平成22年5月4日 校正すみ
大谷友之君を偲んで
泉 五郎
「友ゆきぬ 白鷺飛び去る 思い哉」
男の大谷君を白鷺に譬えては申し訳ないが、白鷺城で有名な播州姫路藩の名家に生を享けた大谷友之君を偲んでの一句である。
大谷君の容態が何となく心配で東戸塚の近所に旧宅を持つ渡邉君に、大谷君の様子を見てくれるように頼んでいたが、危惧は正に現実のものとなっていた。奇しくもその18日の未明、既に彼は息を引き取っていたのである。そして、ご葬儀は1月21日、彼の遺志通りご家族だけでしめやかに行われた。そんなこととは知らず、私は18日、大谷君宛にお見舞の手紙を出したが、その際文末に次の一句を添えた。
「山あれば 谷もある世に 友こそは
之ぞ嬉しき 至大の宝」
此の句が彼の最後に間に合わなかったのは、返す返すも残念で堪らないが、丁度その日に計らずもこの句作に呻吟(しんぎん)していたと云う訳である。
そして今度は改めて、慌しく大谷君追悼の文を認めることとなった。
然し困ったことに「なにわニュース最終号」締切り寸前である。本当は一応締切りのところを、こればかりは伊藤君に無理でも待って貰った。これも正に因縁という他ない!
思えば「なにわ会ニュース」の前身「会誌」1号、2号は既に諸兄もご存知の如く、実は彼、大谷君の大変な努力で発行されたのである。
戦後の貧しく、誰もが食うに懸命であった昭和20年代末期のことである。謙虚な彼は決して自分が目立つような言動は一切しない。1号、2号には夫々に私の名前も出ているが、私は精々原稿募集の外回りをしたに過ぎない。ご存知のとおり、当時の印刷は粗末なガリ版であった。そんな粗末なガリ版でもこれを編集、印刷、製本となると中々大変であった。それが随分と格安に仕上がったのは偏に、当時彼が勤務していた三菱化成の御威光によるものである。
当時は表紙一つでも良い紙が無く困った。これは東大の坂元先生が日本橋の紙屋さん迄一緒に出向いて顔を利かせて呉れた思い出もある。
然し、私が「編集者は順繰りが良かろう」などと言い出して、結局「会誌3号」は飯沢君にお願いすることになった。
結果は残念ながら次の4号を引き受ける人がなかつた為、遂に「会誌」発行は中断。
そして加藤君によって「バイパスニュース」が出されるまで、約10年間の空白時代が続く。
やる気は充分だった大谷君には、誠に返す返すも申し訳ない次第であった。
クラス会への貢献は会誌だけではない! 名簿編纂(さん)についても彼の果たした功績は容易なものではない。 私は彼こそクラス会再建の影の最大功労者の一人であると思っている。特に彼が作った手帳版の名簿は持ち歩きに便利で甚だ重宝させて頂いた。これにはクラス全員が大変な恩恵を蒙(こうむ)ったに違いない!
ただ天は二物を与えずと云うか、晩年の彼は健康に恵まれなかつた。然しその後も校正役という有り難くもない裏方で、会報発行に並々ならぬ協力を続けて呉れたことは周知のとおりである。彼の尽力に感謝の他はない。
学者肌の彼は本当なら軍人ではなく、むしろ研究者の道を歩むべきではなかつたろうか?
私事ではあるが、某大学のご教授であった彼のご長兄にも、戦後或る事で大変ご無理ご迷惑をおかけした。あれやこれや考えると本当に彼には公私共に感謝の言葉が無い。
もっと書きたいが彼は自身も実施部隊での苦労話を殆ど公表していない。今となっては扶桑、大鳳,天城、霞、そして最後は海竜部隊と、その貴重な体験談は残念ながら望むべくもない。
既に、会誌最終号も一応原稿は締め切りであるが、此の記事ばかりは伊藤編集長も追加掲載を快諾してくれた。
それにしても会報最終号の最後の最後に、彼の訃報や追悼記を掲載出来たのは何かの因縁であろうか。今はただ、衷心よりご冥福を祈るのみである。
大谷君よ! 加藤と一緒に暫くお待ちを!
又そちらへ行つたら「よろしくxネガx」
(なにわ会ニュース100号125頁 平成21年3月掲載)