平成22年5月7日 校正すみ
斎藤五郎君の死を悼む
大岡要四郎
サイトウゴロウシハ フショウリョウチュウノトコロ、30日12時10分セイキョサレタ キョウネン48サイ・・・
東レ大阪総務部次長発信のテレタイプが入電したのは10月30日の午後3時頃であった。「10月14日(土)に大阪府茨木市の駅構内で転倒負傷したが頭を打ったので重傷」という噂を聞いたのが、たしか10月25日頃であった。が、まさかこんなに早く逝ってしまうとは想像もできなかった。
折悪しく、緊急の問題を持っていたので31日の葬儀に参列できないため、急遽、大阪なにわ会の主力メンバーに依頼した。松田君が中心になって、迅速に諸手配を進めていただき、地元から塩見、河野、澤本良夫、東京から山田 穣などの諸兄を煩わすこととなった。
彼とは、同じ会社であったが、勤務地が離れていたのと、専門が違っていた関係から、(彼は販売であったため、いつも外出していたためもあり)会社で顔を合わす機会が少なく、たまに飲み屋で顔をあわせると、「まあ一杯」とジックリ人生を語りあう淡々としたつきあいであった。彼は、知る人ぞ知る「ハートナイス」であった。営業関係のいわゆる生き馬の目を抜くような烈しい商売の空気に汚れることなく、常に明るく、黙々として、仕事に打ち込んでいる男らしい男であった。内外の友人から常に信頼され、ノミ仲間からは「ゴロー」または、「ゴロチャン」の愛称で親しまれていた。常に卒先陣頭に立ち、失敗では、部下をかばい、功は部下に譲り、他人の悪口を一切いわず、外観を飾らず、人目につかないところでも陰日向なく、誠実に努力してきた男であった。酒を愛し、縄ノレンをくぐってしばしの安らぎを求める時、誰からも好かれる人間斎藤五郎の真の姿がにじみ出るのであった。
彼が東レに入社したのは、昭和28年4月東京営業部ナイロン課を振り出しに、主として産業資材分野で営業の第一線を担当したのである。東レのナイロンは昭和26年頃、小規模の工場生産に入ったが、本格的に拡充し出したのは昭和28年からであり、特に北洋漁業の鮭鱒漁網とかテグスなど水産関係の分野において飛躍的に伸びた。当時斎藤君はナイロンが市場でまだ価値を認識されない時代に、これらの難しい分野にとびこみ、幾多の辛酸を嘗めたが、不屈不撓の精神で隘路を打開して大きな功績をあげたのである。
東レのような原糸原綿メーカーにおいての販売では、単なるセールスではなく、原糸の特性に合った新用途を開拓すること,または新製品を開発することが販売の仕事である。産業資材分野は、利幅は少ないが、量的に大きいので、メーカーとしてのメリットがある。いわば、地道な商売である、このような業界の特性からみて斎藤君の性格に合っていたと思われる。彼は次々と新製品を育てあげ、地味ながら着々と実績をあげて行なった。
昭和39年1月、大阪に移り、編物販売部第一課長代理となり、同年7月に同課長に昇進した。40年11月に、北陸事務所(福井市内)の所長代理に栄転し、わが国合繊維物業界の中心地において、いわば北陸「探題」として活躍した。45年9月、大阪の産業資材販売部第二課長として、再び産業資材分野にもどり、47年3月、新企画の中心人物として、新たな展開をするため主任部員となり諸般の調査を進めている途中、不幸な事故で昇天したのである。
彼と最後に会ったのは、9月中旬であった。労務関係の会議で大阪に出張した際、産業資材販売部に立ち寄り、若干話す機会を得た。静かな中にも情熱をこめて、新しい仕事のことを語ってくれた。「お互いに元気でガンバラナクッチャ」と肩を叩き合い別れたのが、まだ昨日のことのように思い出される。
実に惜しい良い男をなくした。生きている人は、いつかは死ぬもので、またそれを予告されないのが普通であるが、斎藤君の突然の事故による死は、惜しみても余りあることだ。
われわれは死を覚悟して戦陣に臨み、弾丸をくぐって戦い、しかもなお今日まで生き残ってきた。その強い運勢を有していたのに、何故こんなことで早く世を去ったのか? これも運命であるといえばそれまでであるが、何か無常感を感ぜずにはいられない。
合掌してただ冥福を祈るのみ。
(なにわ会ニュース28号9頁 昭和48年3月掲載)