軍の同意の下になされたのなら、戦争の行く手は容易ではないという、むしろアメリカ国内向けの警世のメッセージだったのだが、ともあれ敵国の知識人の目にもそんな風に映じていたという事実は、覚えて置いていいことだろう。
海軍も広く、国民大衆に根を持つ組織だから、世間一般とまるっきりかけ離れた社会であろうはずがなく、また何から何まで結構ずくめのユートピアなどでは勿論なかった。
生まれも育ちもそれぞれ異なる一人々々が、そのようなネイビー気質に同化してゆくには、さまざまな個性とのすり合わせ、時には相克もあったのではなかろうか。
ただ、昭和15年12月の生徒拝命から、20年11月末の予備役編入まで、まる5年の間にめぐり合った人々の中には、天性ネイビー向きで、いささかも力んだり、ことさら精進を心がけることもなく、ごく自然にその気風に溶け込んでゆけた、まさにネイビーになるためにこの世に生まれて来たかと思えるような人物が、たしかに何人かいた。私の場合、「大和」で戦死された71期の臼淵 磐さん、戦後ご縁が出来た方では67期の田中一郎さん、そして我がクラスでは鈴木 脩がそうであった。私も居合わせたある席で
「海軍というものがあったお陰で、本当に気持ちよく若い時代を送らせてもらった」
と述懐したことのある彼は、終生ネイビーのつもりでいたように思える。
あのような戦争がなく帝国海軍が存続していたら、彼はいずれ中央の省部に然るべきポジションを得て、それこそ外国大使館の夫人たちから好感を持たれる存在になっていたのではなかろうか。そんなとりとめもないことを考えながら、この駄文の筆を擱く。合掌。
(なにわ会ニュース96号11頁 平成19年3月掲載)