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平成22年5月8日 校正すみ

五十九年振りの清水淳
湘南歩こう会・松崎行き

泉 五郎 

 「湘南歩こう会」の幸田正仁からお誘いがあつた。伊豆松崎へ行くという。 少々遠いが、松崎には二号同分隊で兵学校卒業以来会ったことのない清水淳が居るから、彼に会えるのなら行つてもよいと返事した。聞けば幸田も上野三郎も四,・三号が同分隊であったとのこと、短時間でよいから彼とも会えるようはからって呉れるよう頼んでおいた。所が出発の前になって幸田が風邪でダウン、急遽中井末一を世話役に平成14年11月20日松崎方面に出かけることになった。

 大船で草野夫婦と合流、その後東海道線鈍行の車中で参加者も(そろ)い、沼津では先着浦本の出迎えを受けて沼津港へ。
 巡航速力25節、高速船コバルトアロウは就航間もないと見え、中々奇麗な船であつた。港外に出るとガブルから、成るべく船尾の方へお乗り下さいとの船内アナウンスがあつた、成るほどガブリようは相当なものである。しかし我々には久しぶりに塩気が戻ったようで気分甚だ(そう)快。  


 荒馬の はやるが如き 高速艇  西伊豆の海 波蹴立て行く


 沼津港を出ればすぐ左手に御用邸、更にその先に三津浜が見える。昭和20年3月、第6潜水隊呂59潜乗組み時代、横須賀からはるばるこの三津浜まで航海したことがある。主たる任務が久里浜の水測学校の標的艦であつた呂59潜が、三津浜に入港したのは乗組員慰安のためである。戦局苛烈を極めたこの時代、誠にけしからん話ではあるが、乗組員慰安というより、艦長兼司令ご自身のためでなかつたかと思われる。実は大佐の司令といっても潜水隊の編成は、石津滋乗組みの呂57潜とたったの二隻、それにどちらも実戦には出られない大正生まれの老朽艦である。艦もボロなら艦長も超ロートル、戦争も末期的な、なんともたるんだ話であった。それはさて置き、私にとつては良い経験をさせて頂いたともいえる。それまでは浦賀水道を行ったり来たりという程度、伊豆半島沿岸の陸測航法とはいいながら、航海長として外洋を航海するのは初めてであつた。勿論水上航走であったが、既に伊豆半島沿岸といえども厳重な敵潜に対する警戒は必要で、当時は景色を観賞する余裕など無かったのかも知れない。
 今改めて船に乗り、ゆっくり眺める伊豆半島西海岸は絶景の連続である。後を振り返れば(わず)かに雪を頂いた霊峰富士の姿が神々しい。しかし、昔眺めたであろうこの美しい風景も、そう言えば見たような気がするといった程度である。よく知った人の名前も即座に出ない昨今であるが、誠に情けない。途中寄港は土肥、堂ヶ島、共に海から見る景色は素晴らしい。時の経つのも忘れて、あっという間に松崎に入港、出迎えの民宿の車二台に分乗して雲見温泉へ。途中下車して展望台のある雲見山の頂上までハイキング、歩こう会の本領である体調不十分の浦本、草野夫妻を除き、残り全員勇躍山頂へ向う。全行程約2キロ、精々100メートル程度と高をくくったのがいささか軽率であつた。一昨年袋田温泉での難行苦行とまではいかぬが相当な悪路、枯れ木の杖を頼りに悪戦苦闘、ようやく二ヶ所の展望台を巡回。

やんぬるか江田島健児のなれの果て  雲見の坂にあご出しにける

 頂上は生憎の薄曇り、それに夕暮れには少しばかり早過ぎて、折角の展望台も落日の絶景は見られず、名前通り雲見だけに終ってしまつたが、先ずはやれやれというところであつた。下山地点で再び民宿のバスに、雲見温泉は(ひな)びた港町であつた。もとは急な山間から流れる細い渓流沿いにひらけた漁村であつたと思われるが、戦後の温泉ブームに民宿が沢山開業したのであろう。一寸した砂浜もあり外海と港を遮る小島越しには冨士の麗姿が遠望できる。夏は海水浴客で賑わうらしいが、伊豆半島など何処を掘つても温泉は出ると見え、ちっぽけな民宿でも軒先を塀で仕切た露天風呂なるものがあった。もつとも五六人も入れば満員、男女混浴とは参らず、貸切りの宿ながらご夫人方には大変ご迷惑をおかけした。
 総勢11人、夜の宴会は大変盛り上がった。当夜の主役は浦本生、普段のとぼけた脇役が此の日ばかりは大張り切り、ご持参の無色透明な鹿児島ジュースで皆さんを煙に巻いた。
 翌朝、伊勢海老で出汁をとつた味噌汁の味は絶品、馬鹿の三杯汁といきたかつたが、一杯だけでおしまい。9時出発、松崎の市内観光へ。ここでも帝国海軍の有難さ、上野が天城の甲板士官時代同じ天城乗組みの主計科員だった馬場哲男氏から、上野の来訪を知って、昨夜はビール1ダースの差し入れ、今朝は清水淳の家まで上野と私を車で送迎して頂くという歓迎を受けた。 
 聞けば清水家とも旧知の間柄、清水家は先代が町長を勤めた松崎の名家で、彼が病気などしなければと大変残念な様子であつた。ご自身も町会議員で活躍、そして半分は海軍という松崎の桜会では、戦没者慰霊のため、毎年市内街道に桜並木の植樹を続け、今年でその数なんと四千五百本になるという。この話には大変感動した。
 肝心の清水家訪問は時間の都合でゆっくり出来なかったが、なにしろ兵学校卒業以来である。予め連絡がなければお互い即座には認識出来なかったかも知れない。もっとも上野だけは相変わらずの好男子だから分かったかも知れないが、清水も相当な変貌振りであった。 
 生徒時代水泳が達者で素晴らしい体型、そして端正な面立ちだった彼も、終戦間もなく左肺摘出という大病に痛めつけられて流石に声も弱々しく、ストマイなどの薬害に耳も不自由、いささか痛々しかつた。しかし案じていた割には元気そうであったのには安心した。元山空時代の愛機であつた秋水、それが最近三菱名古屋で復元展示され、そのオープンセレモニーには会社から鄭重な招待をうけた話など、あっという間に時間が過ぎていった。奥方共々是非昼飯でもというお誘いも断り、皆と合流のため早々に退去することになったのは誠に残念であった。 
 松崎の見所は重文岩科学校、昔の小学校時代を思い出して懐かしい。他にはなまこ壁で有名な街並みや旧商家など。
 こてえ鏝絵で有名な伊豆の長八美術館は「江戸と二十一世紀を融合させた建物」という振れ込みであるが、(ざん)新と言おうか奇抜と言おうか、私にはおよそ町並みにはそぐわない、独りよがりの建物のように思えた。あれでは名人長八の作品が泣く。松崎の人には申いが、「丸(まげ)にドレス」とでも言いたいくらいである。建造物のみならず、由緒ある地名を廃して、やたらとカタカナ名を付けたら恰好よいと思う世相が情けない。 
 松崎で感心したのは、個人経営の小さな施設ながら伊豆(まゆ)の資料館である。
明治の初年、官営の高崎製糸工場に続き、二番目に出来たのがここ松崎の民間経営による製糸工場であつたという。昔は松崎(まゆ)として有名であつたが、現在はこの資料館で昔を偲ぶのみとは誠に気の毒である。養蚕製糸の歴史と見事な絹織物の作品展示は必見の価値あり、機会あば見学をお勧めする。 
 末筆紙上をかり、楽しい旅を企画して頂きながら風邪で参加できなかつた幸田に感謝、彼も清水に会うのを楽しみにしていただろうに、本当にお気の毒であった。写真で辛抱して下さい。その他の参加者は足立喜次、高田俊彦、小松崎、品川、藤井の各未亡人計11名。松崎で昼食後、バスで修善寺、三島にて解散。

(平成14年11月26日 文中敬称略)

追記

 平成15年3月10日夜、上野から清水君逝去の連絡があつた。上野が知ったのは前記馬場氏の通報によるもので、8日歿とのことである。 葬儀は身内だけで内々でやりたいとのご遺族の意向もあり、馬場氏ご本人も知らなかつたそうである。 逝去の報は本来なら電話連絡網で流すところであるが、時期を逸したことと、ご遺族の意思を尊重し、生前の交友関係による縁故連絡に(ゆだ)ねることにした。
 考えてみれば、戦後の大方を闘病生活に明け暮れた彼が、何とか傘寿を全うしたのは最愛の奥方の限りない愛情に支えられたものであつたろう。先日訪問し、奥方との睦まじい様子に接した際には、とてもこんなに早く亡くなるとは全然考えられなかつた。柳に雪折れなしとかで、まだまだ当分は大丈夫に思えた。 今になってみるとあの時、遠慮せずに昼飯でもご馳走になり、もっとゆっくりしておればと後悔(しき)りである。
 しかし短時間ながら、まだ元気であつた彼と会う機会を作ってくれた幸田の松崎行き企画に感謝するとともに、改めて清水淳君のご冥福をお祈りする次第である。

(なにわ会ニュース89号18頁 平成15年9月掲載)

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