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平成22年5月4日 校正すみ

弔辞(大山 隆三君)

森川 恭男

大山君、今日こうして君に告別の言葉を述べることになろうとは夢想だにしなかった。つい1週間前、2月21日付の封書を受け取ったばかりであったのに。今互いに幽明境を異にしょうとは。胸痛み悲しみの涙が堪えない。

君は昭和1512月1日全国の秀才の中から選ばれて海軍機開学校第53期生として入校されました。そして共に学び、共に励み、共に楽しんでから早や50年の歳月を経ました事が、つい昨日の様に思います。

君は極めて責任感の強い真面目な人柄でしたがそんな事をおくびにも出さず春風駘蕩の貌を取りながら極めて研究熱心な正に海軍士官として最適の人物でした。君は又剣道が強かった。得意の小手打ちにはよく苦杯をなめさせられた。その君と、卒業後、候補生時代は軍艦龍田で一緒に海上生活の第一歩を踏み出したが、その後潜水艦乗りの道を進まれ、若き幹部として太平洋戦争を存分に戦って来られ、持てる力を全部発揮せられて祖国日本の為に尽されました。

戦後も同様に新日本建設復興のために海軍の同志相寄っての「ブルドーザー」工事株式会社、現在の株式会社青木建設に奉職せられ重要にして欠くべからざる機電部長等幹部配置にあって活躍されました。君の持つ建設機械の整備技術は業界に於いても高く評価され、又その高邁なる見識は業界誌を通じて数多く発表せられ、日本に数少ない技術士として又、中小企業診断士として社会のために業界のために、多大の貢献をされました。

現在世界に冠たる経済大国日本の存在は君の様な努力家の汗と涙の結晶の成果であります。其の後、大淀小松株式会社に入社していただき私も君に色々教えてもらいました。その君がこれから悠々自適の生活を始めようとされた直後から病を得られ、手術後1年半、それでも関西なにわ会や53期級会のために幹事として献身的な奉仕をしていただき、唯々感謝の言葉もありません。2月20日入院中の病躯を押して医師に頼んで1日自宅に帰られ、「入校50周年記念誌」に投稿のための原稿を完成し、なにわ会案内の全てを終えて淳子夫人や御子息に指図されて遂に不帰の人となられました。

君のこの心を心として残された我々は世のため、美しい国のために働きます。幸いにして君は優秀なる二人の御子息に恵まれ、そして立派な御家庭を営んでおられます。

どうか残された御夫人とお子様達の御家族の幸福を見守ってやって下さい。

生有る者は必ず滅します。始め有るは必ず終り有る。これが自然の道です。唯生ある時、全ての自分を燃焼させて充実した人生を送った君の魂塊は神仏に必ずや加護されていると信じます。

ここに謹んで御霊前に哀悼の意を捧げてお別れの言葉といたします。

平成3年3月1日

海軍機関学校第53期 森川恭男

(機関記念誌192頁)

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