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平成22年5月4日 校正すみ

小沢 尚介君への弔辞

中村 元一

謹んで故小沢尚介君の御霊に申し上げます。去る21日、君の訃報に接し、正に青天の霹靂(へきれき)、しばしわが耳を疑った。初めて君と会ったのは59年前の昭和17年12月1日、一号になり45分隊に配属された日である。分隊監事は米沢出身、南雲大将の後輩、64期の田中一郎大尉、そして同教官の海上転出に伴い、後任には同期の東京出身、田久保竜雄大尉が着任された。戦時下の江田島はなにかと慌ただしく月日が過ぎ、翌18年9月、72期は2ケ月繰り上げられて卒業した。

 君は「伊勢」から「鈴谷」航海士、私は「八雲」から「榛名」甲板士官、とそれぞれ初級士官の第一歩を踏み出したのである。その後、君は特攻関係、私は駆逐艦に転じ、ともに九死に一生を得て、敗戦を迎えた。

 戦後、君は東大の造船を出て、日本鋼管へ、私は神戸の民間会社に就職、ともに新しい道へ進んだ。昭和30年代のある日、鶴見造船所へ君を訪ねたことがある。君は造船係長として編上安全靴を履き、現場の服装で姿を現した。覚えているだろうか。順調に出世街道を歩んだ君が取締役津造船所長だった昭和57年、三重国体へ行幸された天皇陛下が津造船所へお立寄りになり、親しく陛下をご案内する君の姿をたまたまテレビで見た。天皇陛下にご説明申し上げる緊張した君の表情が今も鮮明によみがえる。思えば、昭和18年11月、共に宮中で拝謁して以来、39年振りに玉顔を拝した君の感慨は如何ばかりだったろう。

 さて、45分隊伍長としての君は、温厚な人柄で、分隊員の寄せる信頼は絶大であった。神 正也、安保寿夫そして私達獰猛(ねいもう)一号ぶりには、君は伍長として複雑な気持だったと思う。また、二号、三号のまとまりは素晴らしく、決して他の分隊に劣ることは無かったと思う。これ偏に、小沢伍長の卓抜した統率力然らしめるところだと確信する。分隊名にちなんで、毎年4月5日に必ず行われる分隊会に、君は毎回出席だった。分隊会は、やはり伍長が出席しないと盛り上がらない。今年も4月5日、小田原、湯本方面で行われ、満開の桜を鑑賞し、湯本での懇親会が終わると「明日ゴルフがあるから」と君はタクシーに乗り、会場を後にしたが、これが君との別れになろうとは知る由も無かった。分隊幹事がお二人ともご存命の今日、君の旅立ちは余りにも早すぎる。

 72期をはじめ、多くの会葬者の中には多数の45分隊二号、三号が痛恨の思いで列席してくれている。三号先任の権守 博氏は「本当に頼りになる伍長で信頼申しあげておりました。残念です」と君の死を惜しんでいる。生者必滅とは申せ、君との永久の別れは、辛く悲しい。

小沢!どうか安らかに眠って下さい。さようなら              平成13年10月24日

  海軍兵学校第72期代表 中村 元一

(なにわ会ニュース86号7頁 平成14年3月掲載)

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