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平成22年5月8日 校正すみ

清水さんとの思い出

     高田 幸雄(予学13

 昭和19年6月、大村海軍航空隊元山分遣隊は、3ケ月間の仮住まいであつた大分基地を後に本拠地の元山基地へ移動した。

 移動後間もなく我々第1分隊の分隊士として、兵72期の清水中尉が着任された。

 ある日の別科の時間に、久し振りに少々心得のある柔道でもやってみるかと柔道場に乗り込んだ。柔道着に着替え弱そうな相手を物色していると、

「願いやす」

 と言って小生の前に現れたのが清水さんだった。見れば彼は黒帯である。小生は中学時代まだ紫帯、嫌なのが来たなと思ったが、断る訳にもいかず、

「お願いします!」 と見かけだけは元気よく立ち上がったものの、始めから腰が引けていた。案の定、技をかけようとすれば、反対に投げ飛ばされ、散々な目にあつたのが

清水さんとの個人的な出会いであつた。

 それから数日後であつたと記憶するが、小生マラリアに(かか)った。当時元山基地には南方帰りの兵隊さんのおみやげのマラリアが蔓延していた。小生も有り難くそのお裾分けに与り、入室という惨めな生活を強いられることになった

 ご存じの通り、マラリアという奴は、478時間ごとに、ガタガタ震える悪寒と共に40度前後の猛烈な高熱に襲われるが、熱の出た翌日は少々だるいだけで、普段とさして変わらぬ生活も可能だった。

そんなある日、ベッドに寝そべっていると、「オイッ!戦術の試験だ」と言いながら、清水さんが入ってこられた。慌てて起きあがった小生に、足下に押しやってあった食卓を胸元まで引き寄せてくれ、その上に裏返しにした答案用紙と鉛筆を置くと、航空時計を見ながら、「時間は只今から1時間。ヨーイ、テツ」 同時に小生は答案用紙をひっくり返して問題を読み始めた。・・・ところが、何やら難しい文章で、訳のわからないことが書いてある。          

大体戦術の時間など、微かに聞こえる午後の四点(しょう)を伴奏に、教官の講義を子守歌代わりに、夢と現の間を彷徨(さまよ)っているのだから、判る方が不思議かも知れない。設問の意味がからなければ答えなど書けるわけがない。    

清水さんは病室の隅から、ガラガラと椅子を引っ張ってくると、またがるように後ろ向きに座り、背もたれの上に腕を組み、その上に顎をのせてこちらを見ている。やりにくい、途方に暮れて鉛筆の尻で鼻の頭を叩いていると、

「なんか書けよ」

 とおっしゃる、そんなことを言われたって分からないものは書きようがない。

「ハァ…」

 と生返事をしていると

「名前ぐらい書けるだろー」

 ときた、成る程これは小学校の時から書き慣れている。喜び勇んで分隊名と姓名の八文字を一気()成に書き上げると再び筆が止まってしまう。腹の中では、筆の動くままに、有ること無いことでたらめを書き連ねて、それらしい答案に仕上げるという学生時代からの得意技を発揮する準備はできているのだが、こうジロジロ見ていられては、見え透いた嘘は書けない。ついに意を決して、恐る恐る頼み込んだ。

「分隊士……すみませんが、あっちを見ていてくれませんか」

清水さんはそれと察したかどうかは判らないが

「そうか」

 と言って、向こう向きに椅子に正しく座り直すと、ポケットから文庫本のようなものを取り出して読み始めた。

 待っていましたとばかりに、小生が設問の意を解するのに苦労したと同様に、教官が答案の意味を解釈するのに苦しむだろう文章をでっち上げた。どうせでたらめなのだから読み返す必要など毛頭無い。清水さんもこんな陰気なところに長居はしたくないだろうと、早めに、

 「分隊士、出来ました」

 と言うと、

「オー」と答案用紙を持って帰って行かれた。 昭和19年8月10日我々が戦闘機教程を終了すると同時に、大村海軍航空隊元山分遣隊は解隊、元山航空隊が開隊された。

 早々と中攻や、ダグラスで、フイリッピンやマレー方面へ赴任する友を「帽振れ」で見送っているうちに、小生にも第1航空艦隊付の辞令が下る。当時1航艦の司令部はダバオにあったはずだが、何故か小生の行き先は松島空であつた。荷造りをし、行李に荷札をくくりつけているとき、あの運命の「Me163に充つ」の電文を読み上げてくれたのが清水さんだった。ヒョツとすると清水さんは私の命の恩人だったかも知れない。

 空技廠のモルモット生活を皮切りに、五里霧中の飛行訓練を続けること7ケ月、昭和20年2月5日、秋水隊が第312海軍航空隊となって間もなく、突然「オイッ。元気か?」と言いながら、我らの私室兼ガンルーム兼会議室に清水さんが入ってこられ、聞けば我々第1分隊の分隊士とのこと。これで犬塚分隊長・清水分隊士、それに16名の悪ガキ少尉達という世にもまれな分隊が出来上がったが、搭乗員は相変わらず山崎分隊長とソアラーの教官・教員を含めて21名しかいなかった。

 3月2日から約半月間、小生が鹿屋空へ出張している留守の間に、312空はその名に恥じぬ大部隊となって霞空に移動していた。

 霞空に帰ってからは、訓練は午前・午後・夜間と忙しく続いた。そんなある日、清水さんと編隊を組んで、鹿島灘へ射撃訓練に出掛けた。後下方攻撃だったので、吹き流しに近づく頃には、速度も落ちて標的の状態が比較的よく観察出来た。

 帰投するや、清水さんが尋ねられた。

 「どうだった?」

 「ハイ、吹き流しが穴だらけだったですよ」

 「そうか」

と言って大変喜んでおられる様子だった。やがて曳的機が帰ってきて吹き流しを投下する。早速吹き流しの弾痕探しに出掛ける。ところが一発も当たっていない。

「なんだ、一発もあたっとらんじゃないかー」 と大分ご機嫌斜めの様子であつた。

 考えてみれば、(しらみ)でも探すようにしなければ見つけられない弾痕が、如何に低速であれ、すれ違いざまに見えるわけがない。小生が弾痕と思ったのは全て弾痕確認済みのスタンプであつた。オツチョコチョイはこの件で大分カーブを下げたようであった

 敵襲の合間を見ては、飛び立つという飛行作業を続けるうちに、あの忌まわしい7月7日がやってきた。

 海軍葬も終わり、山崎分隊長がご遺骨を、小生がお写真を抱いて、世田谷の犬塚少佐のご自宅までお送りした。

 帰隊して夕食をすませると、秋水と付き合ってからの一年分の疲れが一気に吹き出したような気がして、空蝉(うつせみ)状態でソファーにへたり込んでいると、隣に清水さんが座られて、 「あんたも、もうすぐ飛行隊士や飛行士をやらなければならんのだから。練習のつもりで秋水の事故報告書を書いてみろ」と言われた。文章を書くことが苦手な小生ではあったが、これはとても名誉なことに違いないと自惚(うぬぼ)れて、「案スルニ」だか「検スルーニだか、どっちだか忘れてしまつたが、何でもそんな厳めしい言葉で始まる報告書を書き上げた。最後に決まり文句の「搭乗員は技量未熟にして、云々」つまりこの事故は搭乗員が下手くそだから、搭乗員には責任がないという一言を付け加えねばならないのだが、決まり文句とはいうものの、犬塚分隊長に対して「技量未熟」とは甚だ失礼なことと思い、筆が重かった。

とまれ、出来上がった海軍罫紙を携えて清水さんの部屋をノックした。

 清水さんは書類に目を通すや、

 「なんだいコリヤー!書き直せ!」 とけんもほろろに書類を突き返された。書いては突き返され、書いては突き返され、なんでも3回ほど書き直して最後に書類を届けたのは、23時を大分回っていた。

 清水さんはベッドの上にひっくり返っていたが、座り直すと何回か書類を読み返しておられる様子であつたが、

 「うん、良いだろう、飛行作業に差し支えるといかん、早く寝ろ」

とやっと無罪放免となった。

 その後あの報告書が、そのまま或いは少々手を加えられて提出されたのか、それとも紙くずかごに放り込まれて、全然別のものになったのか小生の関知するところではない。数日後、小生も先の短い命だから、滑走路わきに伏せていた小生の目の前で、地面を蹴って飛び立った秋水を絵にして残そうと思い立ち、脳みその中の残像を頼りに描き上げたところへ、清水さんが私の部屋にこられて、「俺にも画いてくれよ」と云われたが、その暇もないうちに終戦になってしまったので、復員の際その粗末な絵をお世話になったお礼に差し上げた。

 戦後、何年目か失念したが、清水さんからの年賀状が来なくなり、気になっていたが、数ケ月後1通の手紙を頂いた。肺を患い手術して片肺飛行になり、いつ墜落するかと心配しながらも晴耕雨読の日々を送っていること、公傷に認定してもらおうと復員局に通い、あなたに画いてもらった絵まで持ち出して交渉した結果認定してもらったこと、あの絵は額に入れて大切にしていること等の内容であつた。

 その後、秋水搭乗員会にもお誘いしたが、遠出は無理なので欠席するとのご返事を頂いていたが、搭乗員会当日、同期の飯野伴七氏が代理で出席され、「清水からこれ預かってきたよ」に差し出したのが、付箋のついたあの絵だった、何十年ぶりかで絵に再会した喜びよりも、下手くそな絵を今日まで大切に保管して頂いたことに対する感激のあまり飯野氏に絵を持たせたまま、しばしものも言えず立ちつくしてしまった。

一度お訪ねしなければと思いつつ、とうとう戦後お会いすることなく、清水さんは昨年他界されてしまった。今頃乗り慣れた零戦に乗って、花野の上を悠久の地に向かつて飛び続けておられることだろう。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げる。合掌

 

この記事は秋水会の三浦 節氏(兵70期)から都竹卓郎に送られたもので、秋水第9号に掲載されたものである。平成十年に亡くなった清水 淳君のことが書かれている。秋水会及び高田氏のご了解を得て転載した。 (編集部)        

(なにわ会ニュース92号78頁 平成17年3月掲載)

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