TOPへ     物故目次

平成22年5月7日 校正すみ

猿田 松男君を偲んで

竹村  

昨年出来た電話連絡網での初めての連絡で、今年2月4日夜、杉田君から猿田君死亡の電話が入った。

兵学校では奇しくも二号、一号と同じ分隊だったが、卒業後は181118日の拝謁のとき一緒になって、記念の写真を撮ったのが最後で、それ以後再び会うことは出来なかった。

戦後も年賀状をやりとりするだけで、いずれそのうち会う機会もあるだろうと思っていたのに、図らずも今回の訃報に接し残念でならない。

 2月8日の葬儀には参列させて貰い冥福をお祈りした。

 

50年前のことについて一生懸命思い出そうとしたが、ただでさえ記憶力が無い上に、終戦の年、墜落事故で頭を打った影響もあって、2年近く一緒の分隊に居た割には特記する程の思い出もなく誠に申し訳ないが、唯一つ今でもはっきり覚えているのは、電気関係、特に通信関係の造詣の深さで、あるとき宿題だったか、実習の延長だったのか無線機の組立てを命ぜられたとき、とにかく手に負えなかったので彼に押し付けておいたところ、暫らくして聞いてみたところあれか、出来ているよ』と軽く云われ改めて畏敬の眼で彼の顔を見直したことがあった。

 

昔からその関係に強かったのか、兵学校の授業を真面目に勉強してそうなったのか、よくは知らないが、普段から謹厳実直、不言実行を地で行く様な雰囲気を凛はせていたのを覚えている。

 

戦後の第二の人生でも彼の特技が活かされる最適の仕事に就いたなと常々思っていた。例の部品輸出の問題で、彼の会社の名前が頻繁にテレビや新聞に出る様になったとき、ひょっとして彼も引っ張り出されるのではないかと心配していたが、どうやら何事も無くてよかったなと思っていた矢先の計報で、よけいにがっくり来た。

 

50年ぶりの再会が物言わぬ彼との再会となってしまい、出棺のときと、斎場での最後のお別れのとき、これが本当の別れになるのだなと思い彼の面影を頭の中に焼付けるべく一生懸命見詰めたが、記憶の中に残っていた若かりし日の元気な顔と、なかなかダブらず悲しい思いがした。

猿田君、安らかにお眠り下さい。さようなら。

(なにわ会ニュース67号11頁 平成4年9月掲載)


 TOPへ    物故目次