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平成22年5月4日 校正すみ

大山 隆三君を偲んで

村上 義長

大山 隆三 

平成3年3月1日、旅行から帰って上田の便りで、大山の訃報に接した。

卒業時、お互いに國で会おうと誓い合った仲で、骨を拾うのは是非したいと考えていたが、残念ながら遠くから冥福を祈った。

大山君とは二号時代16分隊で室井、小田(博)、池沢、私と同分隊で池沢を亡くしただけで、生残りの多い分隊であった。

舞鶴には珍しくつつじの咲く頃、晴天の日が多いので、よくつつじが丘に行って英気を養った。

卒業前夜二号、三号に色紙様のものに激励を書いて貰った。大山君は義長にも書いてやると言って墨跡鮮やかに書いてくれた。

 

一死以て皇恩に報ぜん  
再び会せん白木の箱
  
俺が義長の武運を祈る  
大山隆三

 

当時の若者の死に対する考え方であった。

つつじが丘花咲く時によく行けり

秋の夜は温習せずに出て歩く

卒業時共に誓いし靖国に

筆太に書きて硯を洗ひけり

友の訃を葬あとに知る春一番

 

戦時中の活躍については他に譲るとして、イ165・イ121に於いて責務を全うしたことは申す迄もない。

また最後に乗組になったのはハ210潜で、終戦の日の4日前の8月11日であった。

亀鳴くやどん亀に乗り生還す  波号潜乗組む時は敗戦日

 

戦後ブルドーザー工事、青木建設、大淀小松の要職を歴任し、最後は難しい中小企業診断士、技術士等の免許を取得し自宅に事務所を構え、手広くコンサルタントとして活躍していた。

昭和631120 機校のクラス会を大津島の回天慰霊祭と兼ねて行ったが、この時大山君が分隊会とゴルフ会を兼ねて関西でやろうじゃないかと計り、同席していた小暮夫人(室井の妹さん)にも話して了解を得、室井と小田には後で話すことにし翌年を楽しみにしていた。

平成元年2月19日大山君がコンサルタント業務のついでに我が家に訪問して来た。

当時我が家は改築中で手狭で泊って貰うわけに行かなかったが鍋をつついて遅くまで話し合った。この時前年に約束した分隊会ゴルフ会を是非具体化しようと云うことも忘れなかった。この時私が「日本海軍潜水艦史」を持っているのを知り借りて行った。

それから大山君の話し方には全く(とげ)がない。話しを聞いていて筋が通っていればすぐ「そやそや」と言って皆にも同調を求める。非常に協調的である。

又意外なことを聞いた時は眉を一寸つり上げ「ほんまか」と一寸おどけた様子をするが了解すると「うん、分った」と言っていつまでもこだわらないさっぱりしたところがある。

亀鳴くや潜水艦史借りて行く  

「そやそや」と刺なきばらの花のどと

「ほんまか」と事なげに言ふ麦の秋

 

大山君は通常極めて筆まめで年賀状、暑中見舞の他に年に3・4通貰っていた。年賀、暑中見舞は印刷であるが、添え書は必ず毛筆で達筆であった。私も全部には返信出来なかった。

平成元年8月11日入院と言うことも便りできいたが、軽い胃潰瘍だから手術も簡単で直ぐ回復できるだろうと言っていた。

平成元年11月6日退院、順調に回復しつつあると云う便りで、翌年の年賀状にもそろそろ大丈夫と云う添書があった。私も年賀状のあとに新築の家もできたので見学がてら積もる話をしようと云う便りを出した。

1月の終り早速大山君から便りが届いた。たまたまその葉書が残っていたので原文のまま紹介する。これも毛筆できれいに書いてあった。

 

前略、昨年は新築おめでとう御座居ます。

小生リハビリ中ですが、暖かくなったら出かけようと思っています。 広島の新宅教官のところへの訪問もしたいし、16分隊員4人でGOLFもしたいし、したいことがたくさんあります。機校卒業50週年全国大会等体調を整えたく努めようと思って居ります。

本年もよろしく

 

その後3月の半ば頃仕事の都合で上京するので、その時寄りたい旨の電話があった。4月の4日大山君が来て呉れた。風呂に案内した時体重が10キロ減ったが、だんだん増えてくるので心配ないと強気であった。懸案の分隊会ゴルフ会もその内できると思うので連絡すると言っていた。一泊して翌朝私は勤めがあったので先に失礼したが、大山君は私の家内とかなりおしゃべりをして帰って行った。

 

いつまでも終りあらずと下萌ゆる

戦に死和に生求め下萌ゆる

便りのせ生きる証しの涅盤西風

外に生内に死を決め貝寄風に

 

その後4月訪問の時世話になった礼状の中でまだ外に出ると少し疲労がでるようだが、体重も少しずつ増えているので心配なきようとのことであった。又7月には暑中見舞もくれたが相変らず体調は少しずつよくなっていると云うことで安心していた。又平成2年101819日舞鶴慰霊祭があった。私は1ケ月程の病気で参加できなかったが、大山君は参加したそうである。

平成3年の年賀状も添書は、一日一日快方に。向っているとなっていて安心していた。同年2月21日付の手紙を貰った。内容は「なにわ会関西旅行」の通知であったが、何時もなら一言添書があるのだが何もなくコピーした文字がひどく乱れていたのが気になっていた。

 

果てる前旅行通知を貝寄風に

絆てふ糸を大事に遠山火

 

私が旅行から帰って上田の便りを見て大山兄急逝を知り、脳天をぶちのめされた驚きであった。奥様のお話では今年から体重が減り出しおかしいなと云っていたそうで、2月4日入院、2月16日一旦家に帰り関西旅行通知のコピーをして発送を奥様に託し(日付は2月21日)病院に戻ったそうである。

後で分ったことだが一旦家に帰った折、当時入校50周年記念誌の編集を担当していた安藤君のところへも大山君自らの投稿があり、更に自分は最後まで闘病に頑張るが、クラスの諸兄も人生最後の総仕上げに奮励努力を期待する旨添書があったそうである。

そして2月26日帰らぬ人となった。

大山君の中に二つの大山が揺れていた。これまで表に出ていた大山と奥に潜んでいた大山とがぶつかり合っていたが、今年になって漸く奥に潜んでいた大山が一つになり死を直前にして責任と絆を大切にする行動に出たものと思う。改めて御冥福を祈る。

 

筆まめの友筆絶へり棚霞  
無二の戦友逝きて戻らず鐘

貝寄風にのりて便の途絶へけり  
友逝けど死なずに生きる二月尽

拾ふ骨意志太かりし桜冷え  
友ついに骨になりたり桜咲く

(なにわ会ニュース65号5頁 平成3年9月掲載)

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