平成22年5月7日 校正すみ
故佐伯 将人君のこと
伴 正一
クラスの中で佐伯と最後に飲んだのは私だったと思う。そういう私も、海軍経理学校卒業以来、佐伯にあったのはそれが3度目だったのである。
佐伯はそれほどクラスと付き合うことの少ない存在であった。
生徒時代、カッコよくて、その意味でクラスを圧していたあの佐伯が、少なくともクラスから見て、そんなに孤独気味な人間になってしまったのは何故だろう。佐伯には中国と中国人が、性格を変えるほどの強い影響を与えたのではないかと思われる。
この6、7年、佐伯からはよく長文の手紙を貰ったが、その中には中国に関するものが少なくなかった。整理が悪くて未だ探し出せないでいるのだが、長江勤務時代に肝胆相照らす仲となった棄民のことが詳しく書かれていた。長い空白の後の再会の、感動的なくだりの読後感は今も私の心に残っている。
佐伯は日本と日本人に、昔のようにはなじめないままで生涯を終ったのではあるまいか。私によく手紙をくれたのも、共に中国を語ることができると思っていてくれたからだと思う。
海経マンで中国に魅せられた人に、田中義夫教官と同期の中村千綱さんがある。戦争のさ中に中国帰化を考えたことのある程の人で、中村さんは今も私をよく食事に呼び出して下さるのだが、佐伯は中村さんに瓜二つのところがあった。佐伯の死亡は、中国と中国人を媒介にして交りがこれから深まろうとしていた矢先のことであった。
葉氏の世話をじぶんのことのようにやいていた佐伯が思い出される。河南省紡績研究所へ講師を派遣することも、頼まれていたことの一つだったが、果せないうちに佐伯は逝ってしまった。彼の世話で葉氏の長男が留学することになったと知らせてくれた手紙には6月17日夜と書いてあるが、それが去年なのか一昨年なのか定かでない。
いろいろのことがプッツリと切れる。こんなことなら、せめて葉氏と長男のことをもっとしっかり聴いておけばよかったのにと悔やまれ、その中、もう一度古い手紙を総点検して分ることを確認し、何か葉氏の役に立って上げて佐伯への供養にしたいと思っている。
中国が縁になってのことだが、佐伯は私の志を知る誠に数少ない人の一人であった。
何故そんなに死を急いだのだ。何回にも会って私を励ましてくれた佐伯の手紙の山を前にして、空しく幽明を異にして墓前に哭すの感に耐えない。
(なにわ会ニュース60号11頁 平成元年3月掲載)