平成22年5月4日 校正すみ
東條 重道
長村君が4月1日午前8時に亡くなりました。謹んで御報告いたします。最近まで車でお買い物のお付き合いを楽しんでいたのですが、もう車はよしましょうとの奥様の御意見を尊重して廃車したよし。それ以後は奥様と周辺の散策を楽しまれていました。3,4日前から食欲が減退したほか異常はなく、4月1日朝食を勧められるままに終わり、眠いからと横になったよし。奥様が台所の片付けを終わり眠り姿が少しおかしいと気付き、119番して死亡を確認しました。
何の苦痛もなく、眠ったまま、目覚めることもなく天寿を全うできるなぞは誰もが望むところ、彼に相応しい大往生でした。最後のお別れで、私もそっと頬に触れてみましたが、生前と変わることのない柔和な表情で生きているようでした。ただ冷たいのが死んでいると実感した次第です。奥様は「なんの看病もさせてくれませんでした」と涙されました。
3人のお子様御夫妻、5人のお孫さんと、彼が何よりも大切にしたお身内に守られて厳粛なお葬儀でした。奥様はクラスの方々のお名前をよくご存じで、会葬者に親しくお礼を述べられていましたのが、印象的でした。ご冥福をお祈りしつつ私の『お別れの言葉』を添えてご報告いたします。
お別れの言葉
長村正次郎君
今日君にお別れの言葉を述べようとは思いもよらないことです。
君とは昭和15年12月一日広島県江田島の海軍兵学校で『海軍兵学校生徒を命ずる』と告達された時からの仲間でした。卒業後、君は陸上攻撃機の,私は艦上爆撃機の搭乗員として苛烈な大東亜戦争を戦い抜きました。敗戦後は同じ阪神地区に住み激励しあいました。そして海上自衛隊航空部隊に奉職して海上防衛力の再建に携わり、いわゆる同じ釜の飯を食って苦楽を共にしてきました。
君は性、温厚篤実、生真面目な生き方しか知らない紳士でした。部下思いで無口な君は部下からは慕われ,上司の信頼が特に厚く、幕僚として重きをなしていました。
海軍では第一線の攻撃部隊の幾つかに属し、熾烈な戦闘に参加したはずですが,君は多くを語らず,君の奮闘ぶりを知るよしもありません。海上自衛隊では主に航空部隊の幕僚としてその真価を発揮し、その功績により勲四等瑞宝章受章の栄に浴して喜んでいましたね。
自衛隊の退職後は学校法人暁星国際学園に勤務して真面目な人柄が買われて色々の重要職務をこなされました。お疲れ様でした。そのためにご住所もここ木更津に移されたのでしたねえ。ここ木更津から湘南の病院まで定期診断に通われたのでした。前住所厚木からは近かったでしょうが,木更津からでは一日かかりでしたが,病院を変わることをしないのが君の真骨頂です。
君の生涯はフサエ奥様と三人のお子様が宝でした。気配りの人一倍強い奥様の優しさが君の幸せを支えてくれました。幸せな生涯でしたねえ。それにつけても君が忘れられないもの、私も忘れることは出来ないもの、この場で申し上げるには過酷なことかもしれませんが間もなく天国で会われるであろう二女の恵子ちゃんの事です。
心臓疾患の手術のため、東京勤務を希望され、時の心臓の名医の執刀にもかかわらず,恵子ちゃんを救えなかつたことが,どんなに悔しかったか想像して断腸の思いです。天命としてじっと我慢している君の姿、よく耐えましたねえ。天国に行かれましたら、きっと恵子ちゃんとお会いになれましょう。長く抱えた苦渋をよくお打ち明け下さい。私も湯船で恵子ちゃんの心臓の鼓動がドッキン、ドッキンと伝わってきたことが今でも思い出され、恵子ちゃんの冥福を祈っています。
幽明境を異にすると申しますが,君の真面目な笑顔はいつまでも私の瞼から消えることはないでしょう。
ゆっくりお休みください。
平成15年4月3日
友人 東條 重道
(なにわ会ニュース89号20頁 平成15年9月掲載)