平成22年5月4日 校正すみ
小沢尚介 急逝す
大谷 友之
「10月18日の『横嵐会』にご出席の予定だった小沢さんが入院の為欠席という連絡がありましたが、小沢さんの病気についてご承知でしょうか・」と世話人から電話を貰った。
『横嵐会』とは、横須賀突撃隊(通称名―横須賀嵐部隊)隊員の親睦会である。
毎年8月15日に靖国神社に昇殿参拝後、九段会館で直会を行っていたが、会員の高齢化に対応、暑さを避けて今年から靖国神社の秋季例大祭の日に変更することになった。
あの丈夫で元気な小沢が病気とは聞いていない。10月中はゴルフの好季節なので或いはのっぴきならぬコンペでもはいり、病気のせいにして断わって来たのかなと、気楽に想像しつつ念の為、小沢に電話で確かめた。
ところが、意外にも「風邪の治りが悪く、佐藤病院で検査を受けたところ、肺癌と診断された。大変驚き、院長の母校慈恵会医大にて精密検査を受けた結果、癌ではなく、肺気腫だと診断された。」という。
「肺気腫なら、佐藤病院の常連患者中、毎熊がそうだし、俺も昨年夏肺気腫だと言われている。今のところは動作が緩慢になったかなとは思うが、生活にはさして不都合はない。」と自らの体験を話し、「これからは、無理をせず、やせ我慢を止め、のんびりやろうじゃないか」と話し合い、癌でなかったことを喜び合い励ましあった。
10月16日、風邪気味が抜けないので、火曜日だったが、佐藤病院に行ったところ、待合室でバッタリ小沢に会った。
癌の疑いが晴れ、心のつかえが取れたせいか何時もの強気の小沢に戻っていた。
「最近、弟が前立腺癌で亡くなり、両親も癌系統の病気であったことから、今後は充分用心するよ」と言い残して帰って行った。
これが小沢を見た最後の姿である。トレードマークであったシックなソフト帽をかぶり、夫人と共に玄関で振り返りつつ、片手を上げながら元気な足取りで出て行った。
4日後の10月20日(土曜日)定例の診察日だったので佐藤病院へ行ったところ、院長から「一昨日小沢さんの体調が急変して入院して来られた。一晩中、介護、手当の後、国立病院に転院して貰った。今はICUにおられるから当分面会は出来ないでしょう。」と知らされた。
この話を聞いてもなお、小沢のことだから元気になって再び我々の前に現れることだと信じていたが、念の為中村正人年度幹事には知らせた。翌週の火曜日は、彼の佐藤病院への通院予定日なので、院長からよく話を聞いてもらうようにも頼んだりした。
ところがこの楽観は見事裏切られた。クラス会の連絡網で、翌21日(日曜日)朝死亡されたことを知らされた。余りにもあっけない幕切れにぼうぜんとした。人の運命とははかないものだとの感が深い。
通夜、告別式には多くの関係者が集まったが、海龍関係では、その発祥から参画された71期の久良知滋さんや、小沢が手塩に掛けて海龍の搭乗員として育て上げた甲飛の諸君が多数来てくれ、彼の遺徳を偲び、海龍の10分の一の真新しい図面を霊前に供えて冥福を祈った。
『英明院慈海日尚居士』となった小沢に死なれてみると、その穴の大きさをひしひしと感ずる。しかし、このような別れ方が小沢らしいのかなァと思ったりもしている。
それにしても急ぎ過ぎだ。サッサと行くのはゴルフ位にして、もう少し老後を共に愉快に過ごしたかった。本当に残念至極だ。
(平成13年11月10日 37日に記す)
(なにわ会ニュース86号8頁 平成14年3月掲載)