平成22年5月7日 校正すみ
斎藤 五郎君の死を悼む
山田 穣
斎藤 五郎君(一号第27分隊)が突然死亡しました。あの熾烈な大東亜戦を生き残ったというのに、齢50を前にして、突然不慮の事故死ということは、何ということだろう。
10月30日の夜、後藤俊夫君からの電話連絡で、五郎の死んだことを知らされた。大阪の松田清君が一切を引き受けて、在阪のクラス諸兄に呼びかけ、クラスを代表して参加してくれる手筈になっているという。私には、本年度の幹事であると同時に、彼と一号同分隊ということで、加藤の指示で連絡してくれたということである。
さっそく、彼と勤務先が同じ東レである大岡に電話し、概略の様子を聞き、27分隊の生き残り、田中春雄、岡本俊章、守家友義に電話連絡をした。守家だけはクラス名簿に電話が記載されていないので、番号照会をしたが判明しなかった。不悪。
翌31日に急遽告別式を施行するとのことで、私も参加させてもらった。告別式は2時からであったが、正午過ぎ茨木の彼の自宅(東レ寮)に到着、霊前に額突いたのである。
私は、彼とは兵学校入校前から知遇があった。実は、中学時代の自宅が道一つ隔てての隣同士であったから。しかし、中学も異なり、とくに懇意な間柄ではなかった。むしろ彼と2つ違いの兄貴とのつき合の方が多かった。彼、五郎は、その名の如く、男5人の末子であり、他に女3人の兄弟姉妹で、2番目の兄貴は陸士出身の陸軍少佐であり、3番目の兄貴は、海兵67期で、ブーゲンビルで戦死をしている。彼は、末子でもあり、上の兄貴から叩かれ怒鳴られて、いつの間にか、若干内攻的な性格に育ったといえるだろう。こんな環境の彼であった。したがって、兵学校時代もおとなしく、余り人目につかない存在であった。クラスの馴じみも薄い方であったろう。奇しくも、私は彼と一号で同分隊となり、彼の兄貴の方と懇意であった私は、いささか変な気持ちがした覚えがある。
戦後、彼は復員輸送に従事した。当時として、これは当然の、誰でもやったことだが彼の場合は、クラスの誰よりもその期間が長かったということで、昭和25年の初めまでやっていたと記憶する。したがって、彼はわがクラスで数少ない、甲種船長の免許持ちである。
そのころ、朝鮮事変は始まっていた。そして、そろそろ戦後の混乱時代も終って、一人一人の方向感も定まりかけたころであろう。その折に、彼は船から降り、彼自身が復員したのである。そして、25年の春、東大を受験した。終戦直後の大学入学は、若干の制限はあったと記憶するが、比較的簡単に入れた時代である。しかし、彼の場合は、25年の進学で、天下の東大入試は、そんなに簡単ではなかったはずである。と同時に、そのころ、再び大学へ行こうとすること事態が、まず普通ではない。ともかく、彼は28年に卒業して、東レに入社した。告別式のおり、彼の兄貴に聞いたのであるが、彼は、東レ入社のおりも文句をつけたそうである。
「女の子の衣類をつくる会社なんかいやだ。俺は船会社へ入りたい。」と。
しかし、当時は日本の船会社は景気が悪く東レは人絹パルプの好景気で、なかなか入社できない優良会社であった。兄貴連中に怒鳴られて、しぶしぶ東レに入社したそうである。こうして紹介してみると、ともかく彼は変っている。
その彼が、47年10月14日(土)会社から帰宅の折、茨木の駅の階段で、ころんで頭を打った。どんな状態でころんだのか、誰も目撃者がいない。通行人の通報で、救急車に乗せられ病院へ。奥さんが馳けつけたときは、まだ若干意識があったそうだが、手術後、意識回復することなく、そのまま10月30日に死亡してしまった。
就職も遅かった。そして、結婚も遅かった。10年前、37、8歳のとき結婚したそうでその結婚式の写真が、霊前に飾ってあった。子供もいない。そんな彼が、死ぬことだけ、なぜ早まったのか? 私は、ただ、そんなことを考えながら、彼の霊前に座っていた。
「海軍兵学校第72期大阪なにわ会一同」という生花二対が、ことのほか霊前の生花の中で目立っていた。もちろん、松田清君が、前日の夜遅く手筈をしてくれたものである。
東レの代表弔詞につづいて、友人総代ということで、東レ勤労部次長某氏の弔詞が声涙ともに下る名調子であった。
曰く「五郎よ、お前の口ぐせは、「そんな」こといったって・・・ということだった。それは、お前が己にきつく、常に他人をゆるす気持ちの持主だったことを現わしていた。お前は、すさぶれた今の日本に、生ることのできない人間であった・・・」
「お前の日常は、海軍兵学校で鍛えられた美しい、そして自分に強い精神に支えられていた・・・」
そして、長い弔辞の最後のしめくくりが、「元海軍大尉斉藤五郎君、どうか安んじて眠ってくれ。」
という結びであった。
私は、ここにおいて、斎藤五郎という人間を、完全に見直さざるを得なかったのである。確に、五郎はクラスのつき合は良くなかった。しかし、市井の一偶で、一人の人間の最後の弔詞が、元海軍大尉斎藤五郎君と結ばれたこの事実から演繹して、まさしく海軍魂をもった男の最後であったのだなあ・・・と、心から思ったのである。
霊前に座っているとき、彼の奥さんが一枚の広告を見せてくれた。新聞の折り込み広告である。その広告の裏が、ぎっしりと英語のライテングで埋まっていた。ここで、驚くことが二つある。一つは、50の手習いを彼が実行していたことであり、二つは、広告ビラの裏の白紙をノート替りに使っていたということである。私は、二つめの事実に心から驚嘆した。
さて、当日の参列者は、松田清、河野俊通、塩見穎一、澤本良夫、田中歳春と私の6人のクラスであったが、霊柩車を見送った後、寒さしのぎに、茨木の駅近くで、「一杯やって行こうや」ということになった。何の気なしに入りこんだ「姉妹」という店、
「お葬式に行ってこられたのですか?」
「そうだよ。しかし、どうして葬式帰りということがわかる?」
「だって、喪章をつけているじゃないの、五郎さんのお葬式じゃなかったですか?」この店、奇しくも五郎の行きつけの、のみ屋であったわけだ。そして、ここで聞いた五郎の行状記が、また紹介するに足るものである。
五郎は、こののみ屋で「帰りがけ一杯やることが、ときどきであったらしい。子供がいないことも、彼にそうさせたのだろう。そして、めざし一本でも残ったつまみ〃は、必ず、もったいないといって持って帰ったそうだ。いや、めざしだけではない。なかには、なめこのような水気のあるものでも、ビニールの袋をもらって、それに入れて、家へもって帰ったそうである。確に、これは奇行である。しかし、前段に紹介した広告の裏をノート替りに使うことにしろ、この持ち帰り〃にしろ、これは単に奇行として扱い評価するだけで良いのだろうか。彼には、彼としての哲学と理念があり、その信念に従っての行動だったと思えてしかたがない。
この平和すぎる日本。平和すぎて悪いわけがないが、いまの日本には、平和公害が余りにも多い。この時代に対する反逆。何か、この辺に、彼、斎藤五郎の哲学があったと考えられるのである。帰りの新幹線の時間しのぎに、一冊の本を購入した。般若心経の解説である。こんな本を買う気になったのも、何かの引き合わせかも知れない。曰く。色即是空 空即是色
昭和48年2月寄稿
(なにわ会ニュース28号8頁 昭和48年2月掲載)