平成22年5月7日 校正すみ
猿田 松男逝く
加藤 孝二
猿田のKAは小生のすぐ下の妹(長女)である。昭和24年4月29日、彼の家で式を挙げた。頼まれ仲人は、父の敬愛していた親友、木本氏であった。社長業より、お寺の住職がピッタリの様な方である。クラスは樋口 直と小生、あの頃はクラスと会うのがすごく楽しくホットしたものである。猿田の会社の近くの東銀に溝井が居り、そこから五分の所に小生の一坪位の小さなカメラ店があり、妹が手伝ってくれていた。「オイ貴様のシスを・・」と云われ、びっくり。即座にOK宜敷×ネガ×。
人格者と云われた木本さんのスピーチは、「水は清いのが良いのですが」と前置して、「水活ければ魚住まず」の諺を噛んで含める様に云われた。戦時中、男手のない我が家を支えてくれた長女を嫁がせて複雑な面持ちの父が「木本君、本当に良い事を云ってくれた」と喜んでいた事が頭にしみこんでいる。
世相混濁、ヤミヤ横行の時代、木本さんは猿田のスーパー生真面目を見通し、列席のB級戦争犯罪人の我々を含めて云われたものと思っている。猿田は静かな男だが、云い出したら中々頑固者(お互い様?)だが、細やかな気配りをする男だった。入校の時の姓名申告の時これでも聞えんのかとの態度が出て、お蔭で余分に一号総員に撲られたと。
20年6月頃723空の彩雲特攻隊が木更津に出来た。中山、金子成、中川好成と兵器分隊長に猿田がやって来た。流星のK5にも富士と門松が来た。偵102に堀江の後任で着任したがクラスは俺独り、早速クラス会をやろうと各飛行隊に連絡した処、猿田だけ欠席の返事。クラス会の模様は忘れたが、猿田が「折角のクラス会だが、貴様等塔乗員は、夜仕事はないだろうが、俺の部下は整備の為働いている。クラス会は半ば公務だが俺は行かない、皆に宜敷く」
挺子でも動かぬ彼の様子に、尻尾をまいて引下った事は覚えている。
機械、エレキの類が大好きで、孫の玩具の修理係。幼い姪に「お父さんと叔父ちゃんは同じ学校を出たのに、どうして電蓄やラジオ直せないの」「海軍は広いんだ、叔父さんはお父さんと別の方を勉強したんだ・・・ヤレヤレ」
物置は工具道具、梯子等で一杯である。
昨年9月、親戚の法事があり(小生は他事で欠席)猿田が大分弱っているとの事を聞き夜、彼の家に行ったら、二階から降りて来たが、掘り炬燵にいる俺に立ったまま挨拶する。
俺と違って礼儀正しい彼にしてはと思う間もなく「坐ると立つ時大儀なので失礼する」といって立ったまま暫時話をした。骨の変型手術の為入院する頃は、しきりに「石津の次は俺だ」と云う「貴様気色の悪い事をいうな、その暇があるなら遺書でも書いておけよ」「ああ、もう書いてある」調子の良い時、湘南中学同級の松山と見舞いに行き、面会謝絶で帰り、間もなくの石津の他界がショックらしかった。
2月3日夜「明日は休みをとる、何時頃行ったらよいか」と聞いたら5時に透析が終るからその後がよいとの事、入院中の母を見舞ってから当方も丁度よい時刻だと云って就寝したら電話。一瞬母がと思ったら、姪から0059死去との報、退院の日取りを主治医と相談していると聞いていたのにと、ふっきれぬ思いでハンドルを握った。霊安室の彼の足はまだ温みがあった。感情の昂りをおさめるのが、せい一杯だった。彼は明日賑かになるなと喜んでいたそうである。
下掲の写真(掲載略)は昭和41年ニュース8号10貢のもので一杯入ったクラスが、てんでのポーズ (撮影樋口 直)今は亡き、飯沢、木村貞春、石津 寿、猿田、郡もいて皆楽しそう。KAは九州墓参で味噌汁だけを一杯にして留守、呑んだ後の味噌汁が大好評で不足となった。
俺がやると台所へ行った猿田が出した汁を皆旨い旨いと大評判、その様子を猿田はニコニコ眺めていた。後で曰く希望者が多く汁が残り少なかったので面倒とばかり味噌の代用に醤油を適当に放り込んで薄め、熱くして出したとの事。「彼奴等みんな 旨え旨えと飲んだんだ」彼が此の話をする時は必ず馬顔の歯をむき出しにして大笑いしたものである。
地味な男で、スタンドプレーは彼の嫌悪する処である。それを承知の上で姪の旦那に、知らない人がみたら芝居じみていると思うかも知れぬがと断って、海軍の水葬の慣例を説明したら是非どうぞ。
山田良彦が保管している湘南CGCの優勝旗を枢にかけて、クラスの者が送ってくれた。猿田も之だけは、受けてくれるだろう。
同期生が担う棺の軍艦旗
あの旗の下にこそ 戦友は逝きしも
(なにわ会ニュース67号12頁 平成4年9月掲載)