平成22年5月7日 校正すみ
佐藤孝之助君逝く
小沢 尚介
7月7日の夕べ堀剣二郎君より電話あり、「クラス」の佐藤孝之助君本日早朝なくなったとの報あり。
彼は戦後自衛隊に入り活躍されていたが、在職中病に倒れ途中退職の止むなきに至り、その後自宅で翻訳の仕事に従事しておった由。
なにわ会の方も殆んど顔を出されず、どうしているのかなあと皆も気にしながらも呑気に構えていたのである。
突然の訃報に驚愕するのみである。
7月8日の通夜と9日の葬儀、告別式は、厚木市の白雲閣にて荘厳なる雰囲気の中行われ、「クラス」も10数名参加され、最後の訣別をした。
弔 辞
海軍兵学校、機関学校、経理学校の同級生の会「なにわ会」を代表して謹んで、佐藤孝之助君の御霊に申し上げます。
君は盤城中学を優秀な成績で卒業し、昭和15年12月当時難関といわれた海軍兵学校に我々と共に入学されました。
それから約3年間、正に血の出るような猛烈な訓練と勉学に耐えて、昭和18年9月、兵学校を卒業し大東亜戦争に遅まきながら参加されました。
君は既に傾きかかった帝国の急を救わんと勇躍戦闘機部隊に身を投じたのであります。
然るに戦いの大勢は如何ともなし難く、昭和20年の8月に終戦となりました。
この2年足らずの間に我々同期は約55パーセントの級友を失い、特に君の参加された戦闘機部隊は実に三分の二の同志を失ったのであります。
この間赫々たる活躍を君はなしとげたのでありますが、武運に恵まれ生存された一人であります。
戦後の日本は真に苦闘の時代であり、国家の将来を案ずる時如何なる道を選ばんか、正に途方に暮れた時でありました。
我々生き残った同志も一部の人は故郷に帰り、或いは日本の経済復興を目ざして産業界に身を投じ、或いは、また、君等の如く再び護国の情熱に燃えて自衛隊に入り直接祖国の防衛に携わられたのであります。
しかし、昔から真摯な君のことでありますので、自衛隊に入ってからも頑張りすぎたのでありましょう。健康を害することとなり勇途空しく中途退役せざるを得ない状況となったと聞いております。
当時の君の無念さ如何ばかりかと、察するに余りあるものがあります。
その後君は翻訳の仕事に従事しておられたらしいが、健康上のためでしょう同期の慰霊祭や諸々の会合にはなかなか出席してくれなくなりました。
我々もみんな君のことを気にしながらも、日々消息が薄くなっていました。誠に申し訳なかったが、お互い近所にいるんだから何れ又相見える機会もあろうと、皆呑気に考えていました。
然るに一昨日の七夕の夜、貴君の訃報に接し、暫し茫然自失なす所なかった状況です。
君は一見昔から茫洋とした風格があり、どちらかと言えば控え目な人であったが、外見とは異なり内に秘めた情熱ははげしいものがあったように思います。
戦闘機の「パイロット」になるための重要なる要件は機敏なる肉体的条件は勿論のこと、明敏なる判断力と更なる攻撃的熱情は正に必須条件であると言われており、君はこれらのすべてを具備した名「パイロット」であったろうと思います。大東亜戦争中は勿論のこと戦後も自衛隊にあって操縦関係の業務に従事されておったと聞き、中途にして病に倒れたとはいえ男子の本懐ではなかったかと推察しております。
我等「なにわ会」のメンバーも大東亜戦争で半減し又戦後も一人二人と姿を消して行き、只今残存は229名と卒業時の約四割となり、また、殆んどが、65歳の老齢年金をいただく年齢を超えました。時々集まっては空元気を出して同期の桜など高吟しておりますが、これからの世の中の移り変りなど眺めながらもう少し生きていくつもりです。君も天上から一緒にながめていて欲しいものです。
最後に一言申し上げて置きたいのは君の御家族についてですが、お目にかかったのは昨日が初めてです。君は最近病気がちで色々と人には言えない苦労をされていた様子ですが、本当はしあわせな人生を送られたのではないのですか。よき内助の誉れ高い莫子夫人と立派に成人された賢い二人のお嬢さんにかこまれて、人生の終点を迎えられ、我々からみてもうらやましい一生を送られたようですね。
後顧の憂いもない君の御冥福を祈り弔辞と致します。孝之助君さようなら。
平成2年7月9日
なにわ会幹事 小沢 尚介
(なにわ会ニュース63号6頁 平成2年9月掲載)