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平成22年5月7日 校正すみ

弔辞 澤本倫生君

樋口 

 

今年は地球規模の異常気象とやらで、梅雨の走りからほとんど雨に恵まれず、毎日暑い油()照りの日が続き、健康な者でも相当堪(こた)えたのに、これでは体調不良の人たちにとっては、大変辛い毎日だろうと察していたところ、突然貴君の訃報に接しました。

 普段から丈夫が自慢の君が健康を害して入院したと耳にし、一応退院する運びとなったと聞き及び、電話で言葉を交わした者から「元気な声で電話口に出たよ」とのことで、この具合なら何れ涼しくなったら、顔を見に行けるなと考えていた矢先のことでした。

 思えば、君は戦前日本の国威がまだ隆盛を極めていた頃、名誉ある帝国海軍の名門一家に生を承けました。父君は大東亜戦争開戦時の海軍次官、兄君は二年先輩の海軍兵学校生徒という環境に育ち、当然の成り行きとして、その後を追うように、麻布中学から江田島を志向し、昭和15年幻と化した東京オリンピックの年、海軍兵学校第72期生徒を命ぜられることになりました。

 爾来三星霜、厳格なる自律と自治の生徒館生活を通じて、君は常に同期生のリーダー的存在であり、学業は元より、訓練においても、相撲に柔道に水泳に大いにその特技を発揮し、皆の先頭を突っ走ったものでした。そして、2学年の冬、大東亜戦争が勃発しました。この為、我々の最上級生時代は戦局の要請から速成教育に移り、大量の未修得科目を短期に詰め込まれた記憶があります。

 昭和18年9月、繰上げ卒業となった我々は、即日海軍少尉候補生として第1期の初級士官教育を受けるべく、航空隊配属者は霞ヶ浦航空隊、海上勤務者は夫々4隻の軍艦に分乗し、君は戦艦「伊勢」の先任候補生として乗艦したのでした。

 1期の候補生教育を「トラック」島往復の習熟航海をもって終わる直前、豊後水道入口において、前線から帰投してきた空母「隼鷹」が敵潜の雷撃を受け、飛行甲板の後部がめくれ上がり、艦尾が焼けただれ、航行不能になって漂流しているのに出会わせ、これから後の実戦の厳しい身の引き締まる思いをしたものでした。

 いよいよ第一線の実施部隊への配属が決まり、君は華の第2水雷戦隊第24駆逐隊司令駆逐艦「海風」乗組として赴任し、早速内南洋方面の各島に陸軍部隊を局地輸送することになり、この任務に従事中の昭和19年1月28日、「サイパン」発「トラック」に入港直前、敵潜水艦「ガードフィシュ」号の雷撃を受け、後部機械室に被雷、沈没の憂き目に遭ったのでした。  これが君が泳がされる事になった最初の洗礼となった訳です。幸い僚艦が近くに居た為、無事救出された君は、短期間の「満潮」乗組を経て、2月17日には早くも次の配置として、戦艦「山城」乗組を命ぜられることになりましたが、この時の「海風」での沈没経験は後に所謂(いわゆる)「水中爆傷」対策として重要な参考資料としてファイルされました。転んでも只(ただ)では起きない君の面目躍如たるものがあります。<BR>

 大艦「山城」での勤務はそれまでの小艦艇の勤務と違い、何事も規則づくめ、規律づくめで、真面目な君にとっても堅苦しい半年であったろうと思われます。

 そして、その年の9月1日横須賀で建造中の世界最大の航空母艦「信濃」の艤装員となり、竣(しゅん)工後は甲板士官として活躍、初めての長途航海となる瀬戸内海への航海の途中、紀伊半島沖で敵潜水艦の待ち伏せに遭い、その襲撃を受けて沈没しました。

 竣工後間も無く、大半の乗組員の本艦への習熟は未熟であり、訓練不足の為、応急処置の対応も完全とは言えず、大半の乗組員を失うという悲劇に遭いながら、最後まで本艦の傾斜復元、浸水の排水に努めて、甲板上に残っていた君は、又もや、武運に恵まれて、沈没後泳いでいるところを護衛駆逐艦に拾われ、九死に一生を得たのでした。

 その後、君を待っていたのは、結局は、海軍最後のご奉公となる東京警備隊兼軍令部勤務の要職であったのです。

 この海軍作戦指導中枢部の枢要な配置における勤務を通じ、終戦までの軍部の末期現象をつぶさに経験したことでしょう。

 東京大空襲の現実も、艦載機による呉空襲も、ポツダム宣言に対する反応も、原爆投下時の中央のショックも、戦争終結に至るまでの断末魔の苦しみも。

 戦後は一転して、東大応用化学科に学び、卒業後旭硝子株式会社に職を得たのでした。同社においても、持ち前の頑張りズムを発揮して、有益な業績を残し多大の貢献をしたことと思います。その後は、兄君の主催する森村商事株式会社に転じ、兄を助け戦後の奉公をしました。

 その傍ら、敗戦により解体させられた海軍同期生会の再編の端緒を作り、戦災と敗戦の混乱により散逸した資料から戦後最初の名簿を取り纏めたのも君でした。

 67期の熱海先輩の提唱による海軍兵学校連合クラス会の起()ち上げに当たっても、率先してその設立に馳せ参じ、複雑多岐に亘(わた)る各クラスの意見を調整してこれを成し遂げる一助となったのも君の努力と協力なくしては語られぬ一頁と言えましょう。

 君は生来酒を好み、酒豪と言うより「大酒飲み」の風格があり、言うところの酒癖はまことに淡白で、他人に迷惑をかけたことはなく、我々の知る限り一刻も酒瓶を手放したことはありませんでした。マージャンの最中は元よりゴルフプレー中も。これでは、会社で勤務中はどうであったかと思いやられたものでした。

 戦後の我々との交際は専らゴルフ中心となり、その無邪気で天真爛(らん)漫なプレー振りには皆圧倒されたものです。ドライバーの距離が一番遠くまで飛んだといっては自慢タラタラ、同伴プレーヤーがチョロでもしようものなら、それこそ飛び上がって喜ぶ様は、エチケットには反するものの、その天衣無縫振りは、皆微苦笑を禁じ得ませんでした。その英姿も、もはや二度と見ることが出来なくなりましたね。

 (よわい)、傘寿を超え、軍人20年と観じていた仲間の六割が弱冠の身をもって他界したことを思えば、随分長生きをさせて貰ったと思うものの、貴兄の謦咳(けいがい)に接することの出来なくなった今、つくづく無限の寂しさを覚えます。

 どうぞ、ユックリ御休みになって、彼()の地で待ち受ける諸兄の誰、彼とそれこそ腰の抜けるまで存分に盃を交わして下さい。

平成16年8月18

  海軍同期生一同を代表して 樋口 

(なにわ会ニュース92号11頁 平成17年3月掲載)

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