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平成22年5月8日 校正すみ


清水 淳君を偲んで 

上野 三郎

3月12日夜静岡県松崎町の馬場さんから電話があり「清水さんが10日(実際は8日であった)に亡くなったので連絡します。近所に住んでいる私も葬式が終わってから聞いたわけで、奥さんよりは外部に連絡しないようにとのことだったが昨年11月に見舞いに来て頂いた関係もあり連絡します。」とのことであった。

馬場さんは同じ空母天城会の会員であり、湘南歩こう会で昨年松崎町を訪れた時に、清水さんならば私の家の近くで、本人も奥さんも良く知っている仲なのでと翌日民宿まで態々(わざわざ)迎えに来て頂き、泉君と共に療養中の清水君を見舞う事が出来たが、それからあまり月日もたってないうちの訃報である。

清水君とは入校時同じ分隊で起居を共にしたが、彼は総てに控えめながら内に強いものを秘めていた。また運動神経抜群で特に水泳に秀で山奥育ちの小生にとっては羨望(せんぼう)の的であった。卒業後、彼は空に、小生は海にと離れ離れで、今回が卒業後初の再会であった。闘病中のこととて幾分たどたどしい口調ながらも戦闘機乗りの彼は終戦直前に配置された「秋水」について熱心に語ってくれた。先輩の犬塚さんが一号機のテスト飛行の時、事故死されたこと、雑誌航空ファンに彼が写真入りで記載されたこと、一昨年5月に三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所の資料館に「秋水」が復元展示された際、会社側からゲストとして特別招待を受け、その時の模様が新聞、テレビで大きく報道されたと感慨深げだった。

このことは三菱側としては「秋水」は会社初めてのロケットの取り組みであり、ロケット戦闘機「秋水」に対する深い思い入れと、貴重な経験者に対する強い尊敬の念があっての事だったのだろうと思い、清水君の足跡の偉大さを改めて認識した。あっという間に時間が経ち、あまりの長居も体に障ってはとお互いの自愛を祈りあって退去することとしたが、清水君に代わって奥さんが家の前に立ち、何時までも手を振って車中の我々を見送って頂いた光景が脳裏に刻まれ、これが最後の出会いになるとは想像さえしなかった。

その後、奥さんから聞いた所では、終戦後間もなく結婚して一女を授かったが、しばらくして肺浸潤に侵され、戦後追放、農地解放等と周囲の環境が一変し、山林守りの慣れぬ仕事を余儀なくされ、体調の悪化が続き、昭和36年東京医大で左肺の摘出手術を受け、その後も定期的に松崎町から東京に通い続けて療養生活に入っていた。その間、他の色々の病気にも悩まされ、波乱万丈の人生だとお互いに語りあっていたと申されていた。我々がお見舞いに行った頃は気分のいい状態であったが、その後寒気が厳しくなり2月21日入院、遂に3月8日帰らぬ人となった。長い闘病生活に耐えられたのは、彼の内に秘めたる強い不屈の精神力と奥様の行き届いた看護のたまものだと思う次第である。

彼の「秋水」で残した足跡は宇宙ロケットの先駆となり、今後ますます重要度を増してゆく宇宙開発の中にいかされており、広い宇宙の中に花開き続けるものと信じて、ご冥福を祈る。

(なにわ会ニュース89号18頁 平成15年9月掲載)

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