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平成22年5月8日 校正すみ

佐々木 庄君を偲んで

平野 律郎



  まだ残暑が続く9月11日、「佐々木庄君が亡くなった」という知らせを受けた。

「そのうちに会いに行こう」と思いながら出不精でつい延び延びになり、とうとう彼の温顔といくらか津軽なまりのある彼の言葉に接する機会が無くなってしまったことが悔やまれ、自責の念にかられた。

兵学校とそれに続く霞ケ浦空の練習機課程では顔を知っている程度で、彼と話を交わしたことは一度も無かった。佐々木君と親しく付き合うようになったのは、実用機課程で同じ艦上攻撃機に進んでからのことである。

昭和19年2月末のその頃は、戦局は次第に我に非となり、鈍足で運動性能にも恵まれない艦攻の出番が減ったためだろうか、我々の前の40期飛行学生には艦攻課程が無く、我々41期からまた復活したが、13名と他の陸上機種に比べてごく少人数のグループであった。百里ケ原航空隊学生舎の隣りあう3つの部屋に13人が住み、飛行機も前中後の3席の互乗が多く、文字通り常住坐臥を共にする生活を送った。5ケ月間、そのように親密な交際をしたのに、50年余を経た今となっては、殆どのことが記憶から失せ、ただ若くて元気だった友の顔と、何かのときの所作が断片的に浮かぶのみとなってしまった。誰かと話し合えば、あんなこともあったなどと思い出すこともあろうが、佐々木君を失った今、生存の友は2名を残すだけになってしまい、それも遠く離れて話し合う機会も未だに巡ってこない。

佐々木君との思い出でただ一つはっきりしているのは、いわば小生のお粗末。彼を後ろに乗せて飛行中、エンジンが息をつきはじめた。高度が徐々に低下する。これは一大事と一直線に飛行場に引返す。スロットルをふかす時だけエンジンが生き返る。段々畑をかけおりるような具合で松林すれすれに、裏口からなんとか飛行場に無事滑り込んだ。その直後の彼のひとこと、「怖かった。寿命がちぢまったぞ」。彼の寿命の1、2年は小生がマイナスしたのかも。

7月末に楽しかった艦攻課程を卒業、小生は中西達二君と百里に残され、他の11名は勇躍それぞれの任地に向かった。佐々木君は上海の254空へ配属となり、戦闘機乗りになったという情報をなにかで知ったが、その後の消息を知ることなく、戦中戦後の約10年を過ごした。

再会したのは昭和29年7月、たまたま同時期に海上自衛隊に入隊した時で、その後彼は艦載機として米海軍が製造した哨戒機S2F、小生は陸上哨戒機P2Vの操縦と専門を別にしたが、小生が八戸のP2V隊に勤務していた時、彼がS2F隊の司令として着任してきた。それから佐々木君一家との家族ぐるみの交際が始まった、というよりは我が家の子供達が幼く、なにかにつけて佐々木家のお世話になりっぱなしになった。

自衛隊を退職してからは、佐々木君が栃木県小山市に居を構えたため、家内はお宅へ伺ったこともあるが、男同士は年賀状のやりとりだけで、今になっては残念な思いである。

約十年前、栃木市近郊のゴルフ場でCGCのコンペが行われた際、観戦に訪れた彼と話を交わしたのが、元気な姿を見た最後となってしまった。

以上のような50年に及ぶ佐々木君との長い交際だが、さてなにか逸話的なものをと、記憶の糸を辿るが、年のせいもあるのか情無いことに全く思いつかない。もともと艦攻学生がどういう基準で選ばれたか知らないが、そして艦攻気質とでもいうものを教育されたためもあろうか、おしなべて地味で我慢強い性格の持主であり、佐々木君もその典型的な一人といいえよう。スマートで優しい紳士的な彼であるが、意外に勝負ごとの勘は抜群であった。それに加えて、手先の器用さも抜群で、トランプ手品のタネは明かしてくれるが、彼がやるとそんなふうには見えない早業で、皆が首をひねって感心したり、もう一度と何度も何度もリクエストしたりした。

航空隊司令をしている時、部下隊員が冗談まじりに「司令は普段はとてもやさしいが、トランプの時だけはこわくなる」と言っていたが、部下に慕われた彼をいい得て妙と微笑ましく聞こえた。

葬儀の後で、妹さんと佐々木君の思い出などを語っていたが、最後に妹さんが言った。

「兄は兄弟思いで、なにかにつけて皆が兄に相談に行き、頼りにしていました。兄は本当に神様のような人でした」。そして、「神様のような人でした」を繰返した。

肉親から神様のように思われる。我が身と比べてなんという違いかとショックを受けるとともに、改めて佐々木君に尊敬の念を抱かざるを得なかった。

素晴らしい言葉をお聞きして、悲しみの中にもこみあげる爽やかさを感じつつ最後のお別れをした。御冥福を祈り、御遺族の御多幸を願って止まない。

(なにわ会ニュース68号14頁 平成5年3月掲載)

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