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平成22年5月8日 校正すみ

心友白根君の思い出

澤本 倫生

 白根行男君が死んだ。彼とは麻布中学1学年以来の親友である。当時、彼は自由が丘に住んでいたので、学校の帰りは、何時も一緒に、渋谷か、今は無くなったが並木橋まで歩いた。

 いろんな話をしたが、将来の希望等の話で、私は「僕は兵学校に入って、海軍士官になるのだ。」 と言った。 白根君が兵学校に入ったのはこの時の会話の影響が強かったと思う。彼は、私の苦手な音楽、図画、習字が得意で、彼の弟さんは有名な画家である。

  昭和1512月、2人とも見事合格した。 彼は3部、私は4部だったから生徒館は向かい合いたったが、何かあると、会って情報交換をしていた。 戦後もそうであったが、彼はいろいろ情報通だった。

卒業後、彼は当時初めて設置された航空兵器学生になった。字生長は、70期の渋谷さんだった 渋谷さんも麻布中学出身である。(兵器学生を卒業してから、渋谷さんが私を兵器学生に推薦されたらしい、ところが、人事部は、私が命を惜しがっていると思ったらしく、妙な電話を受けたことがあった。

戦後、彼は大阪でお父さんの仕事を手伝っていた。それで、山田 穣と仲がよくなったのだと思う、山田も白根と気が合っていろいろ助けたことだと思う。

昭和30年だったか、当時出来たばかりの相武カントリー・クラブに2人で入った。ハンディキヤップは彼が10で私が18だった。品川 弘が元気だった頃、一緒に回って、白根が坂元に、皇后陛下に関する失礼な質問をして、その直後とんでもないボールを打って「罰が当たった」と大笑いしたことがあったが、これを知るのも、坂元と私の二人だけになってしまった。

彼はなぜか、「貴様には恩がある」 と言って、しばしば築地でご馳走してくれ。「何もしていないよ」 と言っても、「恩を掛けた者は忘れるが、恩を掛けられた者は忘れない.」 と言ってとうとう教えてくれなかった。

本当に、良い友を失った 残念だが、こちらも、あの世にいくのも、そう遠くない。

また、天国で会うことを期待して潤筆する。っとも、私が天国にいけたらだが。

(なにわ会ニュース88号14頁 平成15年3月掲載)

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